旦那様、少々記憶が混乱しているのですが、どうして私を溺愛するのですか?
ふと気が付くと、目の前には裸で抱き合う男女がいた。
「お、お姉様!!」と先に私の存在に気付いた女性の方が声を上げると、「なにっ!?」と先程までベッドで愛おしそうに女性を抱いていた男性がこちらを向いた。
何かしら、何かおかしいわ。
そう思うのに、何がおかしいのか分からない。
「お姉様……今日は一日外出されると仰っていたのに……どうしてここへ?」
そう私に問い掛ける、美しい金色の長い髪と淡く光るブルートパーズをそのまま嵌めたような瞳の女性は、どうやら私の妹のようだ。
質問をされたのだから答えなければ、と思い何か言おうと「あ……えっと……」と声を発してみるが、何も言葉が出てこない。
困って男性の方をチラリと見てみると、彼は気まずそうに目を逸らした。
私が何も言えずにいると「お姉様、ごめんなさい!」とまたも妹が声を上げた。
何の謝罪かしらと彼女の方を見ると、男性の肩に体を寄せて密着し「本当にごめんなさい……!」と震えながらもう一度謝る。
彼女のその弱々しい姿を見て心を痛めたのか、沈黙していた男性は「……ヘレーナは悪くない! 全て俺が悪いんだ!」と声を上げた。
「君がいるというのに、俺が先に彼女に好意を寄せてしまったんだ……! 本当にすまない……」
「いいえ、私が悪いのです! 彼がお姉様の婚約者だと知っていたのに……こんな……酷い事を……!!」
感極まり涙を流す私の妹、ヘレーナを抱き寄せ「責めるなら俺を責めてくれ……彼女は悪くないんだ……」と男性は苦しそうに言葉を吐く。
まるで私が邪魔をしているかのような場面で、私は二人の言葉から冷静に状況を整理することにした。
目の前の男性は、ヘレーナ曰く私の婚約者。その婚約者と妹が愛し合っているところに私がやって来た。そういうことかしら?
あ、これ修羅場ってやつね。
理解するとこの状況が腑に落ちて、私はきっと怒るべきなんだわと察する。
だけれど、愛し合う二人が肩を寄せ合い私に怯える姿を見ると、何だか怒る気にはなれない。
「……気にしないで。婚約解消については私から話を通しておくから、二人はどうぞお幸せに」
絆されて漸く言葉を吐くと、体を寄せ合う二人は驚いた様子で私を見た。
そんな彼らを尻目に、私はすぐに背を向け部屋を出て行った。
*
「さて、どうしたものかしら……」
部屋を出てみたはいいものの、屋敷の何処に何があるかは分かるのに、自分のことや周りのことが一切思い出せない。
婚約解消の話を通しておく、だなんて、そもそも誰に通せばいいのかすら分からない。
家族は何人? ここはどこ? 私は誰?
どうしてこんなことになったのか、二人が抱き合うのを目にするまでの自分が何をしていたのか、記憶を辿ろうと集中してみても、まるでモヤが掛かっているかのようで何も出てこない。
もしかして私、記憶喪失なの?
気味の悪い感覚に少しの不快感を感じていると、
「お嬢様……」
と後ろから声がした。
振り向くと、頬に可愛らしいそばかすのある、三つ編みをした少女が立っていた。
服装からして使用人かしら。
「……お嬢様、どうかそのようなお顔をされないで下さい……私も悲しくなってしまいます……」
少女は瞳を潤ませ、不思議なことを言った。
私は今、一体どんな顔をしているというの?
この子が心を痛め涙を流しそうになるほど、私の顔は酷いのかしら。
今までの記憶が抜け落ちたせいか、悲しみや怒りは一切感じていないのに。
「……いいのよ、シーラ」
覚えていないはずなのに、私は何故だかその子の名前を吐いていた。
優しいシーラに「あまりの衝撃に記憶が曖昧だわ」と簡単に伝えれば、彼女はすぐに状況を説明してくれた。
先程、愛おしそうに私の妹を抱いていた男性はレオナルド・オークランスといって、オークランス伯爵家の長男とのこと。
親同士の約束で婚約した私達だったが、仲は悪くなかったらしい。
毎週のように彼が我が家に来ては、庭園で二人楽しげに話しながらお茶を飲んでいた、とシーラは言っていた。
けれどきっと、そうやって毎週彼が会いに来ていたのは、私ではなかったんだろう。
私が静かに考えていると、
「……一先ず、旦那様にこの事をご報告致しましょう」
とシーラが私の手を優しく握った。
その手の温もりから、きっとこの子は凄く優しい子なのね、と思いながら「ええ」と微笑むと、彼女はまた悲しそうな顔をした。
お父様の書斎へ、と足を踏み出すと、何故だか勝手に足が進んだ。何処へ向かうべきなのか体が覚えているようだ。
辿り着いた大きな扉の前に立ち止まり、ノックをすると部屋の中から「何だ」という声がした。
本当は名乗らなければならないのだろうけど、自分の名前すら分からない私にはそれができない。
シーラに教えてもらおうかとも思ったが、自身の名前すら忘れてしまうほどの衝撃だったのだと思われては、彼女の同情心に拍車が掛かるかもしれないと思い聞けなかった。
「私です」と通じるかも分からない返事をすると、中の声は「……マリアか? 入りなさい」と応えてくれた。
私、マリアというのね。
やっと分かった自身の名を頭に刻み、シーラが扉を開け中に入ると、一人の男性がデスクの前の椅子に着いているのが視界に映った。
この方がお父様だわ、と何故か一目見て理解し「ご報告がございます、お父様」と冷静な言葉を吐くと、彼は「なんだい?」と優しい声で問い掛けた。
先程起きた出来事をさらりと伝えると、お父様は私よりも衝撃を受けたような顔をして驚いていた。
かと思えば、整っていた髪を手で勢いよく掻き乱し、「なんてことを……!」と苦しげな声を出す。
そんなお父様を静かに眺めていると、彼はふと立ち上がり、私の方へ来て「マリア……可哀想に……」と優しく私を抱き締めた。
その温もりでよく分かる、彼が私を愛しているということを。
こんなに温かい人のことも私は忘れてしまったのね。
そう思うと、罪悪感で酷く胸が痛んだ。
私を離し、再び椅子に座り直したお父様は悩ましげに一枚の手紙を眺めていた。
大きく息を吐き「マリア……少し聞いてくれるかい?」と問い掛け私を見るお父様の表情は、何だかただ事ではなさそうだった。
「勿論です」と肯定の言葉を返すと、お父様は言い辛そうに続けた。
「……実は縁談の話が来ていてね。お相手は我が家の娘をご所望なんだ」
お父様はそう言いながら眺めていた手紙を私に差し出し、私はそれを『内容を確認してくれ』という意味と受け取り手紙の中身を取り出した。
上質な紙には少ない文章で、
『貴殿の娘を我が息子の婚約者に希望したい』
と書かれていた。
あまりにも少ない文章に不審に思いつつ、封筒に書かれた差出人を確認すると『ランツ公爵家』と記載がある。
「公爵家……ですか……?」
記憶を失っても高貴だと分かるその名に思わず驚きの声を上げると、お父様も困惑したような声で「そうだ」と肯定した。
「普通なら、男爵家である我が家に公爵家から縁談の話を持ち掛けられることはない。何せ身分が釣り合わないからな。私自身にもそのような繋がりはない」
お父様の言葉で、自身の家格が男爵家であるということも今更知った私は、確かに不思議だと思った。
手紙に短く記された『貴殿の娘』というのも変だ。だって、少なくとも我が家には娘が二人いるのだから。
疑問を抱いている私に、お父様は淡々と状況の説明を始めた。
「ランス公爵家といえば、前王の時代に戦争で素晴らしい戦果を上げ公爵にまで登り詰めたと言われている家門だ。私も夜会で何度か挨拶をしたことがあるが、今でも王家とは密な関係を維持しているらしい」
お父様の口振りからして、やはりかなり高貴なお家……そんな家門がどうして我が家に縁談を?
