ご存知の通りうちは貧乏ですので
蝉の鳴き声すらかき消されるようなうだる暑さの昼下がりのこと。
風鈴の音がひと時の静寂を作り出した刹那、高らかな金属音と歓声が聞こえた。
『どうだ!これは……伸びて……伸びてぇ、入った‼入りました。大阪樟仁高校四番片山、八回裏に起死回生の同点ホームラーーン‼』
つい先日、母さんが大喜びで購入してきた超薄型テレビに映る夏の甲子園。その実況アナウンサーが高らかに実況する。
『本大会優勝候補の大阪代表大阪樟仁高校の四番が、本大会ナンバーワンとの呼び声高い神奈川代表、坂浜高校のエース坂上を捉えました!追い込まれた後の難しい球だったと思うんですが、どうでしょう解説の羽賀さん?』
興奮冷めやまない実況アナウンサーは熱気を帯びた口調のまま試合のコメントを隣の解説者に話を振った。
この試合の解説をしているのは県内随一の有名私立校の監督である羽賀幹夫だ。
「お、ここで羽賀監督、なんて答えるか見物やな」と横ヤジが入る。
『いや~、今のは打った片山くんを褒めるしかありませんね。なにせ前の球で外へのスライダーを見せられてからの胸元への直球ですからね。バッテリーの攻めは素晴らしかったと思いますよ』
そんな煽られるようなヤジをテレビ越しに受けた羽賀は、特徴とも言える長く伸びた顎ヒゲをさすりながらそう答えた。
「アホ言え!今のはバッテリーの攻めの甘さや!前の打席にインコースええ当たりされてんねんから、もう一球外で良かったやろ。俺やったらコイツは100%外勝負や。全く、俺に解説やらせんかい」
そんな羽賀のコメントはどうやらお気に召さなかったヤジを言い放った張本人。両足を投げ出しながら苦言を呈した。
同じようにこの試合が始まってからずっと上から目線で横口を挟み続けるのは、同じ七種中学野球部員の坂井田春輝だ。
――いや、正確には同じ野球部『だった』というべきか。
何故なら我ら七種中学野球部は優勝候補と言われておきながら地方大会の初戦であっさり負けて引退を余儀なくされたからだ。
春輝はその肥満ともとれるがっしりとした体を浜に打ち上げられた鯨のようにくねらせながら、その低い声をさらにこもらして言い放った。
「なぁ……、俺ここにこの試合の二回表からいんのに、ポテチかジュース、もしくはその両方が出てこぉへんのは、ちょっと問題ちゃうか?」
元々でかかった春輝の図体はここ数か月で更にグレードアップしている。
ただ、部を引退した野球人が自堕落な生活を送り、見違えるように肥えてしまうことなど些細な問題に過ぎない。
「ご存知の通りうちは貧乏ですので」
ため息混じりに呟く。
「俺、前から思ってたんやけど食べ物への欲って、AV見たいって欲に勝てる唯一の感情とちゃうか?」
文脈というものを一切弁えていない春輝は、真剣な眼差しで心底どうでもいいことを口走る。
『食欲』、『性欲』と言わないあたりが彼の知能レベルを克明に示唆していることなど本人には知る由もない……。
「……夜通しシコっとけや。――ジャンボ」
呆れるような口調で春輝の行動に一言添える。
春輝は最近『ジャンボ』という、中々に不名誉なあだ名を元野球部員たちから獲得していた。
「それさぁ、なんかあんま嫌な気ぃせんのよ。むしろ肥えていくの肯定してくれてるみたいに感じるわ」
春輝が両手を前に出しながら同意を求めるような口調で言う。
――心底どうでもいい。
おそらくそんな感情が顔に出たのだろう。
春輝は突然、
「そんな無関心やめてやぁ~」
と、言って重たそうに体を起こし、ベッドに向かって飛びかかってきた。
「―――っ‼おい、おまっ、止めろぉぉ‼‼」
