ロア(1)
【ロア】
演劇用語でプロローグのこと。
その少女が舞台にあがると、待っていましたとばかりに拍手がわき起こった。
少女はそれに応えて、スカートの裾を少しだけつまみあげた。にこりと微笑み、観客に向かって丁重に挨拶する。こうすることで、友好的な雰囲気を作り出すのだ。
演奏が始まり、少女が軽快なステップを踏む。アップテンポで情熱的な、濃厚な夜の闇にふさわしい音楽だ。踊る少女が身にまとっているのは深紅の薔薇をイメージした衣装で、夜に咲く一輪の華が舞っているように見える。
しかし、甘ったるいローズではなく、少女がくるりと回るたびに、ほのかなキンモクセイの香りが客席まで漂ってきた。秋の夜長にふさわしい、どこか郷愁を駆り立てる香りだ。
歓声をあげる者もいれば、ただ目が離せなくなって、魅入られたように身動きを止める者もいる。観客の反応は様々だったが、ここにいる誰もが、この踊り子に夢中だった。
旅の一座がこの街に来たのはつい最近のことだが、少女の評判はすぐに広まって、舞台公演は連日のように大盛況だった。
客席の前列を占める顔ぶれも決まってきた。そのなかには、街の有力者の顔もちらほらと見える。
ロッテは――それが彼女の名前だ――客席のどの場所に、どういう身分の人が座っているか、知っていた。真ん中の列にいるのは中流階級で、その少し後ろに座っているのが、専門的な職業の人たち。そして、その後ろは労働階級の人……。この並びは、だいたい、どこの街でも一緒だ。
ところが、今日、この公演を一番後ろで見ている男は、そのどれにも当てはまらなかった。
ロッテはこれまで、色んな地方をまわり、数々の舞台をこなしてきたが、こんな客ははじめてだ。誰もがうっとりするような香りと高揚した雰囲気のなかで、その男だけはなぜか、疲れきった顔をしていた。両頬にはいくつもの傷跡があり、そこから滲んでいる血は、まだ新しかった。遠くからでも、はっきりとわかる。
まるで、激戦を切り抜けてきた後のようなーー。
「ちょっと、ロッテ!」
舞台で一緒に踊っていたエヴァが、肘でロッテを小突いた。
ロッテは夢から覚めたように、はっと体をこわばらせた。観客は何事だろうと、怪訝そうな顔をしている。
ロッテは自分がぼんやりと立ち尽くしていたことに気づき、内心では慌てながらも、素知らぬ顔で今度はスローテンポに切り替えた。演出と思ったのか、再び観客の目が釘付けになる。
何度も舞台に立っているおかげか、こういう度胸だけは一人前だ。
それにしてもあの男の殺伐とした様子はなんだったのかと、ロッテは少し八つ当たり気味に考えた。
こんなふうに調子を崩すのは、本当に珍しいことだった。舞台のうえでのことなら、なんだって知っているつもりだ。観客だって、大人しく座って見ているような人間ばかりじゃない。時にはその日の舞台を中止せざるをえないようなハプニングだって起きる。そんなときだって、調子を崩すことなんかないのだ。
少しだけなら……ロッテはまたちらっと男のほうを見た。自分でもよくわからないが、なんだか気になってしまう。それほど、頬の傷のインパクトが強かったのだろうか。