確かに、男爵家の我が家としては少しでも高貴な家門に娘を嫁がせたいはず。我が家より位の高いオークランス伯爵家との縁談も、きっと私達の知らないところでお父様が必死に手に入れた物なのだろう。
「そんなランス公爵家が、一体なぜ我が家に縁談を持ち掛けて来たのか、つい先日漸く分かったのだ……」
再び頭を抱え静かに零したお父様に「……分かったのですか?」と問い掛けると、お父様は言い辛そうに口にした。
「……マリアとレオナルド殿は既に婚約の儀式を終え、正式な婚約者同士として両家共に認められている。今、我が家で相手のいない娘はヘレーナのみ……もしランス公爵家がそれを調べていて我が家に縁談を持ち掛けたのだとしたら、それはつまり……」
お父様が暗い表情で辛そうに吐き出す言葉に、私は続きの言葉が何なのかをすぐに察することができた。
「……この縁談はヘレーナに向けた縁談、ということですか?」
私が先に口にすると、お父様は申し訳なさそうに頷いた。
確かに、未婚の娘が二人もいる我が家に『貴殿の娘を我が息子の婚約者に――』というのは不可解な言い回しだった。普通なら、娘二人のうちどちらかを差し出すように、と簡単に受け取るだろう。
けれど、今回のように既に娘一人は嫁ぎ先が決まっている状態なら、我が家は未だ相手のいない娘の方を差し出すしかない。
遠回しな言葉なのに、まるでどちらを差し出されるのか既に想定されていたかのような文章だ。
「もし、ランス公爵家が本当にヘレーナを望んでいるのだとしたら、既に清い体で無くなっている娘を公爵家に送り出すことなど出来るはずもない……だが、このまま縁談を断ってしまえばきっとすぐに悪い噂が立ち我が家は破滅するだろう……」
一体どうすれば……と項垂れ零すお父様を見ると、再び胸が痛んだ。
私がレオナルド様に愛される努力をすれば、きっとこんなことにはなっていなかった。
昨日までの私がどのように彼と接していたのかすら思い出せないが、きっと私は努力を怠っていたのだろう。
だから彼は、私ではなくヘレーナを選んだ。
自分を責めたいのに、記憶が混濁していて責める自分すら見失っているこの状況は、何だか妙な感覚に陥らせる。
私が、責任を取らなければ。
「……手紙にある言葉通り、娘を一人差し出せば良いのでは?」
私がふと口にした言葉に、お父様は驚いたような顔でこちらを見た。
「……どういうことだ?」と私に問い掛ける声は、少し震えている。これから私が続ける言葉に察しがついているようだ。
「手紙には『貴殿の娘を』としか記されていません。傷物になってしまったヘレーナを公爵家に差し出す訳にはいきませんから、私とレオナルド様の婚約を解消し、彼には新たにヘレーナとの婚約を結ばせます。そしてランス公爵家には、婚約を解消し相手のいなくなった私を差し出せば良いのです」
淡々と提案すれば、お父様は「いや……だがそれは……」と首を横に振った。
公爵家側から苦言を呈されると思ってのことだろう。
「言葉を欠いたのはランス公爵家の方です。我が家は言葉通りの意味に受け取ったのみ……あちらもきっと分かっているはずですから、直接的な文句を仰ったりはしないでしょう」
私の提案に「それは最もだが……」とやはり何処か否定的な言葉を漏らすお父様も、きっとそれしか方法がないということを理解している。
ずっと後ろに控えていたシーラも「お嬢様……」と同情的な声を漏らしていた。
「あちらのご子息が私を気に入らなければ、公爵家側から縁談を白紙に戻すよう訴えてくるでしょう。それなら、我が家が悪い噂を立てられる謂れはありません」
我ながら理にかなった提案だと思う。
男爵家という小さな家門の我が家を救うには、最早それしか方法はない。
お父様が私を愛してくれていて、婚約者に浮気された可哀想な娘をすぐに別の男性に差し出すだなんて申し訳ない、という感情も表情から窺えるが、他に方法がないことを理解しているお父様なら、きっと私の思う答えをくれるはず。
お父様は納得のいかないような「うーん……」という唸り声と共に、小さく「……分かった」と声を出した。
「酷い父親ですまない……マリア……」
辛そうな、悲しそうな顔をして謝るお父様に、
「いいえ、お父様のお役に立てるのなら本望ですわ」
と微笑むと、お父様は更に苦しげな顔をした。
数日後、私とレオナルド様の婚約は正式に解消され、新たに愛し合う二人の婚約が結ばれた。
美しいヘレーナと、その隣に寄り添うように立つ凛々しいお姿のレオナルド様はとてもお似合いに見えた。
お父様はランス公爵家と手紙でのやり取りを継続しており、話は順調に進み、数日後に公爵家の屋敷に訪問する事が決定した。
それを私に報告してきた時の申し訳なさそうなお父様の顔は、何だか忘れられない。
私はというと、相変わらず記憶が戻らないため知ったかぶりでどうにか日々を乗り越えてはいるものの、たまに会話で不明な点が出てきては困り果てている。
屋敷の構造や物の名前、使い方等は覚えているのに、人の名前や自分のことは一切分からない。
都合よく記憶が消されているような感覚で、端的に言えば不便だ。
そんな私を、使用人達はよく助けてくれた。
勿論、記憶がほぼ無くなってしまったとは言えていないが、普段から私のことをよく見てくれていたのか、私の様子がおかしいことに皆すぐに気付き「お嬢様、何かお探しですか?」「お嬢様、どうかされましたか?」とよく声を掛けてくれる。
周りに常に気遣われていることで、私がこの家で愛されて育ったのだと実感した。
妹のヘレーナとは、あまり話せていない。
あの一件から気まずいのか、私と目が合うとすぐに目を逸らし何処かへ行ってしまう。
食事の時もお父様にしか声を掛けない姿に、きっとレオナルド様とのことで私が怒っていると思っているのだろう、と結論付けた。
ランス公爵家との縁談については、暫くヘレーナには伝えないということで話が纏まった。
理由は、ヘレーナにいらぬ罪悪感を抱かせないため。
自身が幸せになることで我が家がちょっとした危機に面していただなんて、きっと知りたくは無いだろうから。
そうして、記憶は戻らないままランス公爵家へ訪問する日になった。
お父様と二人馬車に揺られ、王都にある公爵家までの道のりを緑豊かな景色を眺めながら進んでいく。
窓から見える美しい森林に思いを馳せていると、相変わらず気を落としているお父様が「マリア……無理だけはしないでくれ」と小さく呟いた。
「大丈夫ですよ、お父様。きっとすぐに白紙になりますから」
前を向きそう答えると、お父様は漸く安心したように笑った。
馬車が止まり、お父様のエスコートで馬車を降りると、目の前には田舎にある我が家とは比べ物にならないほどの立派な屋敷が建っていた。
思わず「まぁ……!」と声に出し、隣に立つお父様を見ると、気持ちは同じだったのか緊張して肩が少し上がっている。
そんなお父様に釣られ、何だか私も緊張してしまう。
二人してカクカクと足を進め、目の前に現れた大きな扉をノックすると使用人が私達を出迎えた。
丁寧に挨拶され、使用人に案内されるがままに進むと一つの部屋の前に辿り着く。
使用人は小さくノックをし、声を上げた。
「旦那様、ユングステッド男爵がおいでです」
使用人の声に「入りたまえ」と返事があり、扉が開き中へ入ると、気品のある銀髪の男性が客用らしき上質な長椅子に腰掛けていた。
「おぉ、待っていたぞ。ユングステッド男爵」
立ち上がり私達を出迎えたこの男性こそ、ユンス公爵なのだろう。
公爵を前にし、お父様が「この度は誠に光栄なお話を……」と挨拶をしようとすると、
「良い良い、堅苦しいのは無しにしよう」
と公爵はお父様の肩を優しく叩いた。
「して、そちらのお嬢さんが……」と公爵が私に視線を移したのに気付き、私がすかさず「ユングステッド男爵家、長女のマリア・ユングステッドと申します」と挨拶と共にカーテシーを披露すると、やはり公爵は疑問を感じたような顔をした。
「確か、長女のマリア嬢は既に婚約を結んだ相手がいたのではなかったかな……?」
明らかに疑うような目付きで問われ、私はここへ来るまでに何度も練習していた返答を返した。
「申し訳ありません、事情があって婚約を破棄いたしまして……そして、妹のヘレーナもつい先日婚約を結んだため、私が参らせて頂きました」
我が家の内情を包み隠さず言うことで、公爵がこの縁談を迷いなく白紙に戻せるよう私なりに気を使って吐いた言葉だ。
ここまで言ってしまえば、きっと公爵は事情をすぐに察するだろう。
だが、そんな私の言葉に動じることなく、公爵は温厚な表情のまま「そうかそうか。まぁ座るがいい」と私達を長椅子に座るよう促した。
椅子に腰掛けると、同じく私達の正面に腰掛けた公爵は迷いもなくヘレーナの話題を口にした。
「まさかヘレーナ嬢が婚約していたとは、知らなかったよ」
そうあっけらかんと話す公爵の瞳をよく見ると、光がないことに気付いた。恐らく『何故黙っていたのか』と言いたいのだろう。
けれど、自身の出した手紙には求める娘の明確な名前を記していなかったため、直接的に聞くことは出来ない。
だからこうして、遠回しに説明をさせようとしているのだろうか。
「美しいと評判のヘレーナ嬢に未だ相手がいないと不思議な噂を聞いていたんだが、まさか遂に婚約してしまったとは驚きだ」
私のことは一切聞かずヘレーナのことばかりを話す様子からも、やはり公爵は妹をご所望だったのだろう。
私が静かに話を聞きながら推測していると、
「息子も彼女と何度か話したことがあるみたいでね、とても好印象だったらしいんだが……」
と明るい声の中に少しの低音を混ぜた声で、公爵が言った。
静かに私を見つめる公爵に、私はすぐに理解した。
公爵の言葉の意味は、恐らく――。
『息子は、ヘレーナとの婚約を望んでいた』
……なるほど、公爵ではなくご子息がヘレーナを望んでいたのね。
理解すると、公爵の意外と普通な態度が腑に落ちた。同時に、この状況を見たご子息が酷く落胆するであろうことを想像し、少し寂しくなった。
別に、あわよくば私が選ばれたりなんてしないかしら、なんて思っていた訳ではない。
自身が高貴な公爵家のご子息に釣り合うような女ではないことは、記憶を失っていても理解している。
ヘレーナのように美しくもない、黒髪黒目の無難な見た目で公爵家の妻になろうなどと、烏滸がましい話だ。
けれど、もし……もしご子息が私を妻にと望んでくれたのなら、きっと私は精一杯彼のために尽くすだろう……そう思っていただけだ。
そんな起こり得ない“もしも“に少しの希望を望んでしまった私は、きっと愚かな女。
自身の愚かさが身に染み肩を落としていると、突然ノックの音が響いた。
「父上、参りました」
声がして、公爵が「入りなさい」と声を上げると扉が開き、同時に私達も立ち上がる。
そして、一人の青年が部屋に足を踏み入れた。
公爵と同じ艶やかな銀髪に、輝くヴァイオレットの瞳はまるで凛々しく咲く一輪の花を思わせる、そんな美青年。
私が見惚れていると「息子のエドヴァルドだ」と公爵が彼を紹介し、その声に合わせて彼も挨拶をした。
「お初にお目に掛かります、ユングステッド男爵。エドヴァルド・ランツです」
その単調な声には、高貴な身分故の気品と多少の冷ややかさが含まれているようで。
美しい人……それが、彼の第一印象だった。
彼の冷ややかな切れ長の目元に、あぁ……これは私に気付けばさぞかし鋭く睨むことだろう、と想像する。
「こちらこそ、お初にお目に掛かります。エドヴァルド殿」とお父様が挨拶を返すと、彼の瞳がふと私を映した。
途端に、彼の表情が打って変わる。
「……マリア・ユングステッド嬢ですね」
それは悲しみを帯びた、まるで憂うような表情。
どうして?
この人とは初対面なのに、何故か……初めての気がしない……。
それに、彼の求めていたヘレーナではないのに、何故驚きもせずに私の名を呼んだの……?
不思議な感覚に襲われ呆然としていると、
「……マリア嬢?」
と再び彼が名を呼んだ。
彼の声にハッとして「ご、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。マリア・ユングステッドです」と慌ててカーテシーをすると、彼は小さく頷いた。
彼、エドヴァルド様が縁談相手が私だと知っていることを不審に思った公爵が「お前はマリア嬢が来ると知っていたのか?」と問い掛けると「先程使用人から聞きました」と彼は冷静に答えた。
公爵はすぐに納得していたけれど、私は何処か変だと思った。
受け入れるのがあまりにも早すぎる。ヘレーナと彼がどのように出会ったのかは知らないが、少なくとも彼は自身の婚約者に希望するほど妹に好意を寄せていたはずだ。
それなのに、目の前にいる縁談相手は美しい妹とは正反対の私。
鋭く睨まれ「話が違う」と言われても仕方がない状況で、どうして彼はこんなに……
優しい目で、私を見つめるの……?
