◆第三話『紫煙街①』
魔界全体に小規模の地鳴りが響きはじめた。
足場も揺れはじめるが、立っていられないほどではない。
いましがた〝区画の浮上〟を行ったところだった。
そのさまを一目見んとカオスは魔王城の外に出てみる。
が、到着した頃には揺れも収まり変化も終わっていた。
魔王城から向かって右手側に目を向ける。
まるで稜線をなぞったかのような細道の遥か先。
先刻にはなかった土地が出現していた。
周囲になにもないこともあってまるで島のごとき様相だ。
「ほう、面白いものだな」
「わたしも見るのは初めてです」
プリグルゥの声が後ろから聞こえてきた。
どうやらあとを追ってきたようだ。
そばには当然とばかりにヴィルシャも控えている。
「しかし、最初に浮上させる区画が紫煙街とは……」
「まだ言っているのか、ヴィルシャ」
「何度でも言ってやる。あそこにいるのは多くが犯罪者だ」
──だから選ぶべきではなかった、と。
ヴィルシャの鋭い目が続きをそう語っている。
「俺様と同じ。つまり天才ばかりということか」
「貴様を基準にするならバカで変態になるだろう」
新たなる魔王になんという言い草か。
とはいえ、彼女の口の悪さはいつものことだ。
いまさら気にすることはない。
ただ、彼女の持つ意識は問題だ。
「ヴィルシャよ、罪とは与えられるものであることを理解すべきだ」
そう忠告したものの、反応は薄かった。
眉根を寄せながら首を傾げている。
「……貴様がなにを言いたいのかわからない」
「いずれわかるときが来るだろう」
こちらの言葉に難しい顔を見せるヴィルシャ。
対してプリグルゥはばつの悪い顔をしていた。
さすがは魔王の座についただけのことはある。
どうやら意味を理解しているようだ。
「さて、紫煙街の者たちは様々な事情で迫害されたこともあり、多くがよそ者に対して警戒心が強い。……プリグルゥ」
「わかっております。わたしはまた魔王城で待機ですね」
また、という箇所をわずかに強調していた。
どうやら少しばかり根に持っているようだ。
「うむ、お留守番というやつだ」
「カオス様? そう言われると子ども感が──あぅっ」
言葉を遮るよう頭に手を置いた。
そのままわしゃわしゃと撫でる。
「お前の仕事は帰還した俺様を迎えることだ。これはほかの誰にもできん重要な仕事だ。なにしろ現在の魔王城にはお前しかいないのだからな」
「……わかりました、お気をつけて」
悔し気な顔から一転。
最後には寂しさまじりの笑顔で送り出してくれた。
魔王城をあとにしてからまもなく、ヴィルシャが並んでくる。
「やはりプリグルゥ様には甘いのだな」
「なんだ、お前もしてほしいのか?」
「誰がそんなことを言った? って手をわきわきさせるな! やめろっ! 来るな! この変態が! 斬るぞ!」
接近しては全力で振られた剣を避け──。
命がけでヴィルシャをからかいながら走ったからか。
紫煙街に到着するまでそう時間はかからなかった。
◆◆◆◆◆
「……ひどい臭いだ」
「ふむ、死臭か」
辿りついた紫煙街。
最初に感じたのは鼻をつく独特の臭いだ。
所狭しと並んだ半壊気味の石造家屋。
それら大半の玄関先に死体が転がっていた。
狭い路地を覗けば、さらに多くの死体を見つけられる。
紫煙街の環境がいかに劣悪であるかを物語る光景だ。
あまりの凄惨さにヴィルシャは足を止めてしまっている。
そんな中、カオスは死体に接近してはぺたぺたと触っていた。
「これは使えん。これも使えん。これは……いけるな」
「なにをしている?」
後ろから聞こえてくる、ヴィルシャの怪訝な声。
振り返ると、汚物を見るような目で迎えられた。
カオスは気にせずに小さめの〝門〟を開いた。
その中に先ほど目をつけた死体を突っ込んだ。
「状態のいい死体を回収し、深淵に送っているだけだ。こんなところで野垂れ死んだまま放置されるより、俺様の配下となるほうが幸せだろう?」
「貴様に好き勝手されるなんて最悪の末路だな」
「心配せずともお前は死なせん」
とくに深い意味はない言葉だ。
だが、ヴィルシャが目を見開いていた。
「……それはどういうことだ?」
