家族と燃える森
ハリィ君に案内された家の内装は、陰鬱とした外観よりは幾分マシではあるけれど、それでも少し小汚かった。
擦り切れて色がくすんだ絨毯や壁紙に、ぼろぼろの家具。部屋のあちこちに吊り下げられた衣類や布束からは、よく使い込まれた絵の具のパレットみたいな匂いがする。
それと何よりも暗かった。大きな部屋に着くまでは、バーニー君が持っているランタンしか光源がなくて、散乱したガラクタにぶつかったりして何度も躓きそうになった。
そんな世界の大きなテーブルが置いてある部屋で、私の自己紹介が行われようとしていた。
「オリビアだ。俊足のオリビア」
ハリィ君がまたかっこいい二つ名をつけて私を紹介してくれた。
皆の期待するような視線が私に浴びせられて心拍数が急上昇する。
「あ、は、はい! オリビア・秋葉です、よろしくおねがいします」
そのまま流されるように、芸名めいた名前で挨拶をしてしまった。私の苗字はもはやどこにもない。
現在この部屋には、私を含めて男女それぞれ3人ずつの、合計6人が集まっている。
お爺ちゃん一人を除いてみんな若い。多少前後はするけれど、私とほとんど年が変わらないように見えた。それでも私よりもしっかりとした面構えというか、堂々とした雰囲気から確かな強かさを感じる。
「ようこそ、お嬢さん。わたしはここの家主のゴルドマン。身寄りのない子供達に生活をしていく為の知恵を授けているよ。親しき家族として歓迎しましょう」
いかにも人の好さそうな、頭の禿げたお爺ちゃんだ。実際には被っていない帽子を脱ぐ仕草をし、紳士のように畏まった挨拶を茶目っ気たっぷりに見せてくれた。
獣の耳は生えていないようだけど、曲がった腰と灰色の細長い尻尾は、ネズミを彷彿とさせる特徴だと思った。
「じゃあ俺も改めて。ハリィだ。よろしく」
いつのまにか帽子を脱いでいたハリィ君の頭には獣の耳が生えていた。犬耳のように見えるけど、あの鋭い目つきからして狼の方が正解かも。
「ああ、やっと挨拶ができるね! 僕はバーニーさ。同じうさぎだね」
器用にぱたぱたと大きなうさ耳でお辞儀をするバーニー君。屈託のない笑顔が眩しい。
「シンディよ。 よろしくね、オリビアちゃん」
シンディちゃんの髪の毛はもこもこで、顔立ちもやっぱり垢抜けない感じだ。それなのに真っ赤な口紅をしているものだから、何というか、ちんちくりんな感じがする。ごめんね。
おっとりとしていて無害そうなオーラを出していてもこもこなので、暫定羊のシンディちゃんとしよう。
そして、最後の一人の女の子と目が合った。
「…………」
何も言わずに、じっとこちらを見つめている。可愛らしい大きな眼だ。
「…………」
無口な子なのかな。
間が持たないと思って私の方から声をかけようとした瞬間。眉間を射抜かれたかのような強烈な感覚をおぼえた。
「あ、あの……え」
可愛らしかった眼、その瞳孔がぎゅっとに縦長に窄まっていく。
彼女は薄く笑い、口からは二つに割れた舌先を覗かせていた。
「…………ふふ」
「ぅ……あ……」
私はというと、綺麗で恐ろしい彼女の眼から視線を逸らせないでいた。
彼女は捕食者だ。それなら私はもうとられても仕方がない。
そんな由来不明の諦観に思考が飲まれていく。
6人いたはずのこの部屋には既に私と捕食者しかいない。気付けば眼前数センチ先まで彼女は音を立てずに迫っていて
「リアン! 何をしとるんだ!」
ゴルドマンさんの一喝で視界が元に戻る。私と彼女の距離は最初から変わっていなかった。
「あ、ごっごめんね! つい癖で……」
リアンと呼ばれた人のさっきまでの物凄い殺気は嘘のように無くなり、代わりに申し訳無さそうな表情で私を見ていた。
もう目を合わせても何ともない。
「そんな癖があるものか。 リアンよ、何があったのか正直に教えなさい」
先程とはまた違う修羅場になっていた。好々爺みたいなゴルドマンさんが人が変わったように怒っている。
