エミリーは箱の中
1
晶子ちゃんの顔には昔、大きなあざがあった。左頬から鼻にかけての、複雑な形をした薄茶色のあざだ。幼かったわたしはそれを見て無遠慮に、
「島みたいな模様だね」
と言ったことがある。晶子ちゃんは微笑んだ。傷ついた顔もせず、私の手を取った。そのとき晶子ちゃんは十五歳、わたしは五歳。その手が乾いていて、温かかったことを覚えている。
今、わたしは十四歳だ。あの頃に比べると、だいぶ大人になった。あのときのあの発言が、いかに酷いものであったかを今更知った。晶子ちゃんは今、引きこもりだ。原因はあのあざで、それは晶子ちゃんの両親、つまりわたしのおじとおばがのんびり構えている間に、晶子ちゃんの心をめちゃくちゃに蝕んでいったのだ。
晶子ちゃんは十六歳の時にあざを取った。だから晶子ちゃんは何も悩まず、外に出ていいはずなのだ。けれどそうしない。わたしが晶子ちゃんに会いに行くたびに、無表情に、
「生まれ変わりたいな」
とつぶやくのだ。いい大人が何を言っているのだろうと、わたしは心の中で思う。
「碧ちゃんはきれいな顔だよね」
わたしは、当たり前だろう、と心の中でつぶやいて、そんなことないよ、と答える。
「だけど一重まぶただよね」
晶子ちゃんはいかにも哀れむような態度でわたしを見る。わたしは心の中で冷笑して、それでもわたしは誰よりもきれいだ、と思う。そう、平凡な顔の晶子ちゃんよりも。学校にいる全ての少女たちよりも。
「ねえ、碧ちゃん。新しい人形作ったんだ。見てよ」
ある日、晶子ちゃんは棚の中からガラス戸の付いた大きな箱を取り出した。大切そうに抱いた箱の中にはいつものように、人形が入っていた。
晶子ちゃんが外に出ることが出来ていたころ、晶子ちゃんは人形の教室に通っていた。人形とは、特殊な粘土で形を作り、ガラス玉の目を入れ、絹糸の毛髪を植え付けたものだ。晶子ちゃんは今でも独学で人形を作っている。どれも目が大きくて、唇がぽってりしていて、晶子ちゃんが十代のころに流行ったアイドルの顔に似ている。わたしはあまり魅力を感じない。晶子ちゃんの人形だらけの部屋は、むしろ少し不気味だ。
けれど、その人形は少し違った。目はやはり大きかったけれど、その目は奥まっていて、顔は面長で、何より美しい栗色の髪をしていた。まるで本当の西洋人のような姿だった。
「きれいだね」
わたしの言葉に、晶子ちゃんは微笑んだ。
「エミリーっていうんだ」
「いい名前だね」
「碧ちゃんにあげる」
わたしは目を丸くした。晶子ちゃんはにこにこしている。
確か、晶子ちゃんは誰にも人形をあげないつもりでいたはずだ。これは自分の分身だからと言って、部屋から持ち出さなかったのだ。それなのに、わたしにくれるなんて。それもこんなに美しい人形を。
どうしてだろう?
「エミリーも外に出たいでしょ。碧ちゃんは大事にしてくれるよね」
わたしは嬉しくて、大事にするよ、と答えた。
エミリーを持って帰るのは大変だったので、帰りは母に車で迎えに来てもらった。晶子ちゃんの家は近いけれど、うちから歩いて十分くらいかかるのだ。母はぶつくさ言いながら人形の繊細な箱を車に乗せた。
「人形なんて気持ち悪いわよ」
「気持ち悪くないよ。第一晶子ちゃんが作ったんだから」
「だから余計に気持ち悪いんじゃない」
母の一言がわたしの胸に響く。そうだ。うちの両親は晶子ちゃんを気味悪がっている。二十四にもなって外に出ない晶子ちゃんは、もうまともな人間じゃない。わたしはおじとおばに頼まれて晶子ちゃんに会いに行く。晶子ちゃんはわたしのことが好きらしい。だけどわたしは、好きじゃない。暗くてつまらなくて、生きている意味があるのだろうかと時々思う。ただ、気の毒だ。気の毒なわたしのいとこ。今日もカーテンの隙間からわたしたちを盗み見ているのだろうか。
家に帰って、そっとわたしの部屋にエミリーを運んだ。粉っぽくて土臭い晶子ちゃんの部屋と違って、私の部屋は薔薇の芳香剤の香りがする。ベッドの布団も外国のそれのように大きくて、薄いピンク色だ。学習机はもう捨ててしまった。父に頼んで買ってもらった、ステンレスと樫の木で出来た華奢な机が部屋の隅に置いてある。箪笥も本棚もその中身も、どれもとてもきれいだ。
わたしはエミリーの箱の扉を開けた。エミリーは目を開いたまま寝ている。わたしはそっと黄色いドレスの腰の辺りに手を入れて、抱き上げた。かちゃかちゃと音がする。
「エミリー。どこに飾っておこうか。本棚の上がいい? それとも机?」
すると、一瞬エミリーは瞬きをした。自然な薄い色の唇を湿すように唇をぎゅっとすぼめて、こう言い放った。
