お金の話
薄暗い道の中、私は黄金色の月明かりを頼りに学校へ向かって歩いていた。
学校は割とすぐ近くに見えているのに、なかなか辿り着く事が出来ないでいる。まるでこちらが近付けば、その分だけ遠ざかるみたいに。
それならちょっと走ってみようと、力を込めて地を蹴った。
瞬間、蹴り出した地面は粉砕されて、その強烈な跳躍によって身体は弾丸の如く中空を突き進む。
大き過ぎる一歩は学校を優に飛び越えてしまい、その先の大穴へと飛び込んで私は――。
――眠りから目覚めた。
「おわーーーーっ!?」
ばね仕掛けのおもちゃのように上半身が起き上がる。
こんなに勢いよく目が覚めたのは生まれて初めてかもしれない。
寝ていた場所はベッドがぎりぎり三つ入っている狭い部屋だった。
「おはよう。寝起きから元気なんだね〜」
羊のシンディちゃんが隣のベッドで座っていた。のそのそと四つん這いでベッドからベッドへと渡り、窓側へ移動する。
そのままカーテンを引くと窓越しに暗い空が見えた。街頭の明かりが濃い霧が混じり合い、オレンジ色のグラデーションになって暗い空へ向かい伸びている。
「もう朝だよ」
振り返ったシンディちゃんの顔からは化粧が落ちていた。服装もラフな感じになっているので、同じようにここで寝てたのかもしれない。
「あ、おはよ……。これで朝なんだ……?」
「朝の9時だね~。オリビアちゃんがジンを一気飲みしたのが昨日の20時くらいだよ」
「13時間も寝てたのか……」
あのお酒のせいかな。それにしても壮絶な体験だった……。
「そういえば盛大に頭打ってたみたいだけど、大丈夫〜?」
シンディちゃんが心配そうに覗き込んでくる。やっぱり化粧してない方が可愛い。
「大丈夫みたい。 ありがとう」
頭を触ると後頭部にこぶが出来ていた。押すとちょっとだけ痛むけど、心配かけてどうにかなるわけでもないしね。
「よかった〜。 それじゃあ、そこの水差し使っていいから。 身体拭いたら来てね」
そう言うとシンディちゃんは寝室から出ていった。
本当はお風呂かシャワーがよかったけど、きっとそういう設備は無いんだろうなと思う。ひどく古びた家だし。
取り敢えず言われた通りに、水差しと一緒に置いてあったボロ布に水を染み込ませて身体を拭いていく。
ひんやりとした感覚が体にしみて、徐々に頭を覚醒させていった。
どうやって元の世界に戻ればいいのだろうか。よくある怪談話なら、なにかヒントくらいは最初に用意されていて、そこへ向かって進んでいったりするのだろうけれど……。
今は何をすればいいのかまるで見当もつかない。
寝室を出ると、大きなテーブルのある部屋に繋がっていた。昨日、私が卒倒した部屋だ。
「やあ。おはよう、具合は大丈夫かい?」
「おはよう、オリビアさん。 昨日はごめんなさいね」
ゴルドマンさんとリアンさんが向かい合って座っていた。他の人たちはいないみたいだ。
「おはようございます……だ、大丈夫です」
正直、あの眼のことを思い出すとまだドキドキする。
「それなら良かった。 朝食を取りながらでいいので、ちょっとお話をしよう」
リアンさんの隣の席にお皿が置いてあったので、そこへと着席する。
ゴルドマンさんがテーブル中央の籠に積まれていた果物らしきものを手に取り、色々な角度から見たあと渋い顔をして籠に戻す。それを2回ほど繰り返して、結局私の皿にりんごを置いた。
「……」
反応に困っていると、ゴルドマンさんはそのまま話し始めた。
「少しハリィから聞いたんだが……オリビアさんはもしかしてお皿の上からいらした?」
「おさら……?」
りんごの乗った皿に視線をうつす。
「ああいや、上層で暮らしてた方かなと。来る途中、大きな塔が見えたでしょう」
ここに来る途中もそうだし、穴に落ちて都市を俯瞰したときにも巨大な塔は常に見えていた。うっかり見逃すにはあまりにも大きすぎる存在感だ。
「ありましたでっかい塔。ぐるっと街が乗ってるプレートが二枚あるやつですよね……ああ、それでお皿ですか?」
「そうとも。しかし、その様子じゃ上層民というわけでもないようだ」
ちょっとだけ固くなっていたゴルドマンさんの態度が緩んだ。上層民という言葉は、単純な位置という意味以上に畏怖の念が込められているように思えた。
「まあ訳ありのようだし、これ以上過去のことを詮索するのはよそう」
私が元いた世界の話を既ににハリィ君から聞いているとは思うけど、あまりにも荒唐無稽な話だから"訳あり"と判断されたんだろうなと思う。
「とにかく、君は行倒れになっていた。それはこの都市で生きる力が備わっていなかったからだ。生きる力というのは、つまりはお金を稼ぐ能力だ」