彼の態度を疑問に思いながらも、何故か彼がこの状況を受け入れたことで公爵もヘレーナの話を辞め、私達は穏やかに世間話をしていた。
そうして暫くすると「ご迷惑になりますので、そろそろお暇いたします」と事前にしていた打ち合わせ通り、お父様が帰宅の宣言をする。
公爵が気を利かせ私とエドヴァルド様を二人きりにし、私が彼から直接苦言の言葉を呈されないよう、お父様が気を使ってくれたのだ。
気にしないと言ったけれど、お父様は私がこれ以上傷つかないようにと常に私の気持ちを重視してくれている。
優しいお父様の言葉に従い立ち上がると、
「待ってくれ」
と思いもしなかった制止の声が聞こえた。
エドヴァルド様だ。
先程まで公爵とお父様の会話をただ静かに聞いていた彼が突然声を上げたことに、公爵も驚いた様子で「どうした?」と問い掛ける。
その問い掛けに答えず、彼は静かに立ち上がり
「マリア嬢、少し話がしたい」
と私をまっすぐ見て言った。
「え……」
思わず声を漏らすと、彼の言葉を聞いた公爵が「あぁ、気を使えなくてすまなかったな」と気付いたように言いお父様を見た。
「ユングステッド男爵、マリア嬢、もう少し大丈夫かな?」
公爵の瞳には、先程は無かったはずの光が宿っていた。
美しい花々の咲く広々とした庭園をエドヴァルド様と二人歩きながら、どうしてこんなことになったのかと考える。
彼が自ら公爵に「マリア嬢と二人で話がしたいのですが」と言った時は、何の間違いかと思った。きっと聞き間違いだわ、と。
だけれど、今こうして二人並んで庭園を散歩しているのは……一体どうして?
まさか、そんなにも私に苦言を呈したかったのだろうか。
実はすごく怒っているの……?
混乱から次々と疑問が浮かび動揺していると、不意に彼が「マリア嬢」と私の名を呼んだ。
返事をして彼を見ると、彼も同じく私を見ていた。また、あの悲しげな表情で。
どうして彼が私をそんな風に見るのか、何度考えても理解が出来なかった。
立ち止まり、悲しげな彼を眺めていると
「……本当に……君なんだな」
と同じく立ち止まった彼が小さく呟いた。
その声には、求めていた縁談相手ではないことへの怒りや悔しさのような感情は含まれていないように思える。
「……エドヴァルド様?」
声を掛けると、彼は突然私の前に跪き手を取った。
「えっ」と声を上げ彼を見ると、彼もまたまっすぐ私を見つめていた。
「マリア・ユングステッド嬢、ここに宣言させてほしい」
真剣な眼差しで、私から目を逸らすことなく彼は続ける。
「君を……必ず幸せにする」
「……え?」
あわよくば、と描いていた理想が……今、目の前にある。
再び聞き間違いかと思い目を丸くしていると、彼が小さく「今度こそ……」と呟いたのが聞こえた。
*
帰りの馬車に揺られながら、エドヴァルド様の言った『今度こそ』という言葉に疑問を持つ。
あれはどういう意味だったのかしら……と考えるが、記憶が混乱している私が考えたところで何も思い付きはしない。
結局あの後、彼に「ヘレーナに好意を寄せていらっしゃったのでは……?」と素直に聞いてみたが、彼は冷たい目をして「……間違いだったと気付いたんだ」と言ってすぐに話を逸らされてしまった。
何が彼の気持ちを変えたのかは、私には分からない。だけれど、彼が私を望んでくれるのなら……私は……
『必ず幸せにする』なんてまるで夢のような言葉に、私はお父様が目の前にいるにも関わらず、頬を染めてしまった。
訪問から暫く経つと、改めてランス公爵家から『マリア・ユングステッド嬢とエドヴァルド・ランスの婚約の話を進めたい』という内容の手紙が届き、やはりあの日のことは現実だったのだ、とお父様は冷や汗をかいていた。
男爵家と公爵家の婚約など、我が家からしてみればかなりの大事。持参金の話し合いもさる事ながら、公爵家の婚約者に釣り合うためのドレスやアクセサリーを発注したりと私とお父様は日々準備に追われていた。
そんな様子にヘレーナも不信感を抱いたのか、レオナルド様とのことがあって初めて彼女の方から声を掛けられた。
「お姉様、お父様と何か隠していらっしゃいますか?」
大きな瞳で覗かれ、つい答えそうになってしまったが「ごめんなさい、ヘレーナ。もう少ししたらお話するわ」と何とか耐えて答えると、彼女はすぐに諦めて去っていった。
婚約の儀が無事に終われば説明しよう、そう思いながら準備を進めーー暖かい日差しが降り注ぐある日、私とエドヴァルド様は正式に婚約を交わした。
協会での儀式を終えたその日、彼が「このまま最初のデートをしよう」と誘ってくれて、私達は初めて二人で王都の街を散策していた。
「マリア嬢、手を」
エドヴァルド様はそう言うと、腕を少し開き、私が腕を組むのを待っているような体勢を取った。
エスコートだわ、と気付き慌てて彼の開いた腕に手を置くと、あまり表情の動かない彼が優しく微笑んだ。
どうしてこんなに優しいのかしら、とやはり疑問が湧くが、胸が暖かくてそんな疑問はすぐに何処かへ行ってしまった。
そのまま彼に送られ我が家に着き馬車を降りると、同じくデートをしていたのか、玄関の扉の前で寄り添っていたヘレーナとレオナルド様が私達に気付いた。
私の隣に立つエドヴァルド様を見て、明らかに動揺した声で「お、お姉様……何故ランス公爵家のエドヴァルド様と……?」とヘレーナが声を出す。
その言葉を聞いて、やはりヘレーナとエドヴァルド様は顔見知りなのね、と確信した。
婚約の儀も無事に終えたことだし、今夜お父様からきちんと話して頂くつもりだったけれど、見られてしまっては今伝えるしかない。
そう決心し口を開こうとすると、隣に立つ彼が私より先に発言した。
「ヘレーナ嬢、久しぶりだな。本日、姉君であるマリア嬢と正式に婚約させて頂いた」
彼が端的に質問に答えると、ヘレーナだけでなくレオナルド様も驚いたような顔をした。
「そ……そんな……」と衝撃を受けたヘレーナが思わず声を漏らしている。
大丈夫かと心配していると、エドヴァルド様は優しく私の手を握り「マリア嬢、手紙を送る。もし良ければ返事をくれ」と甘く囁いた。
なんて甘い声と顔なの……と惚けながら「はい……」と返事をすると、彼はまた微笑み、馬車に乗り込み帰って行った。
その夜、食卓で「お父様! どうして秘密にしていたの!?」とヘレーナがお父様を責め立てた。
貴女に罪悪感を与えないためよ、と私が説明すると、何故自分が罪悪感を感じるのかと理解できない様子で彼女が首を傾げる。
さすがに説明が足りなかったと思い一から事情を話すと、ヘレーナは驚愕したような顔をして「つまり……私宛ての縁談を、お姉様が奪ったということ?」と私を強く睨みつけた。
その言葉を聞き「何を言っているんだ! 元はと言えば、お前がマリアの婚約者だったレオナルド殿と関係を持ってしまったことが原因だろう!」と珍しくお父様が語気を強め、初めて見る姿に私は驚いてしまう。
普段は温厚で優しいお父様が、まさかこんなに怒るだなんて……。
けれど、お父様の言葉は何故だか傷付いているヘレーナには響かなかったようで「酷いわ……お姉様……私、ちゃんと謝ったのに……そんな仕返しをしなくたっていいじゃない……!」と涙を流していた。
私、また悪者のようだわ。
冷静にそんなことを考え、ふと傍に控えていたシーラを見てみると、何だか酷く顔を歪めて怒っているようだった。
最悪な空気で食事を終えると、ヘレーナはすぐに立ち上がり自室に戻ってしまった。これからずっと愛する人と共にいられるというのに何故あんなに私を睨んだのか、考えても分からない。
あの子に嫌われてしまったのだろうか……と思い肩を落としていると、それまで静かにしていたシーラが「お嬢様は優しすぎます!」と強い口調で言い放った。
突然の声に驚きシーラを見ると、まるでリスのように頬を膨らませて「嫌味の一つや二つ言うべきですよ」とぷんぷんとしている。
「あらかわいい」なんて口にしてしまうと、彼女はまた「もう! お嬢様!」と怒っていた。
そんな面白い様子のシーラに微笑みながら「どうして私があの子に嫌味を言うの?」と聞くと、シーラは酷く衝撃を受けたような顔をして固まった。
何か変なことを言ったかしら? と自身の言動を振り返っていると、私達の会話を聞いていたお父様も「マリアは母親に似て大らかだが、もう少し不満を出してもいいんだぞ?」とシーラに同意していた。
初めて出た〝母親〟という言葉に、そういえばお母様は何処かしらと考える。
記憶を失ってから一度も見たことがない事からもしやこの家にはいないのかとも思ったが、私が記憶を完全に無くしている事は誰にも言えていないので些か聞き辛い。
この機会に聞きたいけれどどう聞いたら怪しまれないかしら、と考えていると、
「確かに、亡くなられた奥様とマリア様は瓜二つですね」
とシーラが私の疑問を全て解決させる説明をしてくれた。
なんて間のいいシーラ……! と褒め称えたくなる気持ちを抑えながら「あら、そうなの?」と自然に会話に入ると、二人揃って頷いた。
「以前、旦那様の書庫を掃除している時にたまたま隠されていた絵姿を見てしまいましたが、見た目だけでなく雰囲気まで……それはもうお嬢様とそっくりでした!」
さっきまで膨れていたのに、途端に目を輝かせて語るシーラに微笑んでいると「何? 勝手に見たのか?」とお父様が目を見開いた。
失言に気付き「あっ……」と手で自身の口を押えたシーラだったが、時すでに遅く……先程まで和やかだったお父様に暫く叱られていた。
「マリアが幼い頃に亡くなったのにどうして君が顔を知っているのかと思ったら、まったく……」
お父様の呆れたような声と、何度も謝るシーラの泣きそうな顔が面白くて、私はつい笑い声を漏らした。
こんなに素敵な家族や使用人がいるというのに、どうして私は記憶を無くしてしまったのだろう。
*
ヘレーナを怒らせてしまったあの日から十日程経った頃、エドヴァルド様から私宛ての手紙が届いた。
『王家主催の夜会に共に参加してほしい。会わせたい人がいる』という内容だった。
仲のいいご友人でも紹介して下さるのかしら、と思いながら読み進めると、終わりの方に『君のためにドレスを贈ることを許してほしい』と記されていて、私は自身の顔が熱くなるのを感じた。
『夜会の日が楽しみです』と返事をして暫く経つと、ランス公爵家からの使者が本当にドレスを持って我が家にやって来た。
ドレスの入った箱を開けると、私よりも楽しげなシーラが「合わせてみましょう!」と鏡の前に私を立たせ、贈られたドレスを充てがう。
フリルの付いた、黄色の可愛らしいドレスだ。
素敵だと感じる一方で、私よりもヘレーナの方が似合いそうだと思ってしまった。
とはいえ、婚約者からの初めての贈り物は何であれ嬉しい。当日まで大事に仕舞っておこう、とシーラに衣装棚に掛けるよう言いつけ、私は高鳴る胸を押さえながら当日を待った。
夜会当日の朝、シーラや他の使用人達と共に夜会の準備のため沐浴を終え髪の手入れをしていると、衣装棚を確認した一人の使用人が「お嬢様……!」と声を上げた。
その只事ではない声に、何事かと思いながら駆け寄ると「ドレスが……!」と使用人が口にする。
悪い予感がしてドレスの掛かっている衣装棚を覗くと、エドヴァルド様から贈られたドレスはボロボロに破れ、華やかだった姿は見る影も無くなっていた。
あまりの衝撃に「そんな……」と私が声を漏らすと、使用人達も次々と「酷いわ……」「なんてこと……!」と嘆くような言葉を口にした。
私が呆然とドレスの前に立ち尽くしていると、同じく衝撃を受けていたシーラが「ヘレーナ様の仕業ですよ……!」と突然怒りの声を上げる。
どうしてそこでヘレーナが出てくるの? と青筋を立てるシーラを見ると、
「きっと、ランス公爵家のエドヴァルド様と婚約されたお嬢様に嫉妬なさっているんです!」
と更に続ける。
確かに、ドレスを見ると誰かによって故意に破られたような不自然さがあるが、愛する人と結ばれて幸せ絶頂のヘレーナがそんな事をする理由が分からない。
いや、そもそも今は犯人が誰かなんて考えている時間は無い。
今夜、エドヴァルド様が我が家に私を迎えに来るまでに、急いで変わりのドレスを見つけなければならないが……発注したドレスはまだ届いていないし、我が家には夜会向けのドレスはあまり用意がない。
だけれど、一応何処にでも着られる無難な緑のドレスは持っている。
「……仕方ないわ。いつものドレスを着ましょう」
話を逸らし提案すると、シーラは再び怒りの声を上げようとした。
それを察して「今は夜会のことだけを考えましょう」と私が言うと、優しい彼女は不満そうな顔のまま口を噤んだ。
――その時、突然部屋にノックの音が響いた。
「マリアお嬢様、ランス公爵家から使者がいらっしゃっております」
ノックをした使用人の口にした言葉に「え……?」と私が声を上げると、シーラも驚いた様子で固まっていた。
どうして、このタイミングで……?
