異形都市
どこまでも暗闇の中を落ちていく。
黒色が広がるだけの何も無い空間は、次第に私から時間や方向の感覚を奪ってった。
私は今、下へ落ちているのか、上へ落ちているのか。
それとも横へ落ちているのか、そもそも落ちていないのか。
纏まらない思考が時間感覚を麻痺させ、足を滑らせてからどれくらい経っているのか見当がつかなくなっていた。
ふと、唐突に。
遥か頭上から淡い光が降ってきた。
見上げると、霧に覆われた星空のような光景が目に飛び込んできた。淡く輝く粒が視界に収まりきらないほどに広がっている。
そして、ゆっくりと近づくにつれ、それが星空などではなく、様々な建物が入り乱れる巨大な都市である事に気付いた。
混乱の限界を超えた私の頭は、もうある意味冷静になっていた。ただ、ぼーっと目に入る風景を観察しているのみである。
頭上に広がる都市はオレンジ色に点々と発光し、漂う霧がそれを柔らかく輝かせ、まるで灯籠流しを見ているかのような、そんな幻想的な風景だった。
都市のシルエットが霧越しでも良く分かるようになってくると、とにかく目をひいたのが都市の中心にある巨大な塔だった。他の建物の何十倍もあるかというようなサイズ感だ。都市から生える塔の先端は霧に隠れていて、全長はつかめない。
大小二枚のプレートが塔に貫かれるような形で、その周りをぐるりと囲っている。
どちらのプレートにも街が乗っていて、ことさらオレンジ色が明るさを増している。
都市はゆっくりと私の方へ近づいてきて、やがてそのまま地面が頭にこつんとぶつかった。
「お、おお……?」
そして頭が地に着いた瞬間、思い出したかのように重力が発生する。
「あ痛ー!?」
私は背中からびたーんと地面に打ち付けられた。
激しく腰を打ったせいか、しばらくの間は自分が降ってきた霧がかかった空を見上げる事しか出来なかった。
それでも頭は動くので、状況整理を試みた。
うさぎ男を追いかけ、穴に落ちたら見たこともない世界だった。うーん。
こんな荒唐無稽な話があるだろうか。
……ああ。もしかしたら次は喋る猫か、あるいは歩くトランプの兵隊かな。
大の字になったまま放心していると、頭の上側から声をかけられた。
「すそてちぬひ ふめら はむぐむむむぐ」
顔をそちらへ向けると、手押し車を持った顔の青い(本当に青い!)魚みたいな顔付きのおじさんが喋っていた。
「え? え?」
「さねふてしか ののの てけめすれ?」
全く何を言っているのか分からない。外国語とか方言とか、なんというかそんなレベルじゃない発音だ。
腰が痛くて逃げる事も出来ず、ただ慌てる事しかできない。
すると魚顔のおじさんは手押し車を漁り、くたびれた魚を取り出して尻尾を掴んだままぷらぷらと振り、私に差し出してきた。
「けひてらま ぬめぬめ はつほほ!」
「い、いえ! 結構です」
ぶんぶんと首と手を振って拒絶の意を表すと、おじさんは首をひねりながら魚を手押し車に乗せて去っていってしまった。
悪い人では無かったようだけど、明らかに異質だ。
そもそも、道を行く人を良く見ると皆どこかおかしかった。
犬の耳が生えていたり、ふさふさの尻尾が付いていたり、カマキリのような顔をしている人や、馬みたいな下半身の人もいる。共通しているのは、みんな人間のように服を着て、人間のように振る舞っている事だった。
正直、気が狂いそうだ。こういうのはお茶の間や寝る前に読む本とかであれば楽しいで済むかもしれないけど、実際に体験する身としては自分の頭が心配になってくる。
考えている内にとりあえず動けるようになったので、どこか帰り道がないか探索してみることにした。
