避難経路
数分後。
小石くんが目を覚ましたので、ようやく出発できる運びとなった。小石くんは頭から血を流しているが、見かけによらず軽症である……多分。だから、レイレイさんは、そんなに申し訳ない顔をしなくてもいい。小石くんもいつもの事で慣れているはずだから。
「隣のAクラスは、どうだった?」
「僕も気になって確認したけど、もう避難した後だったみたい。避難するとき僕たちBクラスに、ひと声かけてくれもいいのにね」
星が不満顔で答えてくれる。
まあ、Aクラスは俺達のクラスと違って出来がいいのが揃っているからな。いまだに一年生の時に騒ぎを起こした問題児を、全部Bクラスに詰め込んだ訳が分からない。もっと、バランスよくクラス分けできただろうに。
今更クラス分けを嘆いても始まらない。だいぶ出遅れたが、そろそろ避難を始めなければ孤立してしまう。小石くんのグループの代表は、ナイトだったな。
「おい、ナイト。小石くんがあまり本調子じゃないから、フォローは任せたぞ。何かあれば報告してくれ」
「ニャー」
「よし、避難ルートの確認だが……」
「ちょっと待って!」
レイレイさんが悲鳴みたいな声で、俺を呼び止める。
「今度は何だよ?」
「何だよ、じゃないでしょ! 猫がいるんだけど。不吉な真っ黒い猫が堂々と列に並んでいるんだけど。位置的に、景 騎士君の場所だけど……まさか」
「ん、ああ。そいつはナイトだよ。呪いで迷宮内では猫になるだけだから、害はないよ」
「に、人間が猫に……そんなの聞いたことないわよ」
「そうか? 迷宮の影響で人外になる話はよく聞くけどな。ナイトの場合は魔物になるわけじゃないし、不便と言えば言葉が喋れない事ぐらいだし」
ちゃんと人間としての理性があり、暴れないだけましである。ナイトは猫の状態でも言葉は通じるので困る場面は少ない。
それに、ナイトの世話は同じ班の狗飼さんがしてくれる。さっきだって甲斐甲斐しくもナイトが着れなくなった制服を、満面の笑みで畳んでいたし。今なんてナイトの背後に立って、隙あらばモフろうと眼光を鋭く光らせている。美人なのにケモナーな、狗飼さん。猫用ブラシを常備している、色々と残念な女子である。
まあ、少しナイトが羨ましくも思うのだが。
納得できない様子のレイレイさんを放置して、避難経路の確認を行う。
「今俺達がいるのは東棟の4階だ。ここから一気に地下一階まで降りて、地下に伸びる避難通路を使って迷宮外まで歩いていく。脱出は明日になると思うが、訓練通り行えばまず危険はない。各自、飲み水や携帯食料の配分に気をつけて行動してくれ。では、委員長……」
出発の号令をお願いします。
「え、あ……はい。皆さん、『おはし』を忘れずに避難しましょう。しゅ、しゅっぱーつ!」
「しゅっぱあああぁぁつ!!」「しゅっぱあああぁぁつ!」「ひゃっほおおおぉぉ!」「委員長可愛いよおおおぉ!」「他のなんちゃって女子どもとは次元がちがうぜえぇぇ!」「んだと男子! ぶっ殺されてぇのか!?」「ああああ、なんで私たちのクラスには、こんなバカしかいないのよ!」
よしよし、気合は十分だな。
俺は目くそ鼻くその罵り合を遠くから眺め、そっと呟く。
「Aクラスに追いつけば、一晩一緒にキャンプ張れるかもしれないぞ」
喧騒がぴたりとやみ、隊列が整えられる。
さすがイケメンと美女に飢えているBクラス。Aクラスの有望な人材を毒牙にかけることでは、統率がとれてやがる。
「ねえ、黒太郎。ちなみに『おはし』の意味って何?」
「『押さない』『走らない』『死なない』」
「最後の『し』が重すぎる!」
カルチャーショックに打ちひしがれるレイレイさんと、軍隊じみた動きを見せるクラスメイトを引き連れて、ようやく避難を開始した。
