ろく
後書きに解説あり。
本当疲れた。イギリスの人達は商談をしたがるし、ロシアの人達はこの手法をロシアに持ち帰れないか相談に来る。ついでに起業家な元藩主達から救助要請が来るし、明治政府からは良い農業の振興策が無いかとせっつかれる。本当、疲れた。
イギリスの人達とはワイナリーのワインを売る契約を交わし、ロシアの人達とは樺太に『試験農園』を造る約束をして早速造り。起業家な元藩主はアドバイスを送りつつあまりにも酷かった幾つかの企業は買収して立て直し。明治政府にはとりあえず林業見直せと言っておいた。
部下達の疲労抜けぬまま年は明けて西暦1869(明治二)年。今度はフランスとカナダから視察団が来た。
「列強は我らを過労死させる気か!?」
部下の一人がそう叫んだけれど、全く同意見。これが終わったら社員増やして有給休暇実装するんだ。
今度の視察団もなかなか食いつきが良かったけれど、方向性はロシアと似通っていた。
何と、カキの養殖場を造って運営して欲しいと言われたのだ。
「列強は我らを過労死させる気か!?」
今度は私も叫んだ。おまけに明治政府からも『お願い』され、断るに断れず。
十勝平野の開拓に集中したいのに、部下をカナダ西海岸へ送り、私自身はフランス領インドシナへ船で向かった。文通友達となったマルクスには一応そのことを手紙で送っておいたけど入れ違いにならないかなあ。
「あちい……」
サイゴンの港に降り立ち、フランス人から簡単な歓待を受けた翌日には、あちらこちらの海岸の調査に赴いた。
予算やら現地の人のお願いから、ムイネーにフランス領インドシナのカキ養殖場一号を造り、ついでに現地で食べた海ブドウがおいしかったので、その養殖の研究所も造った。
基本的に雇うのは現地の人で、給料や昇進、福祉は日本と差別しない、という条件はフランス人からは変な目で見られたけれど、現地の人からは大いにうけた。特に、女性でも働ける、というのは大反響を呼び、雇った人の七割は女性となった。その関係で保育所を建て、現地の病院に投資して拡大するなどしている内に年は暮れ。
翌年も日本に帰ることは出来なかった。
『フランス領インドシナ』と表記していますが、史実ではこの時代はまだ今で言うところのベトナム(北部除く)辺りしかフランスは占領していないことに注意。
……ただ、この世界線ではロシアの好景気に焦ったフランスがインドシナ半島への進出に力を入れたため、カンボジアやラオスの辺りも既にフランス領になっているという設定のため、『フランス領インドシナ』で間違いはありません。