驚きながらも、公爵家の使者を待たせる訳には行かない、と急いで身なりを整え出迎えると「エドヴァルド様からマリア嬢への贈り物です」と見覚えのある眼鏡を掛けた使者は以前ドレスを持ってきた時と同じ文言を吐き、綺麗に包まれた箱を手渡した。
箱を開けシーラに中身を取り出してもらうと、出てきたのは美しいマーメイド型のドレスだった。
海を模したアクアマリンのように輝くそのドレスに、その場にいた人間は皆惚け、少しすると以前と同じ様に「合わせてみましょう!」とシーラが私を鏡の前に立たせドレスを充てがった。
「お嬢様……とてもお美しいです……!」
鏡に映る私を、シーラだけでなく皆が褒め称えた。私自身も、まだ化粧も出来ていないというのに自分の姿に見惚れてしまった。
私は、別に美しいわけではない。どんなドレスも、私が着るよりヘレーナが着た方が美しいに決まっている。けれど……この美しい海を思わせるドレスだけは、金髪のヘレーナよりも黒髪の私の方が似合う気がした。
まるで、私のためだけに特注したのかと疑うほどの、素晴らしいドレス。
「装飾品や靴も、全てご用意しております」と、感動して息を呑んでいた私に、使者が幾つかの箱をまた手渡してくる。
そのあまりに用意のいい出来事に、
「あ、あの、ドレスは以前も頂きましたのに、どうしてまた……?」
と気になったことを質問してみると、
「私は、エドヴァルド様からの命令で参った次第です。二度もドレスを贈られた理由は存じ上げませんが、少なくとも主にとってこちらのドレスの方が〝本命〟ということでは無いでしょうか?」
と、使者はまるで何かを見透かしているかのように微笑んだ。
そうして贈り物を受け取り使者が帰ると、私達は再び夜会の準備に取り掛かった。
使者は帰り際、最初に贈られたドレスの惨状を見ると「こちらは持ち帰ってもよろしいですか?」と言って何故かドレスを持ち帰って行ったが、何か思惑でもあるのだろうか。
シーラはというと、私の準備を手伝うよりも「またボロボロにされてはいけませんから!」と鋭い目付きでドレスの警備をしてくれていた。
そのおかげかは分からないが、私は無事美しいドレスを身に纏い、我が家に迎えに来たエドヴァルド様を出迎えることができた。
「……思った通り、君にはその色がよく似合う」
そう微笑んだ彼の目には、どこか安堵しているような色が見えた。
他愛のない話をしながらエドヴァルド様と馬車に揺られ、私達は夜会の会場に辿り着いた。
彼のエスコートで馬車を降り、そのまま会場内へ入ると多くの人が私達に視線を向けていることに気付いた。
そのあまりに多くの視線に焦りを感じ「……あの、エドヴァルド様」と声を掛けると、彼は優しい目付きで私を見て「なんだ?」と聞いた。
「……私、勉強があまり得意ではなくて……人の名前や顔が一致しなくて、エドヴァルド様に恥をかかせてしまうかもしれません……」
何故か記憶が無い、ということは言えないため、前から考えていた適当な言い訳を吐くと、彼は驚きもせずに「そんなことは気にするな。これから共に学べばいいだけだ」と優しい言葉を掛けてくれた。
こんなに素敵な人に恥なんてかかせられないわ、と逆に意気込み、私は今日までに本で勉強した知識で挨拶回りでは何とかボロを出さずに耐え切っていた。
「エド、上手くいったようだな!」
突然離れた所から声がして彼と共に振り向くと、爽やかな金色の髪をした青年が手を振ってこちらへ向かっていた。
その金色はヘレーナの明るい色とは違い、淡く光り輝いている。瞳も髪と同様の美しい輝きを放っていて、明らかに私とは身分が違うように感じた。
目の前に来て立ち止まった彼が「成功したようで何よりだ」とエドヴァルド様に何やら意味が分からない声の掛け方をしていたが、隣に立つ彼は「これも全て殿下のお力あってこそです」と当たり前のように会話を続けている。
お二人は仲が良くて、普段から何か共通の掛け合いでもあるのだろうか……なんて考えていると、先程のエドヴァルド様の言葉が漸く頭に過ぎった。
で、殿下と仰った……?
まさか、この神々しい程に爽やかな青年は……この国の王子殿下!?
彼が目の前にやって来て少し経ってから漸く状況を理解した私は、
「ご挨拶が遅れて大変申し訳ございません! ユングステッド男爵家、長女のマリア・ユングステッドと申します!」
と今更ながらカーテシーをすると、目の前に立つ殿下らしきお方は「そんなに緊張しないでくれ。私は今日、友人として君達を招いたんだからね」と暖かい微笑みを見せた。
殿下のその声に反応し、隣に立つ婚約者は私を見つめ、
「マリア嬢、手紙に書いた『会わせたい人』というのは、この国の第二王子、アルベルト・カールシュテイン殿下のことだ」
と彼を紹介した。
「殿下には幼い頃から良くしてもらっているから、是非君にも紹介したかったんだ」
その婚約者の言葉に、なんて強い繋がりなの……と私がランス公爵家と王家との関係を想像し驚愕していると、
「おい、エド……公式な場だからって、そんな口の利き方はないだろう? いつもの様に砕けて話してくれよ、寂しいじゃないか」
と殿下が唇を尖らせた。
「無理を言わないでください。殿下の仰る通り公式の場なのですから」と冷たく返すエドヴァルド様にぶーぶーと文句を言っている殿下の会話を聞いていると、きっとお二人は素敵なご友人なのだわ、と納得した。
三人で話をしていると、同じく夜会に招待されていたへレーナとレオナルド様が寄り添い、私達の前に現れた。
その後ろにはお父様もいる。
へレーナは私の姿を視界に入れると、酷く衝撃を受けた様な表情をしてレオナルド様から離れ、急いで私に駆け寄り、
「お、お姉様、そのドレスは……!?」
と問い掛けてきた。
どうしてそんなに慌てているのかと思いながらも「エドヴァルド様が贈ってくださったの」と答えると、へレーナは納得のいかないような顔をした。
そんな彼女に、何やら楽しげにニヤリと笑った殿下が「やぁ、ユングステッド男爵家のへレーナ嬢かな?」と声を掛けた。
慌てて私に駆け寄ったため視界に映っていなかったのか、殿下の存在に漸く気付いたへレーナは「まぁ、殿下! お久しぶりでございます」と一気に表情を変え、簡単な挨拶をした。
殿下に対してそんなにラフな挨拶でいいだなんて、エドヴァルド様とのこともそうだけれど、きっとこの子はかなり交友関係が広いのね。
一体どこで出会ったのかしら。
感心していると、三人で話していた時とは違う冷たい声で「へレーナ嬢は、マリア嬢の着ているこのドレスをどう思う?」とエドヴァルド様がへレーナに質問を投げかけた。
「え……どう、と言われましても……」とへレーナは質問の意図が分からず困惑している。
私も妹同様理解が出来ず、彼を見てみるがその目は冷たくへレーナを映している。
何故か張り詰めた空気に、
「そうだなぁ、人魚のようでとても美しいよ! 艶のある黒髪がよく映えて、何処かの国のお姫様と言われても疑わないな!」
と殿下が明るい声で口火を切ると、それに合わせるようにへレーナも「え、ええ」と頷いた。
「ですが、驚きましたわ。最初のドレスとはあまりに毛色が異なっていて……」
ふとへレーナが呟いた言葉に、私の頭には疑問符が浮かんだ。
あの黄色のドレスは、贈られてすぐにシーラによって仕舞われていたはずなのだが、何処かで見たのだろうか。
不思議に思いつつも受け流すと「あぁ、あれは最初からダミーで贈った物だからな。このドレスは彼女との婚約が決まってすぐに発注を掛けたんだ」とエドヴァルド様が答え、その言葉に「えっ?」と私は声を漏らした。
「どうしてダミーなんて……?」と小さく問いかけると、彼はフッと笑って「君に嫉妬する愚かな人間が、ドレスに何かするのでは無いかと思ってな」とまたへレーナを見た。
そんなエドヴァルド様から、へレーナは慌てた様子で目を逸らす。
状況が理解出来ない私とは違い、殿下も何やら楽しそうにしているし、いつの間にかへレーナの隣に立っていたレオナルド様は私のドレスに釘付けなようだった。
お父様なんて、随分前から挨拶に回っていてこの場からいなくなっている。
一体なんなの、これは?