しばらく歩いて行くと、オレンジ色の街灯の数がどんどん増えていき、それに比例するように人通りも激しくなっていった。
乱立する建築物が道をくねらせ、悪質な迷路のようになっている。
人々の喧騒は相変わらず何を言っているのか全く理解不能な言語で、一歩行くごとに不安と寂しさが増してく。
そして、それ以上に耐え難い強烈な空腹感が私を襲うようになっていた。
「なにこれぇ……お腹空いたぁ……」
朝ごはんはしっかり食べてきたはず。味噌汁と、卵と、きゅうりと大根と、白いご飯と……。ああだめだ、余計にお腹が空いてきた。
ちょうど、市場のような場所を歩いていた。大きなテントの下に並べられた木製の台の上に、たくさんの色々な食べ物が乗っている。
形は不揃いだけど、鼻腔をくすぐるきつね色のパン。大きなホールチーズや肉厚のベーコン。真っ赤なりんごに、それから、それから……
「はぁ…はぁ…っ」
一瞬、視界がブラックアウトするように小さく狭まり全身から力が抜けていく。
ふらふらと近くの石畳へと崩れるように座り込んだ。
何も入っているわけないと分かっていながら、無意識の内にブレザーのポケットをまさぐる。
財布は鞄ごと置いてきてしまった。
手に当たるゴツゴツとした感触にはっとして、それを取り出してみる。
見覚えのない懐中時計だった。古い十円玉のような色の蓋を開けると、中に小さなメッセージカードが入っていた。
カードには、「友達の証。無くさないように」とだけ書かれてある。あの男が入れたに違いない。
……この時計をパンと交換してもらえないだろうか。
立ち上がれるほど足に力が入らない。
もはやこの空腹感は命にかかわる。恥ずかしいけど四つん這いでパンのお店へ行こう。
そう決心しかけた時、こちらを覗き込んでくる人がいた。
「あすたむろて ささね へすたろ?」
丸い帽子を被った、金髪の少年。
身長的に私と同じか少し年下くらいだろうか。もっと大人が着るような、上品なぼろぼろのコートを見事に着こなしている。
あどけなさを残しているが端正な顔立ちで眼光が鋭く、見た目以上の年齢を感じさせた。
相変わらず何を喋っているのか分からないけど……。
「さはたうげ」
何事かを短く言うと、少年は小ぶりのりんごをこちらへ渡してきた。
手のひらにすっぽりと収まるサイズのりんごは、赤と緑の綺麗なグラデーションで、触るとひんやりと冷たく、身がよくしまっているのが分かった。
たまらずに私はりんごへ噛り付いていた。
果肉から噴き出る、酸味と甘味の効いた濃厚な蜜が、喉元を通る度に大きな幸福感で身体を満たしていく。
果肉はしゃりしゃりと歯応えが良く、気付けば芯を残して全て食べてしまっていた。こんな美味しいりんごは食べた事がない。
我に帰ると、少年は私が食べ終わるまでそこを動かずにじーっとこちらを見ていた事に気が付いた。だいぶ恥ずかしい。
「あ、ありがとう……?」
言葉が通じているかは分からないけど、とりあえずお礼を言ってみる。
「どういたしまして」
「……え?」
ここへきて初めて意味のわかる言葉が聞けた。
というか、周囲の喧騒もよく耳を傾けると、
「二つで1ペニー! 二つで1ペニーだよ!」
「ああ、おじさん。 この真っ黒焦げはタダでいいよね?」
「汚い手で触るんじゃないよ、戻さなくていいから代金を払いな」
「そこのはやめておけよ! 腐ってるのを塗って誤魔化してるんだ」
みんな意味のわかる言葉で喋っている。
鬱積していた不安感も薄れていた。りんごを食べた事で、まるでこの世界に認められたかのような、妙な安心感があった。
「もっと食べたくないか? アテがないならついてこいよ」
「う、うん」
少年の手を借りて起き上がる。
私はよく纏まらない思考の中、黄泉竈食ひという言葉を思い出していた。