◆第二話『当代魔王』
一瞬の暗転ののち、視界が戻った。
ひんやりとした石造りの広間だ。
足場には魔法陣が描かれた円盤状の台。
赤い光をほのかに放っていたが、まもなくそれも収まった。
ここは《転移門》。
魔界と人間界を往来するための施設だ。
過去に数えきれないほど利用したので懐かしい。
しかし、同時にひどい違和感も覚えてしまう。
「随分とぼろぼろではないか。もしや手入れしていないのか?」
「下手に触って壊れでもしたらどうする」
バカか、とでも言いたげな目をヴィルシャから向けられた。
たしかに《転移門》は高度な技術で造られたものだ。
むやみに触って壊れることを危惧するのは理解できる。
だが、これが完成してから長い時が経っている。
新たな技術で改良していてもおかしくないはずだが……。
「まあいい。それより俺様の凱旋が先だ。急ぐぞ」
カオスは広場から続く通路をせかせかと歩いた。
まもなく、見るからに頑強そうな鉄扉に辿りつく。
ここを開けた先に魔界が広がっている。
ゆえあって幽閉され、孤独な日々を送っていた。
だが、それも本日でようやく終わりを迎える。
遊びにも話し相手にも困ることはない。
美味い飯だってきっとたらふく食べられる。
これからは悠々自適に暮らすことが出来るのだ。
興奮に胸を膨らませながら勢いよく鉄扉を押し開いた。
魔界中に届くようにと高らかに叫ぶ。
「さあ、盛大に歓迎しろ同胞たちよ! 叡智と美の化身たるゼスティアル・カオス・ゲートがいま帰ったぞ……ッ!」
魔界創生と繁栄の立役者である《昏き闇の六門》。
この身は、そのうちの1人だ。
いくら幽閉されたとはいえ、威光は魔界屈指。
間違いなく多くの魔人たちが出迎えてくれているだろう。
そう確信しながら辺りを見回した、瞬間──。
思わず目を疑ってしまった。
想像以上の歓迎を受けたからではない。
1人として魔人の姿が見当たらなかったのだ。
当然ながら歓声の1つも聞こえてこない。
幽閉されていた地中と変わらないぐらい静かだ。
「なにをしている。先に行くぞ」
冷たい視線と言葉を投げかけてくるヴィルシャ。
そのまま彼女はつかつかとそばを通り過ぎていく。
「おい、これはどういうことだ?」
「どうもなにも見てのとおりだ。貴様を歓迎する者などいない」
そんなはずはない、と言いかけた口を噤んだ。
過去、思い返してみれば色々と思い当たる節があったのだ。
「た、たしかに俺様はよくも悪くも目立つ性分だった。中にはよく思わない者もいただろう。だが、これでも《昏き闇の六門》の1人として魔界を牽引してきたのだぞ。なにより魔界随一の美貌もある。少しぐらい黄色い歓声があっても──ってそうではないっ!」
「……やかましい男だ」
誰も出迎えにこなかったことは重大な問題だ。
しかし、それ以上に直視すべきものがあった。
カオスはいま一度、魔界全体を見回しはじめる。
「なんだ、これは……俺様が知る魔界から随分かけ離れているぞ」
大地がほとんど残っていなかった。
あるのは真っ直ぐに伸びる道のみ。
ほかは切り取られたように足場がない。
そのうえ紫色の靄をゆらゆらと噴出させている。
魔界は恐ろしく、また暗い場所である、と。
人間たちは信じ込んでいるが、実際はそうではない。
大通りに並ぶ多くの商店。
往来する魔人たちの活気ある声。
そこかしこに咲く紫や青、淡紅色の美しき花々。
人間たちの都市となんら変わりない。
いや、それ以上に明るいところだった。
しかし、眼前の光景はそんな過去をすべて否定している。
これでは人間が想像する魔界そのものだ。
