その7
その夜葵が会社から帰った時、香苗はいなかった。
これまで、葵が帰宅した時に香苗が家を空けていたことはなく、葵の不安は時間が経つにつれて募ってきた。もしかして事故にでも合ったのでは?このまま居なくなるのではないかなどと、妄想ともつかない思いがどんどん膨らんでいくのだった。
「ただいま――」
葵の気遣いをよそに、香苗は午前零時をかなり過ぎて帰ってきた。
「どうしたの?香苗ちゃん。今頃まで。心配させないでよね」
少し酔っぱらっているようでもある香苗がソファにドテッと落ちるように伏した背に向かって、葵は思わず荒げた声を出した。
職場ではばりばりの手腕を発揮して部下に慕われている葵だが、性格は至って温厚で、その柔らかな物言いが皆からの信頼を一心に集めている葵なのだ。
「いいの、いいの!どうせ私なんか……」
香苗はぶつぶつと訳のわからない独り言を呟きながら、ソファの上で眠ってしまったようだ。
葵は作り置きしていたシチューを温め直して皿に注いだ。夕べ葵は久しぶりにキッチンに立ち、手をかけて作っていた牛肉たっぷりのビーフシチューだ。
大ぶりにカットしたじゃが芋と人参、それに丸のまま入れた玉ねぎは産地直送なので新鮮そのもの。熱々に煮えたじゃが芋をほくほく口に入れると食道から腸へ運ばれるまでに身体中の血管がいっぺんに流れ出したみたくほてってきた。
葵はその満腹感に人心地がついた所で、香苗にケットをそっと掛けてパソコンに向かった。やはり香苗のfacebookのことが気になっていた。悪いと思いつつも開けたままになっているページを丹念に見てみた。
会社と個人用の手帳を使い分けているその一つ、所々空白のページがある中にサイトのログインIDやパスワード、その他SNSのフレンドの名前などが書き込まれている赤い表紙の手帳を取りだした。
最近はそれを見ることはほとんどなく、忘れているものもかなりある。
ページをめくってみると『信也』の名前が見つかった。彼の場合はハンドルネームに本名も書き添えていた。名前は知っていても姓は記憶になかったが、メモには『田中信也』と書いていた。そうそう、信也さんの姓は『田中』だったんだ!
香苗のfacebookの友達の信也も同じ『田中信也』。
やっぱりこれについては香苗に真相を聴かなきゃわからないわ……。葵はこれまで香苗のことに気を取られて気付かなかった疲れがどっと押し寄せてきた。