その1
日中のうだるような熱気がおさまりつつある午前零時、葵のマンションの戸を遠慮がちにコツコツと叩いて香苗がやってきたのは、去年の夏の終わりだった。
帰宅してシャワーを浴びたあと、ガウンに着替えていた葵は、真夜中の音に不審を抱きつつ、鎖をつけたままドアから外を覗き、そこに呆然と立っている香苗を見たのだった。 葵がドアの鎖をはずしてドアを開けると、香苗はなだれ込むように中に入ってきた。
「どうなさったの?ただ事じゃないわね。さあ、靴を脱いで上がって……」
葵は香苗の体を支えるようにして奥の寝室へと案内し、セミダブルのベッドに横たわらせた。
ベッドの上ですすり泣きしているらしい香苗をそのままに葵はそっと部屋を出て、リビングの棚から純米酒の一つを取り出した。
最近ワインより清酒に凝っていて、女性ファンを目当てに売り出されるカラフルな壜の酒を好んで買っている。香苗が人心地ついたら一緒に飲めるように、小ぶりのガラスの猪口を二つソファの前のテーブルに置いた。
今日の仕事は外周りもあり葵はいつもより疲れていた。 9時に退社し電車で家に着いたのは10時を過ぎていて、 香苗がやってくるまでの葵はほっと一息ついてくつろいでいた。
シャワーで汗を流した後、朝出かける前に作り置きしていたベーコン入りグリーンサラダとカリカリに焼いたフランスパンを二切れ食べた後、コーヒーを飲みながらインターネットのお気に入りのサイトを開けてフレンドたちと交信していたのだ。
――葵のハンドルネームは「スカーレット」。
*こんばんは、スカーレット、ご機嫌はどうだい?
*おかえりなさい、お時間取れたら私の話きいてね……。
ネットのフレンドたちから沢山のメールが入っている。
*よおっ!お疲れさま。今日はだめかな?
信也からのメールだ。 お互いハンドルネームはあるけれど、付き合って一年を過ぎたあたりから信也とはお互い本名で話をするようになっていた。電話でも話しをするが、葵が帰宅する頃にはいつも彼から、お疲れさま……のメールが入っている。
葵は現実とは少し別の雰囲気を文字で演じているので、ネットでは華やかな存在なのだ。
しばらくして香苗は気分がよくなったのか、葵のいるリビングに入ってきた。
「あ、落ち着いた?」
葵はパソコンの手を止めて、香苗の方を振り返った。
「ごめんなさいね。急に押しかけたりして。葵さんも疲れてたんでしょ」
「ううん。いいのよ、そんなこと。落ち着いたらお話きかせてもらっていいかな?」
「ええ。でもみっともなくって、ちょっと恥ずかしいわ」
「別に無理に話さなくてもいいのよ」
「捨てられちゃった!もうゴールインかなって思ってたのに……」
「香苗ちゃん、そんな人いたんだ」
「いろいろ相談してたひと。話をきいてもらってる内に親密になっちゃって」
「それで?」
「もうほとんど家族みたいな気分になってたの。でも最近電話しても出ないし、全然連絡もとれなくて……。連絡が取れなくなってもう3カ月経つの」
「そりゃ、ショックよね」
「もう、半分諦めてるけど……」
葵は何と応えていいか戸惑っていた。