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1875(明治八)年。私は三十歳になった。
それはどうでも良いとして、ロシアやカナダから山ほど技術や資源が送られて来るため、蝦夷、いや北海道の南部は工業地帯と化してきている。それを維持するための労働者が大量に集まり、安定してきた十勝平野の開拓地、いや『農園』や東北各地の『農園』からの農産物がそれを支える。
一方で、瀬戸内海では因島や小豆島を中心に除虫菊を育てて蚊取り線香に加工し、それを海援隊が東南アジアで売り捌く。
これらの影響で、瀬戸内海や北海道南部はちょっとした好景気だ。
次いで景気が良いのは、ロシアから技術支援を受けて商業的な油田の操業が始まった新潟と、北海道南部やロシアに農産物を売る東北。そして製鉄所の建築が始まった北九州や筑豊地域だろう。
一方、いまいち盛り上がらないのは、東海地方だ。『副首都』を江戸に置く、とはなったものの、行政の中心である首都は京都となり、商売の中心は大阪、萩、函館。東海地方は完全に取り残されてしまっていた。
そして、案の定私宛に政府から、振興策を出すよう要請された。
そう、要請である。強制である。
仕方ないので東海地方各地で転けかけている元藩主が創業者な企業を茶畑を持つものを中心に次々に買収してさらに投資。志摩半島の真珠の養殖場を拡大し、ついでに魚の養殖の研究所も造る。これでマシになるだろう。
そしたら江戸から文句が来た。関東でいいから何か産業くれ、と。
無理言うなし、と思いつつ、『釜石鉱山』や『釜石製鉄所』などを経営する『釜石工業』の社長の伊達宗基(伊達慶邦の息子)に協力を要請し、足尾銅山の再開発に着手。『足尾鉱業』を興した。株式は、「あまり冒険はしたくない」釜石工業側が三割、「何の責任も負わないのは問題」な政府が三割、奥州屋が四割保有することとなり、二カ月程で有望な鉱脈を見つけることに成功。
史実の『足尾銅山事件』のようなことを起こさないように、政府や宗基が引く程度に熱弁して、大規模な濾過池と沈殿池、堆積所を整備し、精錬施設の排煙は湿式の脱硫装置で処理するようにする。ちょっとお金がかかるけど、安全には代えられないよね。
この影響を受けてか、関東北部での鉱山開発が盛んに行われ、江戸は関東北部で採掘、精錬された鉱物の加工産業を担い、栄えることになる。
のは先の話で、この時は政府とどう鉄道を敷くのか激論を交わすので忙しかった。