「……新しいお客さんを取ったの。彼は睨まれるのが好きみたいで毎回要求してきたわ。私は言う通りにして……もう4シリングまで釣り上げたんだから。変態だけど上客よ」
「その対価がスナーク化か? このまま続ければどうなるかはお前自身よく分かっとるはずだ」
私は完全に蚊帳の外になっていた。周りを見ると、皆神妙な面持ちで会話の行方を見守っている。ハリィ君が私の視線に気付いてウィンクをしていたけど、ちょっと意味がわからなかった。
「とにかく、もうその地区には顔を出すな。それと明日から三日間は家から出ないように」
「はぁ〜〜〜……。せっかく稼ぐチャンスなのに」
「身体が資本だと言っとるだろうに。無茶をして今稼いでも後から絶対に損をする。世間はそういう風に出来とるんだ」
どうやら商売のお話みたいだった。同じくらいの年なのに立派だなぁ。
場がひと段落つくと、また私の方に注目が戻ってきた。
「すまなかったねオリビアさん、今夜は歓迎会だというのに。 そうだ、なにか食べたいものはあるかな?」
またにこにことした好々爺に戻るゴルドマンさん。ネズミだけど、ある意味たぬきっぽいかもしれない。
「あ、いえ大丈夫です、来る途中結構食べたので……」
やたらとハリィ君が食べ物を投げてよこしてくれていたので本当にお腹いっぱいだった。パンばっかりだけど。
「そうか。まあ皆もどうせ何処かで立ち食いしてきただろうから、優雅な晩餐会という体にはならんだろうと思っとったわ」
がははと笑うゴルドマンさん。私もとりあえず愛想笑いをしてみたけれど、他の皆は真顔だったので何だか恥ずかしくなった。
「こういう時は遠慮せずにがんがん攻めていかないと、あとで後悔するんだよ〜」
盆を持ったシンディちゃんが水の入ったコップをくれた。皆に渡しているみたいだ。
「じゃ、じゃあステーキ……とか?」
一瞬その場が静まり返る。
ゴルドマンさんが驚いてるのか困ってるのか、何か考えているのか不思議な表情で硬直している。それを見て他のメンバーはにやにやと笑っているようだ。
あ、これは失言してしまった感じか……?
「あ、あはは! うそです! 本当におなかいっぱいなんです」
「いや、ステーキ。良いぞ。今は用意できないが、そのうち――」
「やったー!」
「おお! でかしたぞオリビア」
それまでの雰囲気が決壊したかのように騒ぐ子供たち。おじいちゃんもにこにこしている。ステーキはここではすごい贅沢品なのかもしれない。
和やかな雰囲気になり緊張もほぐれたので、ひと段落つけようと水の入ったコップへと手を伸ばした。
緊張が続いてたのもそうだけど、パンばかり食べていたので喉がカラカラだった。
それでコップの中身を一気に喉奥へ流し込んだのが失敗だった。
「ごくっ……」
「あ、おい」
ハリィ君が何か言っている気がするけど、私は既にそれどころじゃなくなっている。
この時、私の体感時間は大きく引き伸ばされた。それはもう1秒が10秒に感じるくらいに。
有り体に言えば走馬灯だ。
ただし見えるのは輝かしい想い出なんかではなく、今私の身体に起ころうとしている壮大な化学反応を元に創造された心象風景だ。
まず最初に覚えた光景は、森だった。
飲んだ液体は雨上がりの森を丸ごと内包したかのような芳醇な香りの――。
と感じる間も一瞬で、その森へ強烈な辛さを伴った熱波がきた。
常識を逸した辛さの風が舌と喉を焼きながら鼻を通り抜ける。
胃に落ちた熱波の原因は、全身へ灼熱の風を送り続けている。
既に森は燃えていた。炎は次から次へと木々を飲み込み、巨大な炎の渦となって全てを焼き尽くす
現実世界と、一瞬で身体を巡った衝撃の世界との区別が曖昧になっていく。
椅子に座っている感覚はなくなり、大火からほとばしる火の粉のような浮遊感を覚えて――。
意識が途切れる直前、後ろの方からごんっという音が聞こえた気がした。