「とにかく箱の中は嫌よ。いいから自由にさせて」
わたしは驚いてエミリーから手を離した。するとエミリーは尻餅をついて、
「痛いわ」
と叫んだ。
「壊れたらどうしてくれるのよ。わたし、繊細に出来てるのに」
エミリーは小型の西洋人のような顔を高慢にゆがめて、わたしを睨んだ。
「しゃべりなさいよ」
「しゃべるよ。しゃべるけど。どうして動けるの?」
わたしはこのエミリーに対して、不気味だとか怖いだとか、そんな負の感情は持たなかった。ただ、不思議だ、と思っていた。何てかわいいのだろう、とも。
「わたしだって分からないわ。他の人形たちは動かないものね。わたし、寂しい思いをしてたのよ。ずっと箱に入れられて、寂しかったの。だけどもう同じ目には遭わないわ。碧、わたしを大事にしてよね」
エミリーは全身を動かして感情を表していた。顔を覆ってみたり、腰に手を当てたり、足を重ねたりして、とても愛らしかった。
「ちょっと待って」
わたしは急いで部屋を出て、一階に降りた。居間の電話の受話器を手に取ると、わたしは晶子ちゃんの家の番号を押した。
「もしもし、おばさん? 晶子ちゃん出して」
おばは嬉しそうな声を上げて晶子ちゃんを呼びに行ったが、なかなか戻ってこない。しびれを切らしそうになっていると、やっと戻ってきた。
「ごめんね。晶子、電話に出たくないって」
こんなときに、とわたしは苛立った。晶子ちゃんはよくこうなる。鬱のようになって電話に出たがらないのだ。電話が苦手だということもある。
「じゃあ、おばさん、晶子ちゃんに人形ありがとうって伝えておいて」
電話を切ると、わたしは慌てて自分の部屋に戻った。さっきの出来事が幻ではないかと思えたからだ。
「何しに行ってたのよ」
エミリーはドアを開けてすぐのところに、腕を組んで立っていた。わたしはほっとして、中に入った。
「晶子ちゃん、電話に出てくれなかった」
「晶子はあなたと会って疲れてるのよ」
エミリーがわたしにてくてくとついて来て、わたしがフローリングの床に座ると同じように座った。
「晶子ちゃんはわたしに会いたがってるんじゃないの?」
「そりゃあ会いたがってるわよ。かわいいいとこだもの」
エミリーは唇をとがらせた。
「でもどうしようもないことってあるじゃない」
「晶子ちゃんにはね」
そうつぶやいたわたしを、エミリーはじっと見た。奥まった茶色い目が、わたしを射る。わたしはこのとき、エミリーがかわいらしいだけでなく、美しいことにも気づいた。姿かたちと仕草が、とても上品なのだ。わたしは、エミリーを誇りに思った。これがわたしの人形になるのだ。
「エミリー、エミリーはわたしの友達ね」
「いいわよ。わたし、碧の親友になる」
わたしはエミリーをぎゅっと抱いた。エミリーはちょっとだけ笑った。
その日、わたしはエミリーを箱の中に寝かせ、白雪姫のように部屋の中央のテーブルの上に置いた。箱の中に入れると、エミリーはただの人形になる。わたしはそれを眺めながら、ピンク色の布団に潜りこんで、電灯を消した。
わたしはエミリーと遊ぶのに夢中になった。エミリーはわたしに対して優しくもなく、親切でもなかったが、何故かわたしを魅了した。長い睫毛が、小さな唇が、動く。滅多に微笑んだりしない。その代わり、よくしゃべり、意地悪な笑い方をした。わたしはエミリーに、恋の相談をした。同じクラスの武のことだ。武はぶっきらぼうで、恋愛に興味があるのか分からない。そう話すと、エミリーは簡単にこう言った。
「男の子なんてね、きれいな女の子が『好き』って言えば簡単に恋に落ちるものよ」
「そう?」
「そうよ。今度、いいえ、明日実行してみなさい。碧はきれいなんだから、すぐに上手く行くわ」
次の日、わたしは所属している美術部での静物のデッサンを終えると、教室に急いで戻った。友人たちは不思議そうな目でわたしを見ていた。今になってみると、美術部の中でも美意識の高いわたしの友人たちは、エミリーに比べればジャガイモのようなものだ。魅力なんてほとんどない。世間知らずのエミリーと違って、ゴシップを楽しく交わせること程度だろうか。
教室でしばらく待っていると、武は一人でやって来た。わたしの席の近くの自分の席でごそごそやっている。汗臭いのは、剣道部で防具を身に付けていたせいだ。髪は坊主頭に近いほど短くて、顔だちは高校生に見えるくらい大人びている。わたしはわたしに無関心であるかのように振舞っている武に近づいた。武が無表情にわたしを見る。
「武、お疲れ」
「うん」
「あのさ、話があるんだ」
「何?」