階段を下りる道すがら、レイレイさんが話しかけてくる。
「黒太郎、何でわざわざ地下から脱出するの? このまま校門から出れば早いと思うんだけど」
「確かに早いけど、自衛隊でもない俺達なら普通に死ぬな」
「え? 死んじゃうの?」
百聞は一見に如かず。俺は手を上げて、クラスメイトに止まれのハンドサインを送る。
全員が立ち止まるのを確認し、俺は窓の外を指さした。レイレイさんが指さす先をたどり、視線を雨うつ窓の向こう、薄暗い校庭に向けて、
「きゃあああああああ!」
絶叫し派手に転倒する。
安全なうちに慣れさせておこうとした、俺の判断に間違いはなかったようだ。進行中に今のように転ばれたら、玉突き事故で負傷者が出かねない。
「か、カエルが……でかいカエルが校庭にっ! 何匹もっ!」
「カエルなんて可愛いものじゃない。迷度4レベルの危険な魔物、『トード=クローク』だ」
トード=クローク。迷宮の湿った場所に発生するカエル型の魔物である。特に今日のような土砂降りでは、活動が活発になり屋外を跳ねまわる。高さは3メートル。機動力が高く、生身の人間なら逃げても追いつかれ捕食される。立ち向かおうと接近すれば皮膚を覆う毒性の高い粘液をぶっかけられ、弱ったところを捕食される。距離をとっても舌を弾丸のように伸ばして、やっぱり捕食される。唯一の救いが晴れの日は酷く愚鈍になり、簡単に逃げ切れることくらい。
「……そういう魔物だ。昔はトード=クロークに殺される人がたくさんいたらしい」
つまり、非常に危険な魔物なのだが、俺は落ち着いてトード=クロークを眺めることができる。
「やばい奴じゃない。逃げなきゃ……」
「外に出なければ安全だ。この校舎、いや日本の建造物のほとんどは耐迷宮度7以上が義務づけられている。4レベルの魔物は建物に入ることはおろか、触れることすらできない」
「つまり、どういうこと?」
「レイレイさんに分かり易く説明すれば、結界が張ってある」
俺も耐迷宮度の建築技術を詳しくは知らないのだが、結界の類だと認識している。
昔はそんな技術はなく、みんな何故か魔物が寄り付かない神社やお寺に避難したらしい。おそらく現在の耐迷宮度は神社などから、ヒントを得たのではないだろうか。
「地下に伸びる避難通路も耐迷宮度は7だから、基本的に魔物は侵入してこない。俺達一般市民はその通路を使って、迷宮圏外に避難すればいいだけだ。そう聞くと冷静になれるだろ?」
俺が考えるに、レイレイさんが怯えている理由は迷宮に耐性がないだけではない。海外では耐迷宮度の規定もなく、技術も乏しいと聞く。ニュースで簡単に迷宮化する海外の建造物を見ると、俺だって生きた心地がしない。
日本人が迷度4程度で慌てないのは、単に安全だからだ。家が迷宮化することもないし、屋外にいても避難所に速やかに移動すれば大事には至らない。
「……うん、ちょっとだけ安心した。建物にいれば魔物に出会うことはないのよね?」
「いや、あそこにいる魔物みたいに侵入してくるやつはいる」
廊下の先には中型犬程度の大きさの魔物が一匹佇んでいた。
「全然安全じゃないじゃない!」
レイレイさんがホルスターから杖を抜くのを見て、近くにいた委員長が取り押さえてくれた。
「待ってレイレイちゃん! 刺激してはダメです!」
「止めないでよ! 私だってあの魔物くらい知ってる! 『ウルフ=バウ』、魔物の中ではレベル1のすごく弱い魔物でしょ! あれだったら『エア・ハン』で倒せるはずよ」
「だから、倒してはダメなんです!」
半ばパニックになっているレイレイさんを羽交い締めにして、杖を取り上げる手際の良さ。さすが委員長だぜ。
