ロア(2)
ちらっと見た視線の先で、男はロッテを強い眼差しで見つめながらも、疲れきった顔をしていた。
ちゃんとロッテの踊りを見ているのか、いや、そもそも、公演を楽しむ気があるのだろうか。
ロッテはむっと顔をしかめた。
わざわざ公演を見に来るんだったら、少しくらい楽しそうにしたらどうなの・・・・・・。
ロッテは軽やかにターンしたあとで、もう一度男に視線を向けた。
――いない。
そんなばかな、とロッテは目を見開いた。
たった数秒のあいだに、ロッテに背中もみせずに立ち去ることは、不可能だ。あの男の後ろにも、立ち見席の客が並んでいたし、ロッテが男から目を離したのは、ほんの一瞬のことなのだ。
わからない。
もういいわ、考えるのはあと。
これ以上気を散らしていたら、あとで団長に叱られてしまう。ロッテは意識して、思考を遮断した。
しかし、あの男の、人を射るような灰色の目から受けた印象は、そう簡単に忘れられるものではなかった。冷たい目なのに、見つめてくる視線の力強さは情熱的だなんてーー。
公演が終わると、ロッテは改めて、突然消えたあの不思議な男について考えた。
もちろん、あれは幻覚なんかじゃなかった。男は確かにあの席に座っていて、こちらをじっと見つめていたのだ。
ロッテは不審に思うのと同時に、ある種の緊張を感じていた。
観客がみんな帰ったあとで、ロッテは銀色に縁取られた幕をくぐり、舞台から客席へととびおりた。
男が座っていた席まで歩いていくと、いつからいたのか、一匹の黒猫が席を占領していた。黒猫はちらっとロッテを見ただけで、あとは石像のように動かなくなった。
ひっかきませんように、と心のなかでつぶやいてから、ロッテはそうっと黒猫の頭をなでた。動物には目がないのだ。
大丈夫そうだ。
そうとわかると、ロッテは猫を抱き上げた。猫が嫌がらなかったので、ロッテはちょっと嬉しくなった。
「お前、いつからいたの?」
猫が顔をあげて、ロッテを見た。まだ客席を照らしていたいくつかの照明の光を受けて、藍色の瞳がきらりと光った。