「武、言ってくれたよね。一重まぶたも二重まぶたも関係ないって」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
わたしは晶子ちゃんが呪いのように口にするわたしの欠点を、いつの間にか気にするようになっていた。朝、顔を洗うときに、何となくまぶたを見る。腫れぼったくはないけれど、目つきが悪く見える気がする。わたしに容姿が劣っている子であっても、まぶたが二重であったらかわいらしいような気がしていた。あるときわたしは、さほど仲良くもない武に、まぶたのことをこぼしてしまったのだ。すると、武はぶっきらぼうに、関係ないよ、と言ってくれたのだった。
「すごく嬉しかったんだ、あのとき」
「そう」
「好きになっちゃったんだ」
武は黙った。わたしの方を見ているが、目が合っている感じはしない。
「付き合ってくれる?」
「……いいよ」
武は白い肌を真っ赤にして、横目で教室の入り口を気にしながら答えてくれた。わたしも顔が熱くなるのを感じていた。武が、わたしの恋人になった。その事実が信じられなかった。
「一緒に帰ろうか」
武が低くつぶやいた。
「ほら、方向一緒だしさ」
わたしは嬉しくてたまらなくなって、うん、と笑った。
帰り道では、会話が続かなかった。大好き、だとか、嬉しい、だとか、口にしたくても出来なかった。ただ、黙りがちに歩いた。夕暮れのオレンジ色が、わたしたちを染め上げた。
わたしの家に着いたときだ。わたしたちは別れようとしていた。武は、じゃあな、と小さく言った。わたしも胸をどきどきさせながら、また明日ね、と答えた。そのときだった。ドアが開いて、聞き覚えのある声が飛び出してきた。
「お帰り、碧」
エミリーだった。それも、等身大の。手首や足首に、関節の切れ目が見当たらない。本物の人間のように見えた。着ているドレスもそのままに、西洋の昔の令嬢のような恰好で現れた。
「武君だわ。碧、よかったわね。さあ、早く二人とも上がりなさいよ。おばさまはお買い物に出かけているから」
エミリーは武の手を取って、家に引っ張り込んだ。武は目を白黒させている。
「わたし、エミ。碧のいとこなの。父がアメリカ人なのよ」
エミリー、武、わたしの順番で廊下を進む。階段を上がりながら、エミリーは武に自己紹介をする。それは、混血であることと年齢が十四歳であること以外は、晶子ちゃんと同じだった。いつもとはまるきり違って、微笑んだり、ころころと笑い声を上げたりする。わたしは次第に不愉快になってきた。
人形のくせに。それにどうしてこんなに大きくなっているのだろう?
「碧、お茶持ってきて。わたし、お茶の缶がどこにあるのか分からないの」
部屋に着いた途端に、エミリーはわたしに命じた。武が困惑した顔をしている。
「エミリーも一緒に……」
「わたしは武君と話があるのよ」
目の前で、ぴしゃっとドアを閉じられた。わたしは腹を立てて一階に降りた。台所で三人分のお茶を注ぎながら、エミリーは今ならお茶を飲めるのだろうか、と思う。
階段を静かに上がって、ドアをゆっくり開けた。
「ねえ、エミ。エミはお茶飲めるの?」
そう言いながら、言葉尻は段々小さくなっていく。
エミリーと武が、キスをしていた。いや、エミリーが武に唇を押し付けていた。栗色のふんわりとした髪が武の汗ばんだ顔に張り付いている。武はわたしを見ると、慌ててエミリーを自分から離した。真っ赤な顔で床を見ている。エミリーはうっとりとした顔で、武を見つめている。わたしが黙っていると、武は何も言わずに立ち上がり、歩いて部屋を出た。
「何してたの?」
わたしが静かに尋ねると、エミリーは満足した猫のように体をくねらせて、
「見ての通りよ」
と答えた。わたしの怒りはふつふつとたぎった。
「裏切り者」
「しょうがないじゃない。わたしも武君のこと好きになっちゃったんだもの」
「何てことしてくれたの。付き合い始めたばかりだったのに」
「あら、そうなの? でも武君はわたしのものね」
「もう、どっか行って。人形に戻ってよ。箱の中に戻ってよ」
「それ以上言わないで」
エミリーが少し慌てだした。
「エミリーは箱の中に戻ってよ」
すると、エミリーはするすると小さくなり、切れ目のある関節のある人形になった。そしててくてくと歩いて行き、わたしの箪笥の横に置いてある箱の中に入った。自ら扉を閉じると、エミリーはまばたきさえしなくなった。
わたしは呆然としていた。今のわたしの言葉に、何かあったのだろうか? わがままなエミリーが、自ら箱の中に戻って行った。「エミリーは箱の中」。これが呪文なのだろうか?