*
無事、エドヴァルド様に恥をかかせることなく夜会を終え、私と婚約者のエドヴァルド様、そしてアルベルト殿下は帰りの馬車が待つ方へ向かって会場の外の長い廊下を歩いていた。
その時、殿下が「マリア嬢、少しエドと二人で話したいんだがいいだろうか?」と私に断り、「勿論です」と私が答えると二人は外の庭園に出て話し始めた。
話は聞こえないが、二人のその真剣な表情から、恐らく何か重要な話をしているのだろう。
話が終わるのを待ちながら、暗い夜空に輝く小さな星を眺めていると、
「すまない、待たせてしまったな」
と婚約者の声がした。
「いいえ」と私は首を振り、彼の後ろにいた殿下が手を振って去って行くのを見て、気ままな人なのね、と思いながら殿下に向かって小さくお辞儀をすると「……帰ろうか」とエドヴァルド様が手を差し出した。
その手を取って彼を見ると、
「……マリア、と呼んでもいいか……?」
と先程へレーナにはあんなに冷たい目をしていた彼が頬を染めて問い掛けた。
その何だか可愛らしい姿に思わず笑い声を漏らすと、彼は照れながら不満そうな顔で私を睨み「……何故笑うんだ」と口にした。
怒らせてしまったわ! と何故だか楽しく思いながら謝罪をして、
「では、私も殿下のように〝エド〟とお呼びしてもよろしいですか?」
と質問を返すと、彼は優しく微笑んで「勿論だ」と答えた。
あぁ、これが幸せというものなのね。
彼と過ごすことが幸せすぎて、私は胸が焦げそうだった。
夜会以降、私とエド様は頻繁に会っては仲を深めた。
二人で舞台を見に行ったり、流行りのカフェでお茶を飲み語り合ったりと、まるで恋人同士のように過ごした。
政略結婚で、しかも彼が望んだ相手は妹だったというのに……こんなに幸せなのは何かの間違いかしら。
何度もそう思ったが、彼の優しい声と繋いだ手の温もりを感じるとすぐに疑問は消え失せてしまう。
記憶を取り戻す方法も考えなくてはならないというのに、私はただこの楽しい日々を満喫してしまっていた。
そういえば、最近何故だかレオナルド様がへレーナのいない時に我が家にやって来て声を掛けてくるのだが、あれはなんなのかしら。
へレーナの予定を知らないのかしら、と親切心で予定を教えてみたけれど、忘れっぽいのかまたすぐに私だけがいる時間にやって来る。
何故かお父様が怒って追い出そうとするから、何だか気が気でない。
それをエド様に伝えると、お父様よりも怖い顔をして「そうか、対処はしておくから安心してくれ」と言ってくれた。
何の対処? と思いながらも、彼がまた優しく微笑むから何も言えなくなってしまう。
暫くすると、レオナルド様は我が家に来なくなってしまった。
へレーナがいる時ですら来ないものだから、せめて婚約者には会いに来てくれないかしら、と私は密かに心配している。
そして、私とエド様は良好な関係を維持し続け、婚約を交わして一年が経った頃正式に夫婦となった。
王都で美しいと評判の教会で式を挙げ、緑の多いテラスで参列者に挨拶をして回っていると、式に参列してくれたアルベルト殿下が声を掛けてきた。
「エド、夫人、この度は本当におめでとう。君達の夫婦としての門出を、心よりお祝いするよ」
殿下からの心のこもった言葉に「ありがとうございます」とお礼を言うと、彼はニコリと笑って「美しい君に、これをあげよう」と殿下は私に薔薇を一本手渡した。
「まぁ! 素敵……」
怪我をしないよう棘が削られた、凛とした姿の美しい薔薇を受け取り眺めていると、隣でそれを見ていたエド様が「他人の妻を口説かないでください」と不満そうな声で殿下に告げた。
その言葉に殿下は大きな笑い声を上げ、
「いい顔だ! そこまで入れ込んでいるのか! 女の趣味が良くなって本当に良かった!」
と楽しげに言っていた。
「おい……マリアの前で余計なことを言うな……!」とエド様は小声で言い、殿下を睨んでいる。
楽しそうな会話を尻目に、エド様も昔は女性の趣味が悪かったのかしら、と想像して私は一人微笑んでいた。
公務がある、と殿下は挨拶を終えるとそのまま王城へ帰って行き、私達は再び参列者への挨拶回りに戻った。
ランス公爵に挨拶をすると、「次期公爵夫人として期待しているよ」と微笑まれ、変に緊張してしまった。
近くで話を聞いていたお父様も冷や汗をかいている。
そんな公爵から逃げるようにお父様に挨拶へ行くと、涙を流しながら「マリア、幸せになりなさい」と強く私を抱き締めた。
相変わらず記憶は戻っていないけれど、優しいお父様の声を聞くと釣られて涙が出た。
「ありがとう、お父様」
温かくて大きなお父様の体に包まれていると、マリア・ユングステッドとしての本心が漏れたような気がした。
結局、へレーナは結婚式には参列しなかった。
体調が優れないらしく、朝から寝込んでいるらしい。
寂しいけれど、無理をさせたい訳ではないわ。
仕方ないと諦め、結婚式を終えた私はその足で夫と新しく住まう家にやって来た。
王都の中心街にある元貴族が住んでいた広い空き家で、ランス公爵から結婚祝いとして与えられたものだ。
内装の整備や使用人も公爵家側で既に手配が済んでいて、完成した家を見るのは初めてだ。
楽しみに思いながらエド様と玄関の扉を開けると、十数名の使用人達が私達を出迎えた。
その中に、見知った顔がある事に気付く。
「……シーラ!?」
頬にそばかすのある可愛らしい少女、シーラは私の実家の使用人だ。
驚いて名前を呼ぶと、シーラは照れながら「お嬢さ……いえ、奥様! 一生お世話させてくださいませ!」と笑顔で言った。
見慣れた可愛らしい姿に、私はあからさまに嬉しそうな顔をしてしまったと思う。
中には、あの夜会の日に私にエド様からの贈り物を届けてくれた、眼鏡を掛けた使者もいた。
エド様から、
「彼は俺の秘書として勤めてくれている、オルヴァーだ」
と紹介されると、彼も礼儀正しく挨拶をした。
「奥様、お久しぶりでございます。秘書と言いましても、仕事は使用人とあまり変わりません。何かございましたら何なりとお申し付け下さい」
知的な雰囲気と丁寧な言葉使いから、私はすぐに好感を持った。
新しい屋敷での生活は、それは楽しいものだった。
私を一途に愛してくれる旦那様と優しい使用人や秘書に囲まれ、毎日が幸せそのもので、もし夢なのだとしたら覚めないで欲しいと毎晩願った。
これから子供が出来たりしたら、きっと更に楽しい日々になるわ。
記憶を無くして一年も経ってしまったからか、最早昔の自分に興味など無くしてしまっていた。
そんなある日、アルベルト殿下が夫に会いに我が家を訪ねてきた。
「妻を愛するあまり、最近あまり構ってくれなくてね」と酷く寂しそうな顔をするものだから、客間に案内し「すぐにエド様を呼んで参ります」と告げ急いで夫の書斎へ向かったが、殿下の来訪を既に聞いたのか書斎は留守だった。
そもそも使用人に頼めばよかったものを、殿下を一人にしてしまったわ……と反省しながら客間の前まで戻ると、扉の奥からエド様の声が聞こえた。
やっぱり殿下が来たと聞いていたのね、と安心し中へ入ろうとするが、何やら二人の真剣な声が聞こえて躊躇してしまう。
大事な話をされているのかもしれないわ、と思い様子を伺っていると、
「夫人が亡くなったのは、丁度今くらいの時期だったか」
と言う殿下の声が聞こえた。
一体どこの夫人が亡くなられたのかしら、と思っていると「へレーナの結婚式の日だ」と夫が返し、私は突然出てきた妹の名に驚いた。
「もうすぐ、へレーナから結婚式の招待状がマリアに届く。マリアはその招待を受け、式場のあるオークランス伯爵が支配する領地に向かうため馬車に乗り、その馬車が何者かに襲撃され殺される」
……え?
エド様の信じられない言葉に、私は耳を疑う。
さっき殿下が言っていた“夫人”って、私のこと……?
何故私が死ぬの……?
意味の分からない言葉に頭が混乱し、動揺からか手が震える。
扉の奥では、変わらず話が続けられた。
「あのドレスのことも夫人の日記の通りだった。きっと、その襲撃もへレーナが仕向けたものだろうな」
殿下の言葉に「あぁ」と返事をする夫の声が聞こえ、私は更に疑問を抱いた。
何故、殿下が私の日記の内容を知っているの?