なんだろうこの感じ。無くなりかけていた日常が戻ってきたかのような……。
「いいかねリアン、君もだぞ。聞き飽きた話かもしれないが、危険を冒した以上は再教育しなければならない。初心にかえってオリビア君と共に基本を学ぶように」
「はーい。聞いてるわよー」
あー、分かった。授業だこれ。
「とは言っても、オリビア君がどこまで知識を持ち合わせているのか分からないと進めようがない。 まず、これは読めるかな? 分からなくてもいいよ。ちょっとしたテストだと思って」
そう言うとゴルドマンさんは懐から一枚の紙を取り出して、こちらへ見せてきた。
何やら賑やかな文字で書かれたお店の広告のようだ。
「えーっと……〝 帽子・ハンカチ・古着・銀匙・アクセサリー・空き瓶やベーコン、なんでも買い取ります。土曜お休み。魚介類はNG、半ペニーも払いません〝……ぺにーってお金なのかな?」
更には中央に大きな挿絵が描かれていて、男性が美味しそうにケーキを食べている。すぐそばに吹き出しが出ていて、「たまたま捨ててあったハンカチでこんなに甘いケーキが食べられるなんて!」と喋らせている。
「わあ、文字が読めるのね。素敵」
「いや、しかし文字は読めるのにお金が分からないのか? 本当に不思議な人だ」
ペニーなんて初めて聞いたぞ……。ドルがだいたい100円くらいっていうのは知ってるけど。
「よし、じゃあお金から学んでいこうか。これがこの広告で出てきた半ペニー硬化」
ゴルドマン先生がテーブルに銅のコインを置いた。
それを手にとって見てみると半ペニーと書かれていて、表には獣の耳を生やした女性のシルエットが浮かび上がっている。10円玉によく似ているかも。
「その絵は女王陛下だよ、上のプレートに住んでいるんだ。そしてその半ペニーコインが2枚集まると1ペニーになる」
今度は半ペニーコインをそのまま少し大きくしたような銅貨が出てきた。1ペニーと書いてある。
案外覚えやすいかもしれない。そもそもお金は頻繁に交換されるのだから、覚えやすくて当たり前なのかもしれないけど。
「そして次に、これが1シリングで――」
今度は銀のコインを机に置いた。銅貨よりもサイズは小さいけれど、重さはあんまり変わらない。銅貨が10円ならこれは100円みたいなものだろうか、それなら。
「1ペニーが10枚で1シリングになるんですね!?」
「いいや、12枚だよ。1ペニーが12枚で1シリングだ」
どや顔になっていたのもあって、かなり恥ずかしくなってしまった。
ちらっと横目にリアンさんを見ると、にこにこと笑顔で私達のやり取りを見ている。
「12ぺにーで1しりんぐ……12ぺにーで1しりんぐ……」
とりあえず声に出すことで頭に刷り込んでいく。
「ああ、ペニーと呼ぶのは半ペニーか1ペニーの時だけで、それ以上はペンスと呼ぶんだよ、複数形だね」
どんどん机に追加されていく何たらペンスコイン達。日本円と違ってあまりにも種類が多いので形で覚えるのは諦めた。一応どのコインにも数字が書いてあるのでそれを読めばいいのだ。
「そしてこれがソブリン金貨」
「……!」
ゴルドマン先生がそーっと机に1枚の金貨を置いた。これまでのコインとは別格の輝きを放っている。
リアンさんの目の色が変わってるような気がする。ちょっと怖いので視線は合わせないでおこう。
「12ペンスで1シリングだから12シリングで1ソブリンですか?」
「20シリングで、だな。ソブリンはコイン自体の名前だから、金額はポンドと呼ぶんだよ。つまり……12ペンスで1シリング、20シリングで1ポンドだ。あ、忘れとった、2ファージングで半ペニーとなります」
ぐわー! だめだ。覚えきれない! もうおうちに帰りたい……。
頭を抱えているとリアンさんがものすごいスピードで机に乗り出した。
「おおっと」
リアンさんは獲物を捉える蛇のような動作で音もなく金貨へ手を伸ばしたけれど、すんでのところでゴルドマンさんは金貨を懐に戻してしまった。
「ちっ……」
「なかなかいい線いっとるじゃないか。仕事場をかえてみてはどうか」
「いやよ。私は真っ当に稼ぐんだから」
怒るかと思ったけどゴルドマンさんは上機嫌のようだ。なんだかよくわからない二人である。
その後ソブリン金貨以外のお金とにらめっこしながら3人で過ごした。
あっという間に時が過ぎ、時刻も夕方ほどになると、どたどたと賑やかな足音が聞こえた。
「ただいまー! あ、お姉ちゃん起きたんだね」
「さすがに丸一日寝てるわけないだろ。さて爺さん、どれくらい教育したんだ?」