何にしても、もうしばらくはエミリーを箱から出すつもりはない。わたしはエミリーを嫌いになったから。エミリーは箱の中で笑いもせず怒りもせず、たたずんでいる。
学校に行くと、武は挨拶をするわたしを見なかった。昨日のことは何も言わない。休み時間に会うのは嫌がられるだろうと思って放課後に待っていても、友人を連れて現れる。これでは二人きりで話が出来ない。
エミリーは箱の中、とわたしは心の中で唱えた。エミリーは箱の中。
けれど状況はなかなか変化しなかった。
2
珍しく、晶子ちゃんがわたしに電話をかけてきた。わたしはエミリーについての恨みがあったので、晶子ちゃんが何を言っても黙りがちだった。晶子ちゃんは気にしていなかった。ただ、これだけ言って電話を切った。
「エミリーを大事にしてね。あの子はとても寂しがり屋なの」
何を言っているのだろう。たかが人形じゃないか。そう思って受話器を置いたわたしは、部屋に戻った。エミリーの入った箱が目に付いた。エミリーはずっと動かず同じ顔をしている。わがままも言わないし、上品に身動きしたりもしない。何だか寂しかった。
武ともこのまま終りになりそうだし、わたしはこのまま一人になるのかもしれない。今までの友達は、友達ではないような気がしていた。このエミリーだけが、友達。
「エミリー。出てきていいよ」
そう言って箱の扉を開けて、底板に寄りかかっているエミリーをそっと抱き起こした。
「碧!」
途端にエミリーはわたしに抱きついた。目をぱちぱちさせながら。
「寂しかった、寂しかった、寂しかった、寂しかった! どうして碧はわたしをこんなに長い間箱の中に入れたの? すごく悲しかったのよ」
エミリーはいかにも涙をこぼしそうな表情で目元に指をやった。涙なんか出ないのに。
わたしは腕を組んでエミリーを見下ろしていた。
「その前に謝ることがあるでしょ、エミリー」
「何?」
エミリーは無邪気に笑ってわたしを見上げた。
「武のこと」
するとエミリーは顔を覆って泣き出した。
「ごめんね。ごめんね。もうしない。碧の武君を、もう取ったりしない。だから許して、許して」
「武はもうわたしと話したりしないんだよ」
エミリーが顔を上げた。けろりとしている。
「どうして?」
「エミリーのせいでもう目も合わせてくれないんだよ」
「そんなことってあるの?」
わたしが苛立ってエミリーを睨むと、彼女は少し慌てて、そうね、こうするといいわ、と言った。
「手紙よ。手紙にもう一度付き合ってって書くの。そうすれば武君はまた話しかけてくれるわ」
「本当?」
エミリーはつやのある唇を光らせて、にっこり笑った。
その夜、わたしは生まれて初めてラブレターを書いた。手紙には、わたしが武のことをどんなに好きか、今どんなに寂しいかをしたためた。会って欲しい。いつでもいいからもう一度付き合って欲しい。悲しい思いはもうしたくない。
手紙は朝、武の机の引き出しに入れた。
部活動を終えて放課後になる。わたしは自分の席でじっと武が来るのを待っていた。薄暗い秋の夕暮れ。外では運動部の掛け声がまだ聞こえていた。
武は一人でやって来た。仏頂面で目を伏せて、わたしの席まで。わたしは思わず立ち上がり、ぎこちなく笑った。
「手紙、読んでくれた?」
「うん」
「どう思った?」
武は黙った。顔を赤くして黙っている。
「とにかくあれがわたしの正直な気持ちだから」
「わかった」
「もう一度、付き合ってくれる?」
「そもそも、別れてないから」
「え?」
「別れてない」
武は真っ直ぐにわたしを見ていた。とても真剣な目で。わたしは射すくめられたようになって、次の瞬間には目が熱くなっていた。
「泣くなよ」
当惑した武の声。わたしは涙をこらえた。思い切って言ってみる。
「ねえ、キスして」
武がますます顔を真っ赤にした。
「どうして」
「お願い」
武はためらいながら、わたしの肩を震える手で抱き、わたしに顔を近づけ、わたしに柔らかな唇をつけた。わたしの唇のリップクリームのせいか、離れるときは唇同士が離れたがっていないような感触がした。
武は乱暴に離れた。心なしか全身が震えている。わたしは、それとは逆に落ち着いている。キスをするということはこういうことか。何て簡単で、何て心地いいのだろう。わたしは体が軽くなった気がした。漂うような、空気に溶けてしまいそうな幸福感。