いや、そもそも私は日記なんて書いていない。記憶を失う以前の私が書いていた物なら見つけたけれど、殿下の『あのドレスのこと』というのが夜会の日ボロボロにされてしまったドレスのことなのだとしたら、どう考えても時期が合わない。
夫と殿下の不可思議な会話に耳をすませ、会話の続きを待った。
ずっと頭の中にあったモヤが、少しずつ消えていくのを感じたからだ。
この会話に、私の失ってしまった記憶についての手がかりがある、何故だかそう思った。
けれど、結局「そういえば夫人が来ないな」と殿下が口にしたことで話は終わってしまい、私が聞き耳を立てていたことを隠し中へ入ると、二人共なんでもないような顔をして私を迎えた。
一体、二人して私に何を隠しているのか。
少し前まで夫の隣に立てることがあんなに幸せだったのに、今は疑問ばかりが私の頭を占めている。
エド様と殿下の話を聞いてしまった数日後、二人が言っていた通りへレーナとレオナルド様の結婚式の招待状が届いた。
同封されていた手紙には、
『お久しぶりです、お元気ですか? お姉様の式には参加できず申し訳ありません。レオナルド様とのことも……もしお姉様が許して下さるのなら、どうか私達の式に来ては頂けませんか? 今までのことを謝罪する機会をお与え下さい』
と書かれていて、最後には『愛しています、へレーナ』と付け加えられていた。
確かに、夫と殿下の話を聞く前の私なら、この手紙を受け取れば喜んで式に参列すると決めただろう。
だけれど、もし本当に夫の言っていた事が起こるのだとしたら……
想像してみると、酷く恐ろしい気持ちになった。
招待状の届いた夜、一人で悩んでいても埒が明かないと思った私は夫に話を聞くことを決意し、二人の寝室で夫がやって来るのを静かに待っていた。
仕事が長引いているのか、なかなか寝室にやって来ない彼に待ちくたびれ、私はバルコニーに出て星空を眺めた。
闇の中で燦然と輝く星を見ていると、自分がもうすぐ死ぬかもしれないという恐怖を忘れられた。
冷静になると彼について考えてしまう。
思えば、エド様は最初からおかしかった。
求めていた人とは違う女性が縁談の顔合わせにやって来たというのにすぐに受け入れたこと、その日の内に『幸せにする』と私に宣言したこと、意味深な『今度こそ』という言葉、ドレスが何者かによってボロボロにされすぐに新しいドレスを贈ってきたこと……
そして、時系列の合わない日記の内容と、未来で私に起こる事を知っていること。
彼だけでなく、殿下もこれから起こることを予見しているような口振りだった。
そんな二人は、まるで……
「……まるで、人生をもう一周しているみたい」
考えていたことを思わず口に出すと、後ろから何か重い物を落とすような音が聞こえた。
振り向くと、いつの間にか室内にいたエド様が恐ろしいものでも見たかのように、驚愕の表情を浮かべて立っている。
足元には、先程彼が落としたであろう分厚い書物があり、心配になった私は彼に駆け寄った。
大丈夫ですか? と声を掛け、酷く震えている彼の手を握ると、
「思い出した……のか……?」
と驚くほど小さな声で問い掛けられた。
その声は、普段の彼からは想像も出来ないほど弱々しく、まるで恐怖と対峙しているかのように思わせた。
けれど、彼のこの言葉で確信した。
彼は私が記憶を失ったことを知っている、と。
「……どうして、私に過去の記憶がないことを知っているのですか?」
真剣な表情で聞くと、途端に彼は『しまった!』というように慌てて自身の口を手で塞いだ。
その様子に、彼が意図的に私に隠し事をしているのだと感じ、酷く胸が痛んだ。
「エド様……お願いです、話して下さい。私は、貴方の仰る通り過去の記憶がありません。自分がどう生きてきたかだけでなく、家族のことすら思い出せないんです」
切実な想いを伝え「どうか話して下さい……!」と訴えると、彼は苦しそうな顔をした後、諦めたように肩を落とし「……すまない、マリア」と謝った。
その短い言葉を、私は『やはり話せない』の意と受け取り、何故と問い掛けようと口を開くと「君を傷付けるつもりは無かった……」と先に彼が続けた。
「いずれは話すつもりだったんだ……だが、君と過ごすうちに知られるのが怖くなった……」
俯くエド様の表情は見えないけれど、その小さな声から彼の葛藤が窺えた。
こんな姿を見てしまったら、話を聞いてもきっと私は彼を責めたりなどしないだろう。
彼を、愛しているから。
*
私はエド様を連れバルコニーに出て、風に当たりながら彼が話し始めるのを待った。
少し冷えた風にくしゃみをすると、ふと肩に何かが掛けられる。
エド様が自身の羽織りを私に掛けてくれたようで、それに気付き隣を見ると、彼は悲しそうな顔で私を見つめていた。
あぁ、この目……出会った時からたまにするこの目は、一体なんなのかしら……?
そんな疑問を抱いたところで、彼は決心したように小さく息を吐き、口を開いた。
「……君と夫婦になるのは、これで二度目だ」
脈絡のない突然の暴露に「えっ!?」と驚きの声を漏らすと、彼はフッと笑って「すまない、緊張からか飛躍してしまった」と冗談を言ったみたいな顔をした。
だけれど僅かに震える彼の手を見ると、彼の言葉に嘘は無いと理解出来た。
「……君がさっき呟いていた通り、俺は二度目の人生を生きている」
バルコニーの柵に手を置き、目を伏せながら「正確には〝全ての人間が〟二度人生を生きているんだが」と彼は続けた。
全ての人間が二度目の人生を生きている……?
飛躍はされていないのかもしれないけれど、私にはあまりにも難しく、なかなか理解が追いつかない。
つまり私だけでなくへレーナやお父様も二度目の人生を生きているということかしら、と考えてみるもやはり意味が分からなかった。
「どういうことですか?」と混乱した頭で問い掛けると、
「〝時戻しの石〟という物を知っているか?」と更に質問を返された。
〝時戻しの石〟
記憶を失ってから、この国の常識や作法、そして歴史を知るため、お父様の書庫にある書物を読み漁った時に目にした覚えがある。
王城の地下に眠っているとされる、幻の石。
その石は、その名の通り使用者の強く願う時間に時を巻き戻すことができる。
代々王家で管理し、王とその妃、そして王子殿下によって国を豊かにするために密かに使われている、というおとぎ話だ。
もし本当に実在しているのだとしたら、きっとそんなに素晴らしい使い方はされていないだろう。
戦争が起きて負ければ勝利に変え、政策で国が廃れれば別の政策に変え、きっと王の思うがままの世界になるよう時を戻して何度も作り直される。
そんな物が存在したらこの国は最恐の国として一躍有名になるわ、なんて考えていると、
「あれは実在する」
と彼が私の返事も待たずに告げた。
「……ええっ!?」
そんな馬鹿な!と言いそうになるのを必死に堪え彼を見ると至って真剣な顔をしていて、最早私がおかしいのかしら、と思った。
「勿論、世間に知られているおとぎ話のように万能ではないが、王城の地下に眠っているのは確かだ」
エド様は淡々と話すけれど、何故彼が時戻しの石の存在や眠っている場所を知っているのか不思議だ。まるで見たことがあるみたい。
「幼い頃、アルに『二人だけの秘密だ』と教えられたんだ」
彼は、私の頭の中を見透かしているかのように疑問に答えをくれた。
アルベルト殿下を“アル”だなんて略称で呼ぶ者は、この国の第一王子と彼くらいだろう、なんて考えながら「そんな大事なことを教えるだなんて、殿下は余程エド様を信用されているのですね」と微笑むと、彼もフッと笑いながら「不用心なだけだ」と答えた。
幼い彼らの話で少しの間和やかな空気が流れるが、途端に彼は暗い表情になり「……君に、ずっと謝りたかった」と零した。
一体何を謝るのか、と思い彼の顔を見るが、目は合わない。余程後ろめたいことなのだろうか。
続きの言葉を静かに待っていると、彼は言い辛そうに口を開き、
「……時を戻す前の人生では、俺は君の妹に想いを寄せていた」
と呟いた。
その言葉を聞いて、やっぱりそうだったのね、と私はすぐに納得した。
ランス公爵家から縁談の手紙が届いた時、お父様と私がした推察はやはり合っていたということだ。
その時は彼がへレーナに好意を寄せているとは思っていなかったけれど、顔合わせの時の公爵の言葉でその事に気付いた。
だからこそ驚いた。彼が私をすぐに受け入れたことを。
「へレーナとは、とある夜会で出会った。彼女は噂の通り美しくて、そんな彼女に俺は密かに惹かれてしまい、夜会がある度に姿を探した」
包み隠さずへレーナとの出会いを話す彼に、不思議と怒りや嫉妬心は湧かなかった。
彼の目が、過去の事だと割り切っているように見えたから。
「ある夜会の日、初めて彼女と話す機会があった。一人バルコニーで夜風に当たっていた時、彼女の方から声を掛けてきた。へレーナは『姉のマリアが自分を虐めてくる。周りにはお淑やかそうな顔をして、裏では髪を引っ張ったり嫌味を言ってくる』と言った」
「へレーナが……?」
予想だにしなかった彼の言葉に、思わず声が出た。
思ったこともなかったけれど、記憶を失う前の私はそんなに酷い女だったのだろうか。もしそうなら、私は妹になんと謝罪すれば……
私が衝撃を受け固まったのを感じたのか、彼は「安心してくれ、過去の君も今とそう変わらない」とすぐに私を安心させる言葉を言った。
「今思えば酷い嘘だと感じるが、彼女に想いを寄せていたあの時の俺は簡単に信じてしまった。そして、その性悪な姉から彼女を救い出すため、ユングステッド男爵家に縁談の話を持ち掛けて頂けないかと父に嘆願し、面白がった父はすぐに受け入れた」
確かに、思いを寄せる人にそんな風に頼られたら……きっと私もその人を救うため行動するだろう。
なぜへレーナが私の悪評を広げようとしたのかは分からないけれど、私にも何か原因があったはずだわ。
彼の気持ちは人としてよく分かる。間違ったことは何もしていない、とやはり私は彼を責める気持ちにはならなかった。
「……だが、やって来たのは性悪だと聞いていた君だった」
苦しげに、そして辛そうにその言葉を吐いた彼は、拳を強く握っていた。
その様子から、私が彼を責めなくても、彼が自身を強く責めているのだと察する。
私は強く握った彼の拳に自身の手を重ね、静かに次の言葉を待った。
少し落ち着いたのか、彼も拳を解いて私の手を握り返す。その手には、私に対する今の彼の想いがこもっているような気がした。
「……君を前に、俺は『何故へレーナではないんだ』とあからさまに態度に出した。君が帰ろうとした時も引き止めたりはしなかった。終始、君に失礼な態度を取っていたんだ……」
彼は申し訳なさそうにこちらを見て、
「すまない……」
と小さく謝った。
「謝る必要なんてありません。どうせ覚えていないのですから」と私が微笑むと、彼は困ったように眉を下げて笑い、続きを話す。