「……ここは本当に魔界なのか?」
「紛れもなく貴様の暮らした魔界だ」
「俺様には信じられん。いったいどうなっている?」
前にいたヴィルシャが振り返った。
体を横に開いて道の遥か先へと視線を向ける。
彼女の視線を辿った先には巨大な城がそびえていた。
魔界の主たる存在が住まう場所。
ディシュバール城だ。
「貴様には、まず魔王様に会ってもらう。話はそこからだ」
◆◆◆◆◆
「なんとも懐かしいものだ。少し……いや、かなりボロくなっているが」
カオスは城内に足を踏み入れていた。
いまはヴィルシャに続いて2階廊下を歩いている。
ここもまた何度も通ったことのある場所だ。
しかし、過去の光景は見る影もなかった。
壁面を彩っていた花や絵画がほとんど見当たらない。
あっても枯れた花や色褪せた絵画ばかりだ。
なにより気になるのは、ひと気がなさすぎることだ。
というより魔界に戻って以来、ヴィルシャ以外の魔人を見ていない。
この城は魔界の象徴とも言うべき場所だ。
政のため、常に多くの魔人が出入りする。
もちろん、その中にはヴィルシャの属する《ミーレス》も含まれる。
こんなにも魔人を見かけないことはありえない。
少なくとも昔はそうだった。
「まさか俺様を脅かそうとしているのではないだろうな? だとしたら残念だが、期待には応えられんぞ。なにしろ俺様は何事にも動じない冷静な男だからな」
「1人で喋り続けて虚しくならないのか?」
「ふん。数百年、ずっと1人だった俺様を侮るなよ」
「つまり平常運転というわけか」
可哀そうな奴だ、と憐れまれてしまった。
本当にこんな奴で大丈夫なのか、なんて呟く声も聞こえてくる。
彼女がなにを心配しているのか。
気になるところだが、それも現魔王と会えばすべてわかるだろう。
「ついたぞ」
ヴィルシャがある部屋の前で足を止めた。
幾度も訪れたことがあるので忘れもしない。
ここは魔王の執務室だ。
政務のほか、簡略的な謁見にも使われる。
「魔界誕生以来、もっとも偉大な魔人である俺様をこのような場所で迎えるとはな」
「ごちゃごちゃ言ってないで入れ」
扉を開けたヴィルシャに促され、中に入った。
ゆったりとした空間に、深く沈み込む上質な絨毯。
記憶の光景より古びているが、城内のほかよりはいくらかマシだ。
正面奥には部屋を見渡せるよう執務机が置かれている。
初代魔王が偉そうに座っていたこともあってあまりいい印象はない。
おかげで目をそらしかけたが、はたと思いとどまった。
そこに幼女が座っていたのだ。
歳の頃は12前後といったところか。
両側で結われた髪や、穢れのないつぶらな瞳。
相応に小さな体も相まって満点の愛らしさだ。
「なんだ、あの幼女は?」
「よ、幼女!? 貴様、このお方がどなたかわかっているのか……!?」
「わかっていないから訊いている。大方、魔王に憧れるがあまりしのびこんでしまったといったところか。……安心しろ、俺様は寛大だ。こんなことで叱るつもりはない」
まさに偉大な魔人たる広量さ。
きっとヴィルシャも感銘するに違いない。
と、思いきや彼女はなぜか体を震わせ怒りをあらわにしていた。
「無礼者が……っ! このお方は──」
「構いません、ヴィルシャ。相手は《昏き闇の六門》の一門であるカオスゲートの始祖です。こちらから名乗るのが礼儀でしょう」
ついに幼女が喋った。
年相応の高い声に反して、ひどくかしこまった口調だ。
彼女は静々と席を立ち、執務机の前まで来た。
こちらを見据えながら威厳たっぷりに告げてくる。
「わたしが現魔王にしてこの魔界を統べる者。プリグルゥ・アビス・ゲートです」