儚
「・・・暑い・・・」
私はうちわで扇ぎながら呟いた。
これでは家事をやる気にもならない。
クーラーはついているが、今月は少々家計が厳しいので節約をしなければいけない。
「シャワーでも浴びよ・・・」
汗が張り付いて気持ち悪い。
ふと、窓の外を見た。
むかつくほどに青い空と、真っ白な雲。
「・・・あ・・・・・・」
不意に十歳頃の出来事を思い出した。
そうだ、確か、あの日もこんなむかつくほどに青い空だったのだ。
私は幼い頃、無口で、口下手で、おとなしい子だった。
友達も決して多くは無く。
美人でもなく、どちらかというと地味でつまらない子だった。
夏休みに入ったその日も、遊ぶ相手もおらず、家の陰の中から青い空を眺めていた。
「・・・ね、何してるの?」
いきなり声をかけられ、驚いて外を見た。
知らない男の子がニコニコとしながら笑っている。
「え・・・空、見てるの」
白い肌と水色の服。それなりに整った顔立ち。
「そっち行っていい?」
「・・・いいよ」
靴を脱ぎ、上がってきた男の子と二人で空を見上げた。
陰の暗さで、彼の肌の白さが強調された。
どうしてそうなったのだろう。
暑かった私は、男の子がいたのにその時着ていた服を脱いだのだ。
下着姿になった私に、男の子は驚いた顔をした。
「どうしたの?」
「暑いの」
「そっか・・・ね、冷やしてあげようか」
そう言って、彼は抱きついてきた。
体温が低いのか、ひんやりとする身体に体重を預ける。
(気持ちいい・・・)
そう考えると、服がとても邪魔に思えた。
「ねぇ・・・服が邪魔・・・」
「え?ああ、うん、そうだね」
畳の上。
お互いの脱いだ服に囲まれながら、私達は下着姿で抱き合った。
背に、首に手を回し、肌を密着させ、脚を絡めあい。
蝉の鳴き声が、やけにうるさく感じられた。
自分のものではない鼓動と、肌と、匂いと、呼吸と。
全てを自分の中に吸い込むように、私は大きく息を吸った。
同じように大きく息を吸った男の子が耳に口を寄せた。
「・・・甘い匂い、するね・・・」
「・・・そう・・・?」
「うん・・・それに・・・すごく柔らかい・・・」
なぜか小声で囁きあった。
悪いことをしているような緊張感と、罪悪感と。
もう少し、このままでいたいという欲望。
「気持ちいい・・・?」
「ん・・・暑くないの?」
「暑くない・・・あったかいよ・・・」
「・・・そっか、良かった・・・」
少し腕に力を込める。
すると、男の子も力を込めた。
それからは、お互い無言で抱き合っていた。
その後の記憶は無い。
いつのまにか眠ってしまっていたらしい私は、服を着て、タオルケットがかけられていた。
服を着た覚えはないし、もちろんタオルケットなんて覚えはない。
帰ってきたらしい母に聞くと、私は服を着た状態のまま眠っていたのだとか。
タオルケットは母がかけたらしい。
夢だったのか。
でも、夢にしては、肌の感触や、鼓動の音、彼の匂いなどがあまりにもリアルすぎて。
母には何も言えず、その不思議な出来事は私の、私だけの思い出となった。
その後、彼と再会なんていうドラマのような展開はなく。
私は大学で出会った彼と、結婚した。
月の家計簿をつけたり、料理に凝ったりする平凡な専業主婦だ。
(よっし、今日は何にしようかな)
シャワーで身体が軽くなり、気分も向上する。
洗濯物を回している間、掃除をして、晩御飯を作って、彼の帰りを待って。
私は、私の日常を過ごす。
私にとって、あれは大切で、儚くて、不思議な思い出だ。
・・・いつかは男の子だったとしか思い出せない時がくるのだろう。
しかし、私はそれでもなぜか思うのだ。
きっと、私は。
彼のあの冷たい肌と、青い空は忘れないのだろうと。
たぶん、あれは、あの時の気持ちは。
恋と呼ぶにはあまりにも儚くて、消えそうで、朧げで、柔らかくて、優しくて、短くて。
そんなナニかだと思うのだ。
私は夏の、むかつくほどの青い空を見るたびに、思い出す。
あの日の、一人の男の子が連れてきた、不思議な出来事を。




