その5
香苗は葵が翌日の日曜日も出勤するというのを聞いていた。
9時までには出勤しなくちゃと言っていた葵の言葉を思い出して、信也との待ち合わせの時間を10時半に指定した。
いつもと同じようにその日の朝、家を出る葵を玄関先で見送ると、香苗はほっとした。
洋服ダンスに吊るされているいくつかの中から、花柄のワンピースを当てて全身用のミラーに写してみる。後ろ姿を確かめるようにくるっと回ると、フレアーのスカートがふわりと膨らんだ。長身の香苗は葵の洋服を着るとスカート丈はミニになるが、他のサイズはほぼ合っている。
次はタイトスカートをはいてみた。こんもりと盛り上がったヒップにきつめのスカートがぴたっと張り付いて、セクシーな自分のスタイルに満足した。
上着は配色を考え、胸のあいたカットソーを選んだ。色白の香苗はファンデーションを薄めに塗り、パープルのルージュを唇からはみだし気味に塗った。
予告していた時間より少し早めの、10時10分にマンションを出て、指定した公園の入り口で信也を待った。指定の時間きっかりに、信也らしき人物が公園の前に来て、香苗を見つけると笑顔で近づいてきた。
「あの、葵さんですね?」
「ええ、はじめまして、葵です」
と、香苗は恥じらうように、挨拶を交わした。
信也は葵と1年以上も付き合っているのだが、写真の交換をしたことはなく顔を知らなかった。
「電話で話す声よりトーンが低いですね」
「あら、そうかしら?」
「これからどうしますか?」
「そうねえ、この先に海があるのじゃないかしら。ほら、遠くに見えてるじゃない?」
「そのようですね。葵さんはここら辺りの地のりには詳しいんじゃないですか?」
「あまり外を歩かないもんで、それほどには……」
歩きましょうかと信也に促されて、ふたりは並んで歩いた。電話で話していたとき、たしか自分よりずっと背が小さいと言っていたような記憶が蘇ったが、傍にチャーミングな女性がいるのだから、信也にとってはそのようなことはどうでもいいような気がしていた。
「ねっ、今日は遅くまで一緒にいられるのでしょ?」
信也は電話で話している葵は消極的な女性のような気がしていたのに、会ってみると意外に積極的なんだな、やっぱりネットってイメージとは違うんだ。そう思いながら、信也の腕に自分の腕を絡ませて歩く香苗を見て憎めない気がした。
遠浅の浜辺でふたりはひとしきりはしゃいで遊んだ。香苗のミニスカートからちらちらと覗くすんなり伸びた白い脚が、信也をときめかせていた。
ふふふ……香苗の毀れるような笑顔が何ともキュートだ。信也は彼女を思いっきり抱きしめたい衝動にかられた。
「葵さん、こっちへきて!」
香苗が砂浜に足跡をぽつぽつ付けて、信也の所まで転ぶように走ってくる。
信也はその勢いで彼女の体をずしんと受け止め、両手で頬を掴んで押しつぶすように唇を吸った。香苗はこのことを待ち受けていたかのように、信也の為すがままに身体を任せてきた。
*
「そろそろ暗くなったね、帰ろうか……」
信也が香苗を促した。
「わたし、帰りたくないわ……」
「しょうがないなあ。仕事が忙しいんじゃなかったの?」
「いいの、仕事なんか……」
、
子供のようにぐずる香苗をそのまま残して、信也は先に歩を進め、浜の石段まで来ると、腰を下ろして煙草に火をつけた。信也の吐いた煙草の煙がゆらゆらと海の方に向かって流れていく。信也のやるせない気持ちを煽るように、薄闇の微かな日の光が地平線の向こうに沈んで行った。
――このまま何もかも捨てて、ふたりで誰もいない宇宙へ飛べたらどんなに幸せだろう……。信也はふとそんなことを思っていた。
香苗がスカートに付いた砂を払いながら近づいて来ると、信也はいままで頭をよぎっていた思いを振り払うかのように、さっと立ち上がった。
「さあ、行こうか」
信也の表情になんとなく重い空気を感じたのか、香苗は踏みつける砂の、きしむ音を確かめるように歩き始めた。
信也は黙って香苗の手をとって歩いた。潮風がふたりの背を撫でて通り過ぎていった。