◆第三話『失われた栄華』
「ぶはははははは! 面白いことを言うな、この幼女はっ」
カオスは思わず噴き出してしまった。
子どもの戯言だとはわかっている。
だが、これが笑わずにいられるだろうか。
きっと場を和ます冗談なのだろう。
となればこちらの反応も最良だったに違いない。
そう考えながら答え合わせに隣を見やる。
と、憤慨するヴィルシャの顔に迎えられた。
「侮辱するのもいい加減にしろ! 正真正銘、このお方──プリグルゥ様こそがこの魔界の主たる魔王だ!」
「わかったわかった。そういうことにしてやろう。なんだ、意外と子どもに優しいのだな、ヴィルシャよ」
「貴様……っ! 信じていないな!? というか意外とはなんだ意外とはっ」
魔王とは魔界の頂点たる存在だ。
他の魔人をまとめ上げるため、圧倒的な力だけでなく威厳も必要となる。
だが、この幼女──プリグルゥはどうか。
それらが備わっているとはとうてい思えない。
「このようななりですから。信じて頂けないのも仕方ありません。ですが、わたしが魔王であることは事実です」
「あくまでそう言い切るか。であれば、六門の血を引く証──赤角を見せてみよ」
魔王は基本的に《昏き闇の六門》の血縁者から選出される。
ただ、これは家柄を重んじているわけではない。
単純に六門の血縁者が他を圧倒する力を持って生まれるからだ。
プリグルゥが両側で結われた自身の髪を掴んだ。
わずかな躊躇いを見せたのち、両側を同時に持ち上げる。
と、ちょこんと生えた小さな赤角が姿を見せた。
「……これでどうですか?」
「たしかに赤角だ。ひどく小さいが」
プリグルゥが髪を持つ手を下ろした。
どうやら角が小さいことを気にしているらしい。
恥ずかし気に顔を俯け、頬を染めていた。
魔界では角が長いほど立派とされている。
無理もない反応だろう。
「すまんな、侮辱するつもりはなかった。これは非礼の詫びだ」
カオスは右手に一凛の花を生成した。
影で生成したこともあり漆黒色をしている。
こちらが差し出した花を、プリグルゥが少し警戒しつつ受け取る。
「……これはなんですか?」
「《混沌花》。触れると濃縮した狂気を堪能できる素敵な花だ」
そう答えながら、カオスはにやりと笑った。
直後、プリグルゥが「おぇっ」と嗚咽を漏らした。
そのまま前に体を倒し、黒い液体を吐き出しはじめる。
カオスは部屋の隅へと飛び退いた。
室内の床を埋め尽くす勢いで一気に広がる吐瀉物。
その小さな体、口からとはとても思えない量だ。
「貴様っ、プリグルゥ様になにをした!?」
ヴィルシャから怒号が飛んできた。
彼女もまた部屋の隅へと避難している。
「なに、俺様なりの挨拶をしただけだ」
「これのどこが挨拶だ!」
プリグルゥに渡した《混沌花》。
あれは触れることで至高の狂気を体感できるものだ。
押し寄せてくる世界の悪意という悪意。
膨大な憎悪と猜疑心に苛まれ、精神崩壊する者も少なくない。
プリグルゥのように吐くぐらいはまだマシなほうだ。
「そう怒るな。六門の血を引いているならば大した影響はないはずだ。しかし、それにしてもこれは……」
室内を埋め尽くした吐瀉物──黒い液体。
それはまるで深い沼のごとく家具を呑み込んでいた。
なにも嫌がらせで《混沌花》を渡したわけではない。
プリグルゥが本当に六門の血を引いているかを調べるためだ。
危険にさらされることでなにかしら力の片鱗を見せるはず。
そう踏んでいたが、どうやら間違いなかったようだ。
いつの間にかプリグルゥが正気を取り戻していた。
あわせて黒い液体も床に溶けるように消えていく。
「プリグルゥ様!」
「──来ないで」
駆けつけようとするヴィルシャを制したプリグルゥ。
彼女は《混沌花》を投げると、口を拭った。
呼吸を整えたのち、こちらを見据えてくる。
「これで……っ、満足して、いただけたでしょうか?」
「試すような真似をしてすまなかった。たしかにお前は六門の……アビス・ゲートの血を引く者のようだ」