「これでいいだろ」
武は自分の席に戻って帰り仕度を始めた。わたしはそこにふらふらと歩いていって、
「うちに来てよ」
とささやいた。
帰り道、わたしばかりが話をした。小さなころのちょっとしたエピソード。友達の噂話。晶子ちゃんの話。武は適当にあいづちを打って、うなずいたりうなったりしていたが、晶子ちゃんの話になると少し様子が変わった。
「引きこもりのいとこなの?」
「そうだよ」
「辛いんだろうな。おれ、友達が引きこもりだから、そういうの聞くと何かやるせないよ」
「やるせないの?」
「お前はそうじゃないの?」
わたしはちょっと詰まって、うなずいた。本当はやるせなくもないしかわいそうにも思っていないのだけど。
「生まれ変わりたいって、よく言うの」
「そうだろうな。心の中のトラウマなんか一つもない、まっさらな人間になってやり直したいかもしれないな。そんな人間、いないんだけどさ」
いないの? と訊こうとして止めた。わたしにも、ある。小さなことだけれど。一重まぶたのことは、武の一言がなかったら一生気にしていた。武はわたしの救世主だ。
家に着くと、武は身構えた。わたしはあっ、と声を上げてエミリーのことを思い出した。また武にちょっかいを出すかもしれない。わたしから奪おうとするかもしれない。わたしは武の方を見て、何かを言い出そうとした。
「碧、おかえり」
ドアの向こうで声が聞こえた。ドアが開く。エミリーがそこにいた。人間の大きさになって。しかもわたしの服を着ている。ショートパンツが長くて白い足によく合って憎らしい。
「武君だ」
エミリーはわたしなど見えないかのように武に飛びついた。
「久しぶりね、武君。ねえ、早く家に上がって」
エミリーがぐいぐいと武を引っ張っていく。武がわたしを見ながら困った顔をした。その表情にほっとしながら、わたしは最後に家に入った。
「ちょうどね、おばさまがいないのよ。碧、お茶入れてきて」
「エミリー」
「わたしの名前はエミでしょ?」
「おれ、いい。お茶はいいから」
武が苦々しい顔でエミリーに言った。エミリーは一瞬不満そうな顔をして、また笑った。
「武君は何が好きなの?」
「何が好きって」
「何かあるでしょ、言って」
武はテーブルを挟んでわたしの向かい側にいる。エミリーはその隣。わたしは苛々し始めていた。
「剣道」
「ふうん。じゃあ、わたしと碧、どっちが好き?」
エミリーは武の腕にからみつきながら言った。わたしはぎょっとした。エミリーは自信たっぷりにわたしを見て笑う。
「おれは……」
「エミリーは箱の中」
わたしの怒りは頂点に達していた。思わずその言葉を口にしてしまった。エミリーがするすると小さくなり、着ていた服はくしゃくしゃになる。その中から人形のエミリーがごそごそ出てきて、箱の近くに落ちている、自分で脱いだであろう黄色いドレスを着て箱の中に入る。最後にドアを閉める。そして部屋は静かになった。
武は目を丸くしていた。わたしは怒っていたからそれに気遣う余地はなかった。ただ、せいせいしていた。
「なあ、碧、今の」
「びっくりしたでしょ。エミリーは人形だよ。生きた人形。晶子ちゃんからもらったの」
武があわてているのがおかしくなって、わたしはちょっと笑った。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ。どうして早く言わないんだよ」
武は怒っていた。わたしは首をかしげる。
「こんなこと、異常だよ。人形が人間になりすますなんて」
「人形の時も話したりできるんだよ」
「何で平気なんだよ。この人形は変だ。早くいとこに返せよ」
武はわたしを懸命に説得した。わたしははじめ気にしていなかったけれど、武がわたしに何か言えば言うほど、その通りだと思えた。エミリーは確かに変だった。それを言えば初めて会ったとき、わたしが何とも思わなかったのもおかしかった。
「わかった。エミリーは晶子ちゃんに返す」
「それがいいよ」
「で、武。武はわたしとエミリー、どっちが好きなの?」
武は面食らったような顔をした。わたしは笑顔だったけれど、さっきの復讐に燃えていた。エミリーに敵愾心を燃やしていたのだ。
「おれは」
「私のほうが好き?」
武はこくんとうなずいた。
