はち
清が史実通りなら払えた賠償金(?)を払えなかったのは、私のせいらしい。どうも、カキやホタテを売りつけまくったりロシアが極東に圧力を高めていることもあって国家予算がヤバいそうな。
……そっかーそんなに売りつけてたんだあ、とベッドの上で現実逃避した私を責めないで欲しい(死んだ目)。
明治政府は流石に反省したのか、それとも不平等条約を撤廃してきた岩倉具視が農業や林業の専門家を欧州から引っ張ってきたお陰か、あまり私に無茶ぶりをしなくなった。
民間では、『征韓論』という朝鮮半島を日本の植民地にしよう、という運動が盛んになってたんだけど、台湾が日本領になったことで一気に下火になった。
というのも、台湾は朝鮮半島と同じく、地政学的な要地ではあるものの開発が困難な地域であり、夢を見た数多の起業家や開拓者が台湾に渡っては病気や慣れない環境で倒れて日本にとんぼ返りしてくることから、「植民地って要らなくない?」となったのだ。
結果、台湾は二十年後をめどに清に帰属するか、日本に留まるか、はたまた独立するのかを台湾人の投票で決めることとなり、同時に日本国内でも選挙法やしっかりした憲法を作ろうという運動が盛んになってきた。……だから早くない?
そんな中、私や奥州屋はというと、琉球藩、いや沖縄県の知事に頼まれて、ついでに明治政府からの無茶ぶりで、沖縄に産業を興すべく動いていた。
とりあえず海ブドウの養殖場を増やし、ブタを中心とした畜産業に投資。果樹園を造った。これ以上は無理。というか水がなさ過ぎる。貯水池を造らせているみたいだけどさ、絶対それだけじゃあ足りないから。
そうして愛しの仙台に帰り、旭川の開拓計画を立ち上げる。十勝平野の開拓で得たノウハウを利用しつつ、ハッカ畑や果樹園を造る計画だ。とりあえず五千人規模で人員を募集するとあっという間に埋まったので、次々に送り込む。
同時進行で樺太の『農園』を拡大し、志摩半島で真珠の養殖成功の知らせに狂喜乱舞していると、1874(明治七)年、大ニュースが世界を駆け巡った。