その9
明りをつけて、葵はぐるりと部屋の中を見回した。どの部屋にも香苗の匂いは残っていなかった。
残っていたのはただ一通の置手紙――『長い間面倒を見てくださってとても感謝しております。このご恩は一生忘れません』
葵はその手紙を何度も読み返した。
自分のことはいいとして、香苗の身辺に何が起きていたのだろう?良いことなら自分も一緒に喜び合いたかった。辛いことなら一緒に考えてあげたかった……。葵の目から大粒の涙がとめどなく流れ落ちるのだった。
*
そういうことがあっても、葵はいつも通りに出勤していた。
会社へ行けば気分が紛れることもあり、また厄介なことの処理で現実を忘れることもあるのだ。
「葵さんと共同経営できたらいいわね」
いつか社長がそんな話を持ち出したことがあった。
葵の会社は小規模で葵より8歳年上の女性が名目上社長になっているが、夫の子会社でもあり、経営は順調だった。てきぱきと仕事をこなす葵の才気にかなり助けられていた部分も大きかった。
独身の葵が結婚という安定した状況に落ち着けば、今まで以上に経営者としての手腕を発揮してくれるのではないかと内心思っていた。
四月に新入社員を募集するに当たって、彼女は或るもくろみを持っていた。大学院を卒業後数年商社マンの経歴を持つ社員を採用したのも、もしかして葵に相応しい相手かもしれないとの思惑があったからだ。
仕事上は葵の方が先輩だが、年齢としては葵にはお似合いの青年だ。入社早々早速新入社員の辰雄に、葵のアシスタントとして外周りを担当させた。
仕事が一段落したとき、社員らはいつも社長から誘われるのだ。
「みんなで飲みに行こうか!」
「社長のおごりですか?」
葵は茶目っ気たっぷりに彼女の財布の紐を緩めさせる。
「そうよ、辰雄クンも一緒に行こ!ねえ、辰雄クン、だいじょうぶ?待ってるひととかいないの?」
彼女はそれとなく辰雄の身辺伺いをする。
「よろこんで行かせてもらいますよ。葵さんと一緒なら。あっ、悪いこと言っちゃったかな。ご馳走してもらう方に申しわけないです……」
「いいの、いいの。だいじょーぶ。葵ちゃんは私も好きだよ。辰雄くんも好きだよね、葵ちゃんのこと!」
「は、はい。好きです……」
「あ、赤くなってる。白状しちゃったね――」
「いやぁ、社長!冗談がひど過ぎますよ」
社長と辰雄が勝手な冗談を飛ばし合っているのを、どこ吹く風とやり過ごしている葵だった。