「俺はすぐに縁談を白紙に戻そうとしたが、逆に君を俺の妻とすることでへレーナを守れるのではないかと思った。君さえ彼女の傍にいなければ、彼女が辛い思いをすることは無くなるだろう、と……そして結局、縁談をそのまま進めることにしたんだ」
彼の言葉はとても理にかなっていて、記憶のない私は最早自身の事だということも忘れ、ただ真剣にその先の流れを考えた。
「……もしエド様の言う通り、へレーナが悪評を流すほど私を悪く思っていたのなら、公爵家と婚約をした私をきっと許せないでしょうね……」
ふと推理のような言葉を吐くと、彼は深く頷き「君の言う通り、後日婚約の件を知ったへレーナは秘密裏に俺に宛てて手紙を送ってきた」と言った。
その手紙は、
『姉のマリアは私宛の縁談がランス公爵家からの物だと分かると、すぐにオークレンス伯爵家との婚約を破棄し強引に私に押し付け、貴方と自分が婚約出来るよう父と共に画策していました。どうか姉に騙されないでください』
という、やはり私を悪く言う内容だったらしい。
けれど、あの時の状況は確かにそう見えたかもしれない。私とお父様にとっては家の内情を知っているからこその行動だったが、傍から見れば私は婚約を破棄してまで公爵家の子息と結婚したがった女だ。
私自身の思慮の浅さから、周りにそう思われても弁明のしようもない。
きっと、へレーナ以外にも私とエド様の婚約を不審に思っていた人はいただろう。
ランス公爵家側から申し込んだ縁談だったから、誰も公には言えなかっただけ。
「俺は、その手紙の内容も深く調べずに信じてしまい、更に君を毛嫌いするようになった」
……仕方の無いことだわ。自分でも、下賎な女だと思うもの。
ふと隣に立つエド様を見てみるが、彼は遠い目をしていた。その先に見ているのは、恐らく私ではない。
その目に映るのは、命を落としてしまったという時を戻す前の私なのだろう。
「父に言われて仕方無しに誘った夜会の日も、オルヴァーに選ばせて贈ったドレスだったが、君が着て来なかったことで『ドレスが気に入らなかったからとわざわざ別の物を着てくるとは、なんて自己中心的な人なんだ』と、君に何かがあったとは考えず悪い方に捉えてしまった」
あの黄色のドレスはオルヴァーが選んだ物だったのね、と何故だかストンとお腹に落ちた。
以前からずっと気になっていた。あのドレスは確かに可愛らしいけれど、誰でも似合うよう作られた物のように感じられたから。
私のように黒髪黒目の地味な女性は明るい色を着こなすことが難しく、衣装棚に入っていた過去に私が着ていたであろうドレスも髪色に合わせて全て暗い色だった。
華やかな色合いの、フリルの付いた可愛らしいドレスは一般的な貴族女性向けで、少し風変わりな私にはどう考えても似合わない。
だから、二着目が届くまでずっと不思議だった。
直接私を見たはずの彼が、わざわざあのドレスを選んだということが。
けれど、私を直接見たことなどなかったはずのオルヴァーなら、誰でも似合うであろうドレスを選んだことにも納得がいく。
私は、ずっとつっかえていたものが漸く取れたような感覚になった。
後悔の色を滲ませる彼の声に、
「誰だってそう思いますわ」
と励ますつもりで返すと、彼は首を横に振って否定した。
彼の中では、そんな簡単な励ましの言葉で軽くなるようなものではないのだろう。
軽はずみな言葉だったわ、と自分の言葉に反省していると、
「……君と夫婦になってからも、俺の態度は変わらず酷いものだった」
と彼が話を続けた。
「夫婦になり今と同じようにこの屋敷で暮らし始めると、オルヴァーや使用人達は心優しい君にすぐに心を許した。健気な君は妻として俺を支えようといつも努力してくれたが、俺はそれすらも策略だと思い冷たく接した。君が誕生日に贈り物をしてくれた時も『無駄なことをするな』と叱ってしまったくらいだ」
酷い男だろう? と彼は昔の自分に呆れるように問い掛ける。そんな彼の問い掛けに、私はとうとう何も言えなかった。
もし、自分が彼に同じような誤解をして、同じ言葉を吐いてしまえば……一生自分を責めるだろう。
彼を酷い人だとは思わないけれど、時を戻す前の私が一体どんな気持ちだったのか、思い出したくなった。
――いや、本当は思い出したくなんてないのかもしれない。
私を妻に望んでくれたと思っていた人に、愛されないどころが憎まれていたなんて……きっと思い出せば、どんなに今の彼が素敵でも胸が痛くなってしまう。
私の心の不安を察したのか、彼が私の手を握る力を強くしたように感じた。
「そんな俺に、オルヴァーは何度も妻への言動を改善するよう言ってきた。だが、頑固な俺は誰の言葉にも耳を貸さなかった。そしてある日、へレーナから君に結婚式の招待状が届き、そこに向かう途中で何者かに馬車が襲撃され……君は亡くなった」
最後の言葉を言った時の彼の瞳が髪で隠れてよく見えなかったけれど、声の色から何となく分かる。
彼が、酷く傷ついているのだと。
少し呼吸を置くと、
「君が亡くなった時……俺は……『自業自得だ』と思ったんだ……」
と震える声で、まるで涙を堪えるように彼が呟いた。
彼の顔を覗いてみるけれど、彼は私に表情を見せないようそっぽを向いて、続きを話した。
「……葬式でも、妻が亡くなったというのに……涙一つ流さなかった……!」
私の手を強く握り締めながら、もう片方の手で自分を責めるように顔を覆う彼の想いが、繋いでいる手から私に伝ってくるようだった。
それでも、強く握られているというのに手に痛みはなくて、彼が自分を責めながらも私を気遣ってくれているのだと思い、優しい気持ちになった。
彼の後悔はしっかりと私に伝わっている。
自分への怒りでどうにかなりそうだ、と訴える声が。
「……それで、どうして時を戻すことに?」
彼の後悔を受け止め問い掛けると、相変わらずそっぽを向いたままの彼は深く呼吸をして続きを言った。
「……君が亡くなった数日後、オルヴァーと複数の使用人が俺に君の日記と辞表を差し出した。俺は、君が何故ここまで周りの人間をたらし込めたのか、と疑問に思いその日記を読んだことで、漸く全ての真相を知ったんだ」
爽やかな夜風が私達に当たる。
彼が着せてくれた羽織りがあってもやはり少し寒くて、彼に「中で続きを話しましょう」と声を掛けると、そっぽを向いていた彼がやっとこちらへ顔を向けた。
その頬には、小さな雫が何粒も伝っている。
思わず頬の涙を指で拭うと、私達はしっかりと目が合った。何故だか久々に感じてしまう。
バルコニーから室内へ戻り、私は彼の手を引いていつも二人で眠るベッドに座らせた。
私も彼の隣に座り、
「日記には、なんて書いてあったんですか?」
と静かな彼に問い掛ける。
私の知る限り、過去の私が書いた日記には極普通の日常内容しか書かれていなかったと思う。
簡単に言えば『お茶会に参加して楽しかった』とかそういう内容だ。
自分が書いた日記の内容が気になる、だなんて我ながら奇妙なことだとは思うけれど、記憶が無いのだから仕方がない。
ただの興味も混ざった私の問い掛けに、彼は真剣に答えてくれた。
「君の日記には、日々の楽しいことや嬉しいことばかりが書かれていた。『夫が一言会話をしてくれた』『今日は晩餐に来てくれた』……あとは、仲のいい使用人やオルヴァーとの会話が楽しげな文章で書かれていた」
まぁ、なんて私らしいのかしら。
彼の言った日記の内容に、記憶を失っていながらも自身の性格が窺えた。
私、きっとすごく前向きなんだわ。
記憶を失って性格も変わってしまったのだろう、なんて思っていたけれど、どうやらそれは間違いらしい。
「その中に、あの夜会のドレスの件や、君が婚約解消するきっかけとなった事件も僅かだが書かれていた。真相を知った俺は絶望に打ちひしがれ、同時に酷く後悔した……何故、一度も君の言葉をきちんと聞かなかったのかと……」
その時の彼を思うと、私は胸が苦しくなった。
想いを寄せる人を救うために起こした行動が過ちだったと気付いた時の、彼の気持ちは計り知れない。
優しく正義感の強い彼の事だから、きっと自分への憎しみで壊れてしまいそうだったはずだ。
「……暫くの間一人で後悔の日々を過ごし、そしてある日突然思い出したんだ。昔アルに教えられた“時戻しの石”の存在を」
……続きの言葉を聞かずとも、彼が時を戻そうと思った理由は既に察していた。
「……私を、生き返らせるためですか?」
エド様の目をまっすぐ見つめ聞くと、彼は小さく頷いた。
「急いでアルに会いに行き『時戻しの石でマリアを救わせてほしい』と頼むと、アルはその頼みを聞く事で自分にどんな利点があるのかを聞いてきた」
彼を慕う殿下のことだから親友の頼みなら理由も聞かずにすぐ受け入れるだろう、と勝手に思っていた私は、期待を裏切られ「えぇ……」と声を漏らした。
けれど、冷静に考えれば殿下の問い掛けは最もだ。
国宝どころでは無いほどの代物をたかだか自分の目的の為に使わせろ、と言うのだから、それ相応の対価が無ければいくら友人想いの殿下でも使わせはしないはず。
それこそ、殿下の代わりに人殺しでも何でもやります! とか、一生殿下に忠誠を誓い、殿下の犯した罪も代わりに全て被ります! とか……もっと多くの物を求められるかもしれない。
時戻しの石の対価なんて、いくら公爵家と言えどもそう簡単には殿下の満足のいく物を渡せはしないはずだ。
「アルを王太子にするため、望むならどんなに酷い仕事も受け入れる。そして、俺の死後もランス公爵家はその名が尽きるまで王家に尽くすことを約束する……と宣言すると、アルは馬鹿にしたように大口を開けて『そんなものはいらない』と笑った」
「まぁ……!」
期待と外れていた殿下に若干幻滅していた私だったが、何やら前途洋々な気配に一気に気分が上がった。
ワクワクしながら続きの言葉を待っていると、彼はフッと笑って「結局、利点だなんだと聞いたのは建前で、あの不用心な男は『共犯者になってやってもいい』と言って、すぐに俺の頼みを聞き入れた」と期待通りの言葉を言った。
「まぁ!!」
友情に感動し感激の声を出すと、先程まで暗かった彼が私の反応を見て面白そうに笑った。
その笑顔に、確かに自分が死んでいるというのにこんなに喜んでいてはおかしいわ、と私は途端に恥ずかしくなり肩をすぼめた。
「地下に保管されている時戻しの石を隙を見てアルが持ち出し、俺の屋敷に持ってきた時初めて実物を見たが……あれは石というより欠片だった」
「欠片……?」
本で読んだ時に時戻しの石の絵が載っていたけれど、輝く大きな石のように描かれていた。
そのせいか、きっと人程の大きさの美しい石なのだろうと勝手に想像してしまっていたけれど、確かに書物によって石の絵は異なっていた。
王家に関わる者以外は実物を見る事は出来ないだろうから、恐らくそれによって著者も皆想像で描いているのだろう。
「驚くほど小さな欠片の、透明な石だ」
