その8
翌日の朝、葵がリビングに入ると、香苗は朝食の支度をしていた。
「おはよう、葵さん。夕べは迷惑を掛けたようですみません。実はお話があるの……」
「どんな話?でも時間がないから今夜にしてくださらない」
葵は香苗の言葉を軽く受け流して、いつものように出勤した。昨日履いて帰った細いヒールのパンプスに、濡れた泥が付いたままになっていたけれど、葵はそれに気づかず家を出てきたのだった。
電車に乗ってほっとすると、香苗が出がけに言っていた話とは何だったんだろうと気になリ始めたが、会社に着いた途端、つい先日雇用されたばかりの部下が、葵の出社を待ちかねていたように、昨日のことを報告してきた。
「先方がこの書類間違っていないかっていうんですけど……どうしましょう?」
「葵さん、今日またあの嫌な社長の会社に出向かなきゃだめですか?いやんなっちゃう……」
「まあ、まあ、二人とも……こういうことを少しずつ経験しながら仕事を覚えて行くのよ。どうしても駄目な時にはわたしが行くから、まずは自分でやってみて」
それぞれに手際の良い指示をしたあと、葵は席をはずして外に出た。電話を掛けて香苗に今朝のことを謝ろうと思ったのだが、携帯からのコールは不通になっていたので伝言を入れた。
**ごめんね、けさは急いでたものだから。帰ってからゆっくり聴くからね。
席に戻ってはみたものの、夕べの香苗の行動も気掛りだし、電話に出ない香苗のことはいっそう葵の気を重くさせた。
あいにくその日は恒例の会社の決算の打ち上げで、葵はいつもの時間には帰れない。葵が居なければ盛り上がらないのはわかっていたけれど、少し早めに帰らせてもらうよう社長に耳打ちして、少し遅れて会社を出た葵は、打引上げ会場になっている料亭へ駆けつけた。
*
宴がいよいよ佳境に入ったとき、葵はこっそり料亭を抜け出して、気もそぞろに家路へと急いだ。マンションの前まで来て、香苗が居るはずの部屋の窓を見上げると灯りが点っていない。葵は高鳴るきもちをぐっと抑えて、エレベーターに乗った。
いっときでも早くドアを開けて、香苗さん!と声を掛けようとの思いで開けたドアは鍵が掛かっていて開かない。鞄の中から鍵を取り出し、鍵穴に鍵を入れのももどかしいほどに手が震えている葵だった。