上田秋成と『雨月物語』
1734年、極東の島国でひとりの思想家が生まれた。
名を上田秋成と言う。
彼は当時日本で流布していた諸学を、とりわけ国学を学び、自らも国学者であった。あの有名な本居宣長とも議論した。世に言う、『日の神論争』である。テーマは、天照大神が世界の最高神なのかという、日本国の位置づけに関する問題であった。
本居宣長は、日本は「四海万国の元本宗主たる国」であると主張した。その理由は色々あるが、皇統が万世一系であること、一度も外国から侵略されたことのないこと、国土が美しいこと、その他数え切れないくらい多くの美点があることを挙げた。宣長曰く、「宇内に於て皇国に及ふ国なし」。同時に宣長は、中国を国土が大きいだけの二等国と断じ、さらにキリスト教などの偽教を戴くヨーロッパ諸国も日本に及ばないと論じた。かくして、日本の最高神である天照大神は世界の最高神となり、その子孫である天皇は世界の盟主となる。後に言う、皇国史観の誕生であった。
これに対して、秋成は激しく反論した。舶来の世界地図を見るに、日本は東洋の島国に過ぎない。その島国が世界の中心であると説いても、誰も納得しないであろう。また、文字がない国にすら、様々な神話が存在しており、日本神話が世界の絶対的真理であるという保証もない。そもそも、日本神話の中に、天照大神が世界神であるという記述は見当たらないのだ。それぞれの国の人間が各自固有の神話を信じるのが当然であり、天照大神=世界神という宣長の説は、誇大広告である。これが、秋成の主張であった。
結果はどうであったか。理論の成果を後世への影響で計るならば、宣長の完勝であった。秋成は忘れ去られ、宣長の皇国史観は大東亜戦争(この名称からして既に、日本版中華思想である)で大敗するまで影響力を持ち続けた。日本は世界の中心に違いない。この考えの下に、アジアを天皇中心に再統合するという試みが為された。大東亜共栄圏である。日の神論争が起こったのは1786年から1787年にかけてであるから、日本が地球上の一国に過ぎないと気付くまで、150年以上の歳月を要したわけである。ヨーロッパがキリスト教から脱するため多くの血を流したように、皇国史観が日本人に強いた被害は甚大であった。無論、ヨーロッパがキリスト教文化を原動力として発展したように、皇国史観は開国から富国強兵への筋道をも示した。功罪入り混じった宗教という点で、国家神道は日本におけるキリスト教であった。
一方、日本が地球上の一国に過ぎないと述べた秋成は、今日では思想家としてではなく、作家として名を残している。『雨月物語』の著者。それが上田秋成と聞いて、現代人が思い浮かべる彼の伝記的事実である。
では、秋成は作家として成功したのか。否である。1776年に書かれた本作は、京都で販売され、並の売り上げを収めた後、いったん歴史から姿を消した。それどころか、当時の人々は、その作者が上田秋成であることすら知らなかった。署名には「剪枝畸人書」(指の形がおかしい人の作)とのみあり、実際に秋成は右手中指と左手人差し指が不具であった。秋成の死後、どうやら作者は彼だったらしいというようなことが分かった次第である。端的に言うと、秋成の作品はウケなかったと言って差し支えない。当時の世相は、より娯楽性の強い作品を求めていた。その代表的作品が、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』である。江戸時代の人々も、現代の我々と同じように、異能バトルが大好きであった。
話を秋成に戻そう。秋成は、『雨月物語』を娯楽作品としてではなく、思想書として著した。これは一種の短編集なのだが、その中に「青頭巾」という話がある。美少年に狂ってしまった僧の話であり、鬼と化したこの僧について、改庵禅師は次のように述べる。
「そも平生の行徳のかしこかりしは、仏につかふる事に志誠を尽せしなれば、其の童児をやしなはざらましかば、あはれよき法師なるべきものを。一たび愛欲の迷路に入りて、無明の業火の熾なるより鬼と化したるも、ひとへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。『心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る』とは、此の法師がためしなりける。」
これは、恐ろしい文章である。直き心とは、国学者たちによれば、日本人の道徳心それ自体であった。秋成はその道徳心を、妖魔にも仏にもなる、善悪と無関係な人間の情念であると理解する。明治維新からの驚異的な発展を支え、同時に狂気へと邁進した我々日本人の国民性を、秋成が150年も前に予言していたとすれば、これ以上の怪異はないであろう。
小説が未来を見通すことは、しばしばありうるのである。