「じゃあキスして」
エミリーの前で。エミリーは箱の中で動けなくても意識はあるから。
武はためらいながらわたしに口づけをした。唇の先が触れるだけの口付けだった。
「大好き」
わたしは武に寄り添った。武はぼんやりとわたしを見つめている。わたしをはしたない女だと思っているのだろうか。それでもいい。武の口付けをもらえる女であるなら、どんな女だっていい。
そのとき、エミリーの箱ががたんと鳴った。振り向くと、エミリーは少し傾いていた。自力で動いたのだろうか。そう思うと、ぞっとした。初めてエミリーを不気味に思ったのだ。
エミリーは押入れに入れた。もうお別れだ。晶子ちゃんと連絡がついたら、すぐに返してやる。
わたしは部活が終わると武と一緒に帰るようになっていた。クラスメイトからは冷やかされ、羨ましがられた。わたしは嬉しかった。武が堂々とわたしを連れていることが。
家に帰ると、急いで着替えて武の家に行く。武も着替えて出てくると、一緒に犬のイソップが付いて来る。散歩をするのだ。イソップは枯れ草色の毛の、耳の立った大人しい雑種犬だ。武が小学生のころ、子犬のイソップを拾ってきたのだという。わたしにはすぐ馴れた。わたしもイソップがかわいくて仕方がなくなった。
「イソップってかわいいね。わたしもイソップみたいな犬が欲しい」
「あげないよ。うちのイソップだからな」
武が声を上げて笑う。イソップは自分の話をされているとわかっているのか、巻いた尻尾を振って嬉しそうに笑った顔をする。
「笑ったよ、イソップ」
「本当だ。こいつ、よく笑うんだよな。犬には表情がないなんて言うけど、少なくともうちのイソップだけは違うよ。表情豊かだよ」
わたしはくすくす笑う。武がイソップに夢中だからだ。武は不思議そうな顔をする。イソップも首をかしげてわたしを上目遣いに見る。
「かわいい」
「まあな。イソップはかわいいよ」
「武もだよ」
えっ、と武は一瞬立ち止まる。そしてすぐに歩き出す。
「男にかわいいはないだろ」
「だってそうなんだもん」
武は付き合う前よりわたしへの態度が柔らかくなっていた。以前は何を話していてもぶっきらぼうだったのに、今は男友達と話すときより優しい口調で話してくれる。そのことを言うと、武は顔を赤くした。
「前から、好きだったから。緊張してたんだ」
「そうなの?」
わたしは嬉しくて笑った。武は頭をがりがりとかいている。
「あの人形とのことは、ごめん。あの後もどうしていいかわからなくて。でも、お前と付き合えて、嬉しいよ」
武はそれだけを小声で、ぽつぽつと言った。わたしは胸を高鳴らせながら、長いため息をついた。
幸せだ。何て幸せなんだろう。
わたしは何をしていいかよくわからなくなって、見上げるイソップの頭を撫でた。イソップは嬉しそうに笑った。
3
家に帰ると、母が不機嫌に、晶子ちゃんから電話だと言った。
「エミリーを大事にしてる? わたし、それが気になって電話をしたんだ」
晶子ちゃんは強張った声でそう言った。わたしは気味悪く思いながら、大事にしてるよ、と答えた。生きた人形を作った彼女のことが、不気味でたまらなくなったのだ。
「晶子ちゃん、エミリーは」
晶子ちゃんに返す、と言おうとしたときだった。晶子ちゃんはそれをさえぎるように、
「エミリーはわたしの大切な人形なの。お願い」
と電話を切った。わたしはふに落ちない気分で二階に上がる。押入れの中にはエミリーの入った箱がある。中を覗いてみる。エミリーは箱の中で目をぱっちり開いて動けずにいる。わたしは乱暴に引き戸を閉めた。
それからすぐに階下で電話が鳴った。しばらく鳴って、次に母の不機嫌な声。
「碧。晶子ちゃんから」
驚いて下に降りた。今度は何だろう。わたしはそっと受話器を手に取った。
「大切にしてって言ったでしょ」
晶子ちゃんの低い声。
「あの子はね、もうすぐ人間になるんだから」
がちゃん、と受話器を乱暴に置いた。わたしの行動が見えていた? それに、エミリーが人間になるとはどういう意味だろう。わたしは怖くなって武に電話をしようとした。しかし、武が家族に冷やかされて迷惑するかもしれない、と思うとできなかった。それどころではなかったのに。
エミリーが人間になったら、どうなるだろう。わたしは考えた。武を取られる? そんなこと、耐えられない。