「レイレイさん。ウルフ=バウは確かに弱い魔物だ。でも、『どこにでもいる』魔物なんだよ。一番人間に倒されて、一番人間を殺している魔物なんだ」
日本人が一番恐れているのは、ウルフ=バウだ。海外では軽視されがちだが、迷宮と隣り合うように暮らす日本人にとって、ウルフ=バウほど怖い魔物はいない。とにかく数が多い。1つの群れで100匹はいると言われている。第二に、弱い魔物故に荒い作りの建造物には、結界をすり抜けて侵入してくることが間々ある。そして、驚いた住民がウルフ=バウに危害を加えると、どこからともなくウルフ=バウの群れが湧き出てくる。
無視をしても良いのだが、隙をみせると襲ってくるから始末に負えない。
一般人ができる事は、ウルフ=バウと適切な距離を保ち、常に警戒するぐらいだ。
「――と、普通は手出しができない存在だが……おい、狗飼さん。少し話をつけてくれ」
俺は隊列から狗飼さんを呼び寄せる。狗飼さんは足元のナイトを名残惜しそうに眺めながら、歩み出てくる。
ごめんね狗飼さん。猫姿のナイトは迷宮でしか見れないものね。事が終わればすぐにナイトの元に戻っていいからね。
「いつも通り、こちらには敵意がないこと、食料を分けるから見逃してくれと交渉してくれ」
「……うん、わかった」
狗飼さんはオカリナ型の犬笛を取り出して、耳鳴りに似た音を紡ぎ始める。その不思議な音色を聴くと、ウルフ=バウはこちらに、ててて、と寄ってきた。舌を出して、尻尾を振るその姿はただのあほ犬にしか見えない。
くそ、相変わらず頭悪そうな顔してやがる。
俺が非常食のソーセージを投げて寄こすと、ウルフ=バウはそれを綺麗にキャッチをして、廊下の向こうへと走り去った。
「すごい。狗飼さんって、魔物と話ができるの?」
「ああ、実家がペットショップだからな」
「理屈が分からない!」
レイレイさんが、天を仰いで崩れ落ちる。どうやらまたカルチャーショックを受けているようだった。
うん、そろそろ進もうか。
俺達は階段を駆け降りて、地下へと数分とかからずにたどり着いた。開け離れた非常口を見るに、すでに他の生徒が避難した後のようだ。
少しレイレイさんが辛そうだが、Aクラスに追いつかないと、クラスから不満が出る。奴らを静めるためにも、Aクラスには人柱になっていただく。なので、レイレイさんには少々無理をしてでも、合流する必要があった。
俺たちは、幅4メートル程の通路を気持ち分早く進行する。4ヶ月前の避難訓練でも通った道だが、よく整備された綺麗な道だ。いったい、照明の設備や清掃は、誰がやっているのだろうか。
「ねぇ、黒太郎。あれ、Aクラスじゃない?」
地下の避難路を進むこと数時間。
星の指さす先に、Aクラスと思わしき人影が見えた。
「ようやく捉えたか。おおおおぉぉい! 待ってくれ!」
俺は声を張り上げ、Aクラスを呼び止める。
「げっ! Bクラスだ!」「嘘だろ。もう追いついてきたのか!」「アイツら馬鹿だが、身体能力は無駄に高いからな」「どうしよう。私、あんなけだものとキャンプなんて張りたくない!」「私だってそうよ!」「皆落ち着くんだ。男子だって頭のおかしい女を、相手にはしたくない」「全力で逃げるぞ!」
おかしい。Aクラスが急に進行速度を速めて離れていく。
「聞こえていないのかな?」
「いや、そのはずは……おおおおぉぉい! 止まれってば!」
俺の呼びかけも虚しく、Aクラスとの距離はぐんぐん離されていく。
くそっ、あいつら、どういうつもりだ。
「くぱぁ、はぁ、はぁ、黒太郎……ちょっと、もう、限界」
レイレイさんが限界を迎えたようだ。仕方なく俺たちは、一時休憩をとることにする。
おのれ、Aクラス。絶対に合流してやる。