その3
香苗がソファに置かれた大きなぬいぐるみのようなクッションにもたれて、コーヒーを飲みながらテレビを観ていたとき、突然電話が鳴った。葵からだ。
*今日はいつもより遅くなるの。悪いけど先に食事して休んでて……。
ええ、いいわよ。ごゆっくり……。受話器を置いた途端、うーんと背伸びして、香苗は沈むようにソファに身を埋めた。他人の部屋とはいえ、やはり主のいない自由は格別だ。
10時までテレビを見た後、浴室に入りシャワーを浴びる。
洗面台の横の棚に仕舞ってある、葵のガウンの一枚、ブルーを選んで取り出した。シャワーをやや熱めに調整して、湯の泡が胸から下へ下へと流れ落ちるに身を任せて、香苗はその甘美な快感に浸っていた。最後の仕上げは、いつもの習慣で髪にシャンプーを吹き付け、仰向けの姿勢で額から頭部へと湯を流し丁寧に洗う、これは香苗にとって自慢の長い髪の手入れには必要な仕草だった。
だがこの間までの艶やかな長い髪は、彼への思いを断ち切るように肩までにカットされていた。浴室から出てからも噴出す汗をぬぐいながら、香苗は焦ったように時計を見た。
えっと、何を食べよかな……。作るの面倒だわ。そう!この間葵さんが注文していたピザの店のナン バーが残ってるはず。卓上の電話のディスプレイを見たら、やっぱり残っていた。葵の名前で特大のピ ザを注文した。葵が帰ってきたら半分は食べるだろうと思ったからだ。
30分後にピザ屋が大きなピザを届けに来た。葵が置いている食費の入った財布から代金を支払った。焼き上がったばかりのピザはジューシーな肉の他に、シーフードと野菜が色鮮やかにデコレイトされていて食欲をそそった。香苗は冷蔵庫から大壜のミルクを出し、コップになみなみとついだ。
11時からはテレビの鉄道の旅が始まるはずだ。
*
午後11時半。葵はまだ帰宅していない。
リリーン――。
卓上の電話の音が香苗の耳には警報のように聞こえた。
――葵さんからかな?
香苗はドキッとしたものの、それは当たり前のことだと納得し受話器を取り上げた。
「葵さん、もう帰ったかな?」
それは意外にも男性の声――。低音の快いソフトな響きが香苗の耳をくすぐった。
「えーっと、あの……」
「葵さんじゃないの?」
「はい。わたし居候で……」
香苗は初めての声に対して何かしら親近感を抱いて思わず、ふふふ……と笑った。
じゃあ叉あとで、と言い残して、その電話は切れたが、その心地よい声はいつまでも香苗の耳に残っていた。香苗はディスプレイに表示されている電話番号を見た。