部屋の前に戻ると、大きくなったエミリーが中にいる気がした。けれど、実際にはそうではなかった。押入れには動かないエミリーがいたし、部屋のものは何も変わっていなかった。
次の日は土曜だったので、武がイソップを連れてうちに来た。わたしは歩きながら、早速晶子ちゃんの話をした。武は顔をしかめる。
「まともに考えてみろよ。おれならすぐにいとこに人形を返すけどな」
「そうだよね。今日お母さんに頼んで、持っていってもらう」
イソップがわたしたちの話を懸命に聞いている。耳をぴくぴく動かしているからわかる。話を理解しているのだろうか。
散歩を終えてわたしの家に戻ると、わたしは武とイソップにさよならをした。二人とも笑ってわたしを見ている。わたしは二人を背に、玄関のドアを開いた。
そこは、薔薇色の真っ直ぐな長い廊下だった。
どこまでもどこまでも続いている。壁には転々と黒いオイルランプがある。
「武!」
わたしは上ずった声で叫んだ。それに気づいた武が急いで中に入ってきた。ドアが閉じる。イソップが咆える声。武もわたし同様唖然としている。
「何だ? これ」
「わたしの家、だよね」
わたしは奥に向かって歩き出した。武があわてる。
「危ないって。外に出よう」
ドアノブを回す。開かない。
「どういうこと?」
「わかんねえよ」
武がドアに体当たりをする。どうしても開かない。イソップが悲痛な声で鳴いている。
「わたしだって人間になりたいのに」
どこからか、エミリーの声が聞こえてきた。
「わたし、あと一週間箱の外に出してくれれば人間になれたのに」
「エミリー、どこ?」
薔薇色の廊下のどこかにエミリーはいるはずなのに、見つからない。
「人間になって、武君と恋人になりたいのに」
エミリーの小さな後姿が見つかった。人形のまま走っている。わたしもそれを追って走り出した。武は相変わらずドアを開けようとしている。
「碧、行くな!」
「人間になったら、わたし、この家に住むの。碧の部屋で寝て、碧のカップでココア飲んで」
エミリーが笑う。わたしは追う。人形の足なのに、この長い廊下のせいかなかなか追いつかない。
「学校にも行くの。碧の代わりに。皆がわたしの姿をほめるの。気持ちがいいわ」
怖い。それはわたしが省かれた世界だ。エミリーが望んでいるのはわたしがいない世界なのだ。わたしの代わりに生きるつもりなのだ。
「どうして? どうしてそんなことを思うの? どうしてわたしを省いた世界を作りたいの?」
エミリーが一瞬振り向いた。その唇はこう言っていた。
「晶子がそう言ってたのよ。碧を省いた世界を作って、一緒に生きようって。碧は邪魔だって」
碧は邪魔。晶子ちゃんが? どうして? なぜ? わたしは晶子ちゃんに親切にしてきたじゃないか。
「晶子は碧のこと、嫌いなのよ」
「どうして?」
エミリーの笑い声が辺りに響き渡る。わたしは怒り狂いながら叫んだ。
「どうしてったら!」
エミリーはますます大きな声で笑い出した。耳障りでたまらない。わずらわしさが耳の中で破裂する。
「いい加減にして。あんたの思い通りにはさせないから」
ドアが見える。あれは、晶子ちゃんが引きこもっている、あの部屋のドア。ゆっくりと開く。髪を伸ばしっぱなしにした、幽霊のような晶子ちゃんがのっそりと現れる。
「晶子ちゃん!」
わたしは、叫んだ。
4
「おかえり、エミリー」
晶子ちゃんが大事そうにエミリーを抱き上げる。エミリーが猫のように甘える。
「かわいそうに。碧ちゃんはエミリーを人間にしてくれなかったんだね」
「そうなの。晶子はあんなにわたしが人間になることを応援してくれてたのにね」
「そうね」
それは腹話術師の会話に見えた。とても気味が悪い。わたしはまだ走っていた。走っても走っても近寄れない。どうあがいても進まない。わたしは息切れしていた。
「エミリーが人間になったら、わたしはエミリーになるの」
晶子ちゃんがわけのわからないことを言った。わたしは叫ぶ。
「エミリーはわたしと取って代わる気なんだよ。やめさせて」
晶子ちゃんはにっこりと笑った。エミリーはぼんやりと晶子ちゃんを見上げている。
「晶子、晶子がわたしになるってどういうこと?」
「それはね、エミリーの魂を抜いて、わたしの魂をエミリーに込めるということだよ」