先の黒い液体は《深淵穴》。
触れたものを魔物が蔓延る深淵へと引きずり込む。
アビス・ゲートの血縁者が持つ力だ。
「とはいえ、なんとも弱々しいな。俺の知るアビスに同じことをした際は、この城すべてを覆うほどの広さだった」
幸いにも魔人の被害はなかった。
だが、多くの備品が消え、多方面から怒りを買ったことを覚えている。
もちろん、当のアビスからも散々追いかけ回された。
懐かしき思い出だ。
「貴様、始祖様にまでこんなことをしていたのか……っ」
「ただのじゃれ合いだ。そう熱くなるな」
子孫でもないヴィルシャですらこの様だ。
おそらくプリグルゥはもっと怒っているだろう。
と思いきや、予想外の反応を見せていた。
その小さな手でぎゅっと拳を作っている。
「……お察しのとおりわたしには大した力がありません」
「だろうな。だからこそ俺様はずっと疑っている。こんなにも弱い者が魔王の座につけるはずがないとな。そして、なによりお前のように幼き者がつくことも考えられん」
魔王の器として重要視される威厳。
これにはやはり年齢が大きく影響する。
姿かたちだけでなく経験の差も要因だ。
もちろん一定の歳を越えれば関係はない。
だが、プリグルゥはあまりに幼すぎる。
「……ほかにいないのです」
「どういうことだ? ほかにいない?」
「ほかに魔王となれる者がいないのです。いえ、そもそもわたしとヴィルシャ以外、活動している魔人がいません」
「そんなわけがないだろう。さては俺様が長く穴暮らしをしていたからとからかっているな? ふん、残念だが、その手の嘘は俺様には通用せ──」
そこまで話したのち、はっとなった。
魔界に戻ってから彼女ら以外の魔人を見ていない。
初めは脅かすためだと勘ぐっていたが……。
ようやく理解が追いついた。
「……迷宮がすべて潰されたのか?」
こちらの問いに、プリグルゥがこくりと頷いた。
魔人は魔素と呼ばれるものを命の糧としている。
そしてそれは魔界とは隔絶された世界──。
人間たちの住まう地上でしか生成されない。
では魔界で暮らす魔人はどのようにして魔素を得ていたのか。
その答えが迷宮だ。
《昏き闇の六門》、またはその血縁者により人間界の地中に迷宮を生成。人間界の地上と魔界を繋いで魔素を取り込んでいた。
迷宮はまさに魔界の生命線と言える。
そんな重要なものが稼働していないという。
であれば魔界が廃れるのも無理はない。
「にわかには信じがたいが……なるほど、そういうことか」
「わたしたちがいまもこうして動けているのも先人たちの蓄えと、多くの魔人たちが眠りについてくれたゆえ。ですが、蓄えももはやなくなりかけています」
このままでは滅びるのみ。
プリグルゥの険しい顔つきは、それを鮮明に表していた。
カオスはそばの窓に近づいた。
厚みのあるカーテンを押しのける。
窓から望めるのは魔王城へ続く大通りのみ。
来る際にも思ったが、なんと寂しい光景か。
どこからもかつての栄華を窺うことはできない。
「魔素を失うと、このような光景になるのか。なんとも興味深い」
「興味深い……だと?」
そう聞き返してきたのはヴィルシャだ。
彼女は怒りで塗りつぶした顔を向けてくる。
「魔界がこんなことになっているのに、よくもそんな呑気なことが言えるな……!」
ミーレスは魔界と魔王に忠誠を誓っている。
少し過剰だが、彼女が怒ることは理解できる。
だが──。
「魔界が俺様を追い出したことを忘れていないか?」
「それは……っ! だが、それでも魔人として……いや、六門の始祖であれば──」
「ヴィルシャ」
プリグルゥが諌めるように声をかけた。
さすがに主からの一声とあってか。
あとに引けなくなっていたヴィルシャも一瞬で口を噤んだ。
ただ、怒りは収まっていないらしい。
まるで射殺すかのようにこちらを睨んだままだ。
プリグルゥが改めて居住まいを正した。
そのなりとは違い、成熟した瞳が真っ直ぐに向けられる。
「あなたの力をお借りできないでしょうか?」