本物は透明なのね、と彼の言葉で新たな石の想像を膨らませていると、
「最初に『おとぎ話のように万能ではない』と言ったのを覚えているか?」
と問われ、はい、と返事をする。
私は、使う事で何か世界に異変でも起きたりするのだろうか、とつい身構える。
「おとぎ話ではあまり詳しく説明はないが、時戻しの石はその名の通り時を巻き戻す事が出来る代わりに、使用者以外の人間にも記憶が残る可能性がある」
過去にそういう事例があったらしい、と説明され、何故秘密裏に使われているという時戻しの石がおとぎ話として世に広まってしまったのか、察することが出来た。
きっと、記憶の残ってしまった者が作り話として世に広めたのだろう。
もし実在することを知っている者に記憶が残っていれば、他国に情報を流され今頃は盗みに入られているはずだ。
つまり、未だに時戻しの石がこの国に無事に保管されているということは、まだ他国には実在することを知られてはいない、ということ。
「情報漏洩のリスクが高い事から、時戻しの石は迂闊に使ってはならないと、代々王家の人間のみに伝えられているらしい」
「そ、そんな物を使ってしまったのですね……」
あまりに壮大な話になり、私がそんなことを知ってしまってもいいのかと悩み始めると、
「君の記憶が無くなってしまったのは、恐らく一度死んだことで現世に残っていた魂が、無理矢理体に引き戻されたからではないかと思う」
と彼の推察を聞かされ、なるほどと納得する。
妹と婚約者が目の前で愛し合っていたあの日、突然目が覚めたような感覚に襲われたのはそういう事だったのね。
ということは、あの日が……
エド様を見ると、彼も私を見ていて目が合った。
そのまま彼は私を抱き締め、
「……君が生きている時に戻れるなら、いつでもよかった。俺と結婚しない未来で今度こそ君が幸せになれるなら、と縁談も白紙に戻すつもりだったんだ」
と耳元で弱々しく囁いた。
あぁ、どれほど辛かっただろう。
彼はただ誤解をしていただけだというのに、私が死んでしまったことでどれだけの心の傷を負っただろう。
私には想像も出来ないほど、苦しかったに違いない。
私は、同じように腕を彼の背中に回した。
大きな背中が僅かに震えているのを感じ何を言っていいか分からなくて目を閉じると、私を抱き締める彼の腕が強くなり、
「だが……」
と彼が口を開いた。
「あの日、君を前にしたら……亡くなる前の君がいつも健気に俺を支えようと行動していた事を思い出した。もしかしたら君はこの結婚を前向きに捉えてくれていたのではないかと思うと、君を幸せにする資格なんて俺には無いはずなのに、俺は気付けば君を引き止めていた」
初対面の私を前に酷く悲しげな顔をしたのは、死んでしまったはずの私を目の前にしたから。
そう思うと、彼の気持ちは今の私にあるのだろうか、と考えてしまう。
贖罪のつもりで私と結婚したというのなら、少し寂しい。だって、私は既に彼を愛してしまっているから。
「そうだったのですね……」と少し落ち込みながら言うと、彼は「そして、誰にでも優しく微笑む君と接するうち……俺は……」と何か言葉を続けようとした。
続きの言葉を待っていると、彼は静かに体を離して私の目を覗いた。
その揺らぐことのない目から、先程までの弱々しい彼はもういないのだと気が付いた。
「俺は、君を愛してしまった」
ヴァイオレットの瞳が、私をまっすぐ捉えている。
「愛して……いるのですか?」
思わず質問を投げ掛ければ、彼ははっきりとした声で「あぁ」と言って微笑んだ。
彼が嘘を吐くような人ではないと分かっていながら「本当に……?」なんてもう一度確認すると、彼は「今は、君以外に俺の妻は考えられないと思っている」と答え、私から目を逸らさない。
優しい彼の声に、先程まで落ち込んでいた気持ちはすぐに消えてしまった。
よく考えたら夫婦になってから何度も聞いてきた言葉なのに、私は何故彼を疑ってしまったのだろうか。
彼の声、言葉、行動から私を愛していると知っていたはずなのに。
「……だが、俺は君を殺した男と言っても過言ではない。君が俺と離縁を望むなら、俺は……」
受け入れる、と彼が言う前に、
「望みません!」
と私は声を上げた。
驚いた様子で私を見る彼は、私が離縁を望まないことが不思議なようで「……俺が夫でいいのか?」と問い掛けた。
「当たり前です。どの道、私には時を戻す前の記憶はありません。私の知っているエド様は、ただの優しい旦那様ですよ」
そう口にして彼の胸に体を預けると、彼はすぐに私を抱き締めた。
「……今度こそ、君を幸せにする」と何だか聞いた事のある言葉を呟く彼に「もう充分幸せです」と返し、私達はまたいつものように寄り添って眠るのだった。
*
へレーナとレオナルド様の結婚式の日、エド様から聞いた時を戻す前と同じように、私は式場に向かう馬車に乗っていた。
一つ違うことがあるとすれば、隣に夫が座っていることだろうか。
私は未だに信じられないけれど、彼はへレーナが殺し屋を雇って馬車を襲わせると睨んでいるらしく、自身も同乗すると告げたのだ。
本当に馬車が襲われるのだとしたら危険なことは回避するべきだと彼を説得したけれど、殺し屋を誘き出し雇い主を吐かせるためのものでもある、と逆に説得されてしまった。
エド様は幼少期から殿下に付き添って剣術の稽古を受けていたらしく、今では護衛も必要ないほどの腕前らしい。
とはいえ、心配は心配だった。
「もしエド様が私の代わりに死んでしまったら、今度は私が殿下に『時戻しの石を使わせて欲しい』と頼みます」
危険な状況にヒヤヒヤしながら彼に告げると、彼はフッと笑って
「それは難しいな。もう時戻しの石は消えてしまった」
と爆弾発言をした。
「ええ!?」と声を出し驚いていると、
「言っていなかったか? あの石は消耗品で残りは一回分だと言われていたが、その残り一回の使用者が俺だ」
と彼は淡々と話した。
あまりの衝撃に「聞いてません!」と声を上げると、私が怒ったように見えたのか、彼は焦って謝罪を口にした。
「では、時戻しの石が消滅したことで、今頃王城は大騒ぎになっているということですか?」
最後の一回分を使った者を探し出すため、王が躍起になってもおかしくはない。
もし最後の使用者が彼だと知られれば、それこそタダでは済まないだろう。
私が更なる不安で体を震わせていると、彼は普通の顔をして「そう騒ぎにはなっていないだろう。アルがおふざけで使ってしまった、と言ってくれたらしいし」と感謝しているのかしていないのか分からない口調で言った。親友だからそんな感じなのだろうか。
今度お会いしたらきちんとお礼を言わなければ……と思っていると、馬車が停車した。
式場に着いたらしい。
……あら?
結局誰にも襲われなかったけれど?
聞いていた話と違う、と思い彼を見ると、
「……俺が君を危険に晒す訳が無いだろう?」
と困ったように笑った。
時を戻す前に私が通った道にはオルヴァーを乗せた別の馬車を向かわせ、私達は別ルートで式場へ向かっていたらしいと後から聞いた。
そういうことは先に教えておいてほしいわ、と頬を膨らませると、彼はまた焦って謝罪した。
彼の焦る姿が面白くて、怒ったふりが癖になってしまいそうだと思った。
少しするとオルヴァーも到着したけれど、彼が乗っていた馬車は歯車が取れかけてボロボロになっている。
なんて酷い馬車で行かせたの!? と勝手に驚愕したが、
「奥様の乗る馬車を別の道から行かせたことは正解でしたね」
とオルヴァーは殺し屋らしき男達を引き摺りながら馬車から降りてきた。
襲われて馬車がこんなことになったのね、と理解すると、彼が生きていて本当によかったと心の底から安堵した。
その後、エド様は私の目の前で殺し屋達から雇い主を吐かせ、私は彼の言った通りの出来事に唖然とした。
へレーナが、私を殺すため殺し屋を雇ったということに。
それからはあっという間だった。
純白のウェディングドレスを着た美しいへレーナにエド様が罪を暴いたと声高らかに発し、否定する彼女は彼が殿下を通じて手配していた兵によって連れて行かれ、一時式場は騒然となった。
レオナルド様は嘆きながら跪き、式に参列していたお父様も恐ろしい物を見たような顔をして呆然としていた。
そんなお父様に駆け寄り寄り添うと、お父様は衝撃の事実を私に話した。
へレーナは私の実の妹ではなく、お父様のお姉様……つまり、私の叔母の娘だったらしい。
ひとり親だった叔母が早くに亡くなり身寄りの無くなったへレーナを、お父様が同情し我が家に連れて来たと言う。
まだ互いに幼かった私達姉妹は自分達を本当の姉妹だと思って過ごしていたが、昔から我儘だったらしいへレーナは私の物をよく欲しがったそうだ。
兵士に連れて行かれながら、へレーナは
「お姉様ばっかりずるいわ!!」
と私に向かって叫んでいた。
恐らく、あの子は自身がお父様の本当の娘ではないと気付いていたのではないだろうか。
そして本当の娘である私に何か劣等感を抱き、私の悪評を広め、漸く私から奪い取った婚約者より地位の高い人と私が結婚したことで彼女の劣等感は更に強くなり、遂に私を殺す計画を企てた……
そんなことを聞いても、やはり私はまだ彼女を憎めなかった。
記憶を失ってしまったとはいえへレーナは私の妹だ。
いつか彼女が今回のことを反省し更正してくれたなら、私は……
彼女を、たった一人の姉として笑顔で迎えたいと思った。
悲しみに包まれた結婚式から暫く経ち、私とエド様はアルベルト殿下に感謝の言葉を告げるため、王城へ来ていた。
「いやぁ、まさか話してしまうとは……お前もなかなか不用心だな、エド」
殿下が楽しげに言うと、
「貴方ほどではありません」
と彼は他人のような口調で毒を吐いた。
そんな彼に、殿下は「もっと感謝しろよ〜! 俺はお前の命を救ったんだぞ〜」と面白そうだ。
命を救った、と言うのはきっと時戻しの石が殿下のおふざけで消えてしまった、と殿下が洞を吹いてくれたことだろう。
私が代わりに感謝の言葉を告げると、
「俺は、この女の趣味の悪い親友が後悔で顔を歪ませているのも面白かったが、君が隣に立って幸せそうに俺に毒を吐くこの男の方が、親友として相応しいと思っただけだ」
と、殿下はまるで感謝はいらないと言っているようだった。
「それより、子供はいつなんだ?」
「黙って下さい」
仲のいい二人の会話を聞きながら、私は青く広がる空を見上げた。その美しい青空は私達を包み込んでいるようで、私の胸が熱くなるのを感じる。
私が立ち止まり空を眺めていると「マリア?」と彼が少し離れた所から優しい声で私を呼んだ。
その愛しい声に、
「はい、旦那様」
と返事をし、私は愛する人の元へ駆け寄った。
こんにちは、鈴木です。
お読み頂きありがとうございます。
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