晶子ちゃんは嬉しそうに笑った。わたしはそれを見てぞっとした。
「エミリーは死んで、わたしは生まれ変わるの」
「やめて!」
エミリーがじたばたと動いた。
「離して、離して、晶子。もうわたし、人間にならなくていいから。人形のままでいいから。わたしを殺さないで、晶子」
「嫌だ」
晶子ちゃんがエミリーに頬ずりをする。何だか化け物じみた顔だ。
「少しずつ、ことを運ぶつもりだった。エミリーを人間にして、碧ちゃんを消して、わたしはエミリーの中に入る。そのつもりだった。けど、碧ちゃんがわたしの言うことを聞かないから」
晶子ちゃんはわたしをにらむ。
「どうして?」
わたしは息も絶え絶えに訊いた。
「どうして? どうして晶子ちゃんはわたしのこと嫌いなの? 仲良くしてきたじゃない。どうしてわたしを消したいほど憎んでるの?」
晶子ちゃんの表情が変わった。般若のような顔に。わたしはひるんだ。
「あんたが言ったんだ。島みたいな形のあざだって。あんたがわたしに呪いをかけたんだ。あんたなんか、消えちまえ」
途端に、エミリーの後姿から、心臓の形の光が見えた。晶子ちゃんがそこに吸い込まれていく。
「わたしはエミリーになって、あんたと成り代わるんだ」
晶子ちゃんの声が部屋に響き渡る。もう、エミリーの声はしない。
「碧!」
武が走りよってくる。わたしは呆然としていた。足がない。胴体も、消えていく。ゆっくりとゆっくりと消えていく。わたしが、なくなっていく。
「武」
武がわたしの手をつかんだ。わたしは消えそうになりながら両手で武の手を握った。晶子ちゃんの狂気のような笑いがこだましている。
犬の声がした。
イソップがすごい勢いで走ってきて、わたしの横を通りすぎ、浮かんでいるエミリーに飛びついて引きずり下ろした。がしゃん、と何かが、いや、エミリーが壊れる音がする。同時に、晶子ちゃんの叫び声も。イソップはそれでも何度もエミリーに噛み付いて、床に叩きつけて、粉々にした。
「止めて。エミリーを壊さないで。わたしの最後の希望なの。まっさらな人間になる、最後のチャンスなの」
体が元に戻った晶子ちゃんがしくしくと泣いている。イソップはエミリーのドレスをずたずたにしている。
「出て行って。もう出て行って!」
イソップとわたしと武は、ぐんぐんと廊下の入り口に追いやられていった。その中で、晶子ちゃんはゆっくりと自分の部屋のドアの中に入り、閉じた。
気がつくと、うちの玄関の前に立っていた。イソップが誇らしげに踏んでいるのは、エミリーの破片。わたしは途端にエミリーがかわいそうになって、泣いた。武は呆然としていたが、わたしが泣き出すのを見て、背中を叩いた。イソップは後悔したかのように、エミリーから降りてくうんと鳴いた。
玄関のドアが開いた。母だ。
「あら、武君。あなたたち何してるの? ぼんやりして」
「エミリーが」
「やだ。人形が壊れてるじゃない」
「わたし、エミリーを晶子ちゃんに返しに行く。お母さん、連れてって」
「嫌よ。自分で行きなさい」
母は顔をしかめて家に入った。わたしは泣きながら家に上がり、エミリーの箱を部屋から持ち出してまた外に出た。
「エミリーはまた箱の中。ごめんね」
そう言って、わたしは武に手伝ってもらってエミリーの破片を箱の中に入れた。そうして、わたしと武とイソップの三人で、晶子ちゃんの家に行った。おばは少々困った顔をしていた。
「晶子の様子がおかしいの。わたしじゃどうにもならないから、碧ちゃんどうにかしてくれない?」
わたしはうなずき、晶子ちゃんの部屋に向かって歩いていった。武も一緒だ。イソップは外で待っている。
「晶子ちゃん」
あのドアを開くと、晶子ちゃんは顔を隠して泣いていた。嗚咽を漏らして。あまりに激しい泣きじゃくりように、ぞっとするほどだった。
「晶子ちゃん。エミリー、返す」
途端に晶子ちゃんは顔を上げてわたしを睨んで、叫んだ。
「うるさい。あんたの一重まぶたは世界一醜い」
それ以降、晶子ちゃんは部屋から出てこなくなった。わたしのことも呼ばなくなった。晶子ちゃんは完全な引きこもりになったのだ。
わたしはあのときの武の顔を覚えている。眉をひそめてわたしをじっと見つめていた。わたしには、その目が晶子ちゃんの言葉に同意しているようにしか思えなかった。わたしの一重まぶたは、醜い。
《了》