「俺様を呼び戻すぐらいだ。たいそうな理由だとは予想していたが、まさかここまでとは思ってもみなかったぞ」
こうなることは話の流れで途中から察していた。
ただ、いざ直面すると信じられないというのが本音だ。
「お前も六門の血を引く者であれば知っているだろう。俺様がなにをしたのか。いや、なにをしようとしたのかを」
それは禁忌とされた思想。
いや、されたというのは正しくない。
なにしろ、それまで誰も考えていなかったことだからだ。
いずれにせよ、その〝思想〟が魔界から追い出された理由だった。
「はい、存じております。たしかに、あなたの思想は危険と言えるでしょう」
「それでも俺様に救いを求めるか」
「いずれにせよ、ほかに道はありません」
どうやら決意は固いようだ。
相変わらず威厳はまったく感じられないが……。
器としては魔王足り得るものを持っているようだ。
「魔界から追い出されたことに思うところはある。だが、それをしたのはお前ではなく、かつての六門たちだ。それに俺様も魔界に愛着がないわけではない」
──生まれ育った場所がなくなる。
そう考えると、わずかながら寂寥感は覚える。
最後は仲たがいをしてしまったが……。
かつての同胞たちと過ごした日々を忘れることはできない。
カオスは静かに息を吐いたのち、幼き魔王に向かって告げる。
「いいだろう。今一度、魔界のために力を尽くそうではないか」
「では──」
「だが、2つ条件がある。それらを呑めば、この魔界をかつてのように──いや、それ以上に繁栄させることを約束してやろう」
強気な要求をしたからか。
予想通りヴィルシャが過剰な反応を見せた。
「貴様、こちらが下手に出れば……っ」
「おかしいな。お前から下手に出られた覚えはないぞ」
「ぐっ……! 魔界が滅びれば魔素を取り入れる手段もなくなる。そうなれば困るのは貴様も同じだろう!」
「だからなんだ? そのときは死ぬだけだ」
混沌を司るカオス・ゲートの血は特別だ。
魔素がなくとも自然に死ぬこともなければ老いることもない。
ただ、それを抜きにしても、すでに長年のときを無駄に過ごした身だ。〝明確な目的がない現状では〟生に執着する理由がない。
こちらの捨て身な姿勢を前に、ヴィルシャがすっかり押し黙ってしまった。逆にプリグルゥは落ちついたものだ。やはりすでに腹を括っているらしい。
「どうする、プリグルゥよ」
「……条件を仰ってください、ゼスティアル・カオス・ゲート」
「長いからカオス様でいいぞ。あ~、これは条件外だからな」
言いながら、カオスはひょいと執務机に座った。
我ながらなんとも無礼極まる行為だ。
ヴィルシャも青筋を立てている。
カオスは足を組んだのち、話を続ける。
「1つ目だ。六門が俺様に施した封印を解け」
「もとよりそのつもりです。ですが、わたし1人ですべてを解くことはできません」
「わかっている。アビスの封印だけでも解ければ問題ない」
六門は言葉通り6人から構成される。
そのうち、封印に関わったのは自身を除いた5人。
アビスの封印が解かれても4つが残ったままだ。
しかし、それだけでも充分に力を発揮できる。少なくとも《ゲート》から召喚できる魔物が骸骨戦士1体のみ、といったことはなくなる。
「2つ目だ」
魔界を追放されてからの約五百年。
どうすればよかったのか、と。
あの穴の中で数えきれないほど考え──。
ついに答えを導き出すことができた。
ただ、それは魔界でのみ実行できること。
ゆえに、もはや機会はないと思っていたが……。
奇しくもそのときが訪れた。
魔界は崩壊寸前。残った魔人も3人のみ。
まともな戦力もクソもないが、遅すぎることはない。
──なにしろ、この史上最強の魔人が残っているのだから。
カオスは魔界すべてを包み込まんとばかりに両腕を広げた。昂揚する気持ちを抑えつけることなく発しながら、高らかに告げる。
「お前の席を譲れ。そしてこの魔界を俺様の好きにさせろ……ッ!」