必死の抑制も虚しく、飛びかかってきた春輝がベッドの面と接触した途端、春輝の自重と飛びかかったことにより上乗せられた運動エネルギーにより、『予想通り』木柱のベッドは悲鳴を上げてしっかりと壊れた。
「あれ?前やったときは大丈夫やったのに…。まじか!」春輝が目を丸める。
自堕落な生活を送った元野球部員が見違えるように肥えてしまうことなど些細な問題に過ぎない……ことはないのかもしれない。
「弁償な?」ぼそりとつぶやく。
「体で払うから許してくれや」笑いながら春輝が言う。
その体で破壊したベッドがこちらです…、と、言いたくなったが、ひとまずベッドから起き上がることにした。
そのまま視線を窓の外に送ると、向かいの家の花壇に咲く満開のひまわりが見下ろせた。
網戸一枚挟んだ外界からは、自身の生命力を必死に訴えようとする蝉の鳴き声がうるさいくらいに聞こえてくる。
右手に持っていた団扇で自身を仰ぎながら春輝の方に向き直った。
「とりあえず償いとして自販機でジュース買ってこい」
と、そう少し強めに春輝に言った。
多少は申し訳ないと感じたのか、「へいへい」、と言って春輝は腰を上げ部屋を出ていった。
春輝の出た後の部屋は妙にがらんとしていて、テレビから聞こえるブラスバンドの応援と実況の声が部屋を包んでいる。
『――さぁ、第94回全国高等学校野球選手権大会、大会第14日目の準々決勝第二試合もいよいよ大詰めを迎え、同点のまま九回の裏、大阪樟仁高校の攻撃を迎えます』
机の前で立ち止まり一番上の引き出しを開ける。
―第二回七種中学第三学年対象進路希望調査―
3‐3 14番 富瀬和葵
第一希望( )第二希望( )第三希望( )
テレビの奥で繰り広げられる高校野球の祭典。
その映像に目をやった後、引き出しの中の『それ』を持ち上げて視線を落とした。
進学して野球をすることは決めていてもどこの高校でするのかはまだ決めていなかった。
――否、決められないでいた。
無意識に深いため息が口からこぼれ落ちていたことに気付いた。
「……どうするべきなんやろうなぁ」
そう一人呟きながら手に持っていた用紙を引き出しに戻そうとした。
するとその途端部屋のドアが勢いよく開けられた。
それを受けて和葵は慌てて引き出しを閉めた。
「ほれ、買ってきたぞ和葵~。ってあれ?どないしたんや?そんなとこに突っ立って?」
「なんでもない。それよりジュース」
慌て気味に振り向いた和葵がこれ以上の追求を拒むように手を差し出す。
「ほい。お前の好きなアイスコーヒーやで」
「――なんで炭酸ちゃうねん‼」
と、そう言おうとしたその時、再び甲子園のスタンドが湧いた。
『入った~‼九回裏二死ランナーなしからのサヨナラホームラーーーン‼‼』
「……すげぇな。甲子園ってのはなんかあるわ。しかし結局樟仁が準決勝進出かぁ。浜高やと思ってたんやけどなぁ~。あの浜高の坂上はいくら樟仁でも攻略できんと思ってたのになぁ」
あまりに劇的で突然の展開だったので、二人そろって暫く黙り込んでしまったが、先に春輝が驚きの感情を露にしながら口を開いた。春輝は両手を頭の後ろに持っていって伸びをしている。
確かに和葵も同じように驚いていた。
しかし和葵が驚いたのは樟仁が勝ったことでも、プロ注目の坂上が打たれたことでもなかった。
――彼が驚いたことは打つのではないかと思っていた選手が本当に打ったというその事実に対してだった。
前の三打席ヒットはなく、いい当たりすらなかった。特別注目選手ではなかったのだが何故か無意識にそう思っていたのだ。
和葵にはどうしてそう感じたのかその理由が分からなかった。
――打ったのは七番ライトの小柄な選手だった。