「ん? お前は生きているほうがいい働きをするという意味だが」
「死ね」
「なぜ怒る?」
「いいから死ね」
ヴィルシャが驚くほど速く剣を抜いた。
そのまま全力で剣を振り下ろそうとしてくる。
が、途中でぴたりと止まった。
理由はわかっている。
いまも近づいている幾つもの足音だ。
どれも恐る恐るといった様子で警戒心が感じ取れる。
カオスは立ち上がって周囲を見回した。
あちこちの路地から魔人がぞろぞろと出てくる。
薄汚れた衣服にボサボサの髪をした者たちばかりだ。
およそ50人といったところか。
想定以上に多くの者に囲まれていたようだ。
大方、隠れてこちらの出方を窺っていたのだろう。
「目覚めたばかりだというのに元気だな」
「……よそ者がなにをしにきた?」
そう訊いてきたのは片側の角が欠けた男だ。
雰囲気や風格からして彼らの頭だろう。
彼の目は言葉通りひどく警戒していた。
ほかの者たちも漏れなく敵意がむき出しだ。
「お前たちを起こしてやった相手に随分な言い草ではないか」
「誰だ、お前」
人間に言われたことはある。
だが、魔人に言われたのは初めてだ。
おかげで頭で理解するのに時間がかかってしまった。
「そうか。昔ではありえなかったが、無理もないな。なにしろ500年も経っているのだからな」
こほんとわざとらしく咳払いを1つ。
カオスは改めて胸を張り、周囲の魔人たちに堂々たる姿を見せつける。
「俺様はゼスティアル・カオス・ゲート。この魔界を統べる魔王だ」
姿勢や顔つきだけではない。
目線まで完璧に決まった。
これは間違いなく憧憬の目を向けられるに違いない。
そう思っていたのだが……。
視界に映る魔人たちはぽかんと口を開けていた。
まるで時が止まったかのようだ。
「……なんだこいつ」
「魔王ってだけでも嘘だってわかんのに」、
「カオス・ゲートって……ばかじゃないのか」
ついには疑念しかない目を向けられる始末。
昔は道を歩けばこぞって指を差され、黄色い声をあげられ、そして〝カオス〟の名を幾度も口ずさまれた。
それほどまでに有名人だった。
あの日々は懐かしいが、すべては過去のもの。
いまは新たな魔王として毅然たる姿を見せるときだ。
「お前たちも魔界が崩壊しかけていたのは知っているだろう? そこで前魔王プリグルゥが頼った相手こそが、この俺様カオス・ゲートだ。そして俺様は見事に迷宮を確立させ、魔界に魔素を供給することに成功した。お前たちがこうして目覚めているのがなによりの証拠だ」
「……まだなんか言ってるぞ、あいつ」
どうやら端から信じるつもりがないらしい。
なにか証拠となるものはないか。
そう考えた矢先、すぐに思い当たった。
カオスは己の角を指し示しながら話す。
「血のごとく赤に染まった、この猛々しく反り返る角が目に入らんのか」
「隣の女、ミーレスだろう。お前の角が本物なら、ミーレスにあんな態度をとられるはずがない」
形式上、ミーレスは魔界と魔王に仕えている。
ゆえに魔王となりえる《昏き闇の六門》やその血縁者には最大限の敬意を払っている。いままで忘れていたが、記憶を辿ればたしかにそうだった。
「……おい、言われているぞヴィルシャ。やはりお前には魔王たる俺様を敬う気持ちが足らなさすぎるのだ」
「ふんっ、何度も言っているがわたしは貴様を魔王と認めたことはない」
紫煙街の者たちにも会話は筒抜けだったらしい。
ここぞとばかりに「ほらやっぱりな!」と声をあげていた。
「嘘でも認めればいいものを」
「わ、わたしは悪くないからなっ」
良くも悪くも正直者過ぎる。
これもヴィルシャの美徳とも言えるが。
なにはともあれ、現状では穏便に済みそうにない。
紫煙街の者たちがどんどん包囲を狭めていた。
「適当なこと言って、また俺たちから奪うつもりだろっ!」
「ここは俺たちの街だ。お前たちなんかに好き勝手にはさせねえからな!」
「痛い目を見たくなけりゃ、さっさと出ていけ……!」
なぜ紫煙街の者がここまで敵対的なのか。
その口振りから想像するのはたやすかった。
カオスは通りの中央へと歩み出る。
「ヴィルシャ、手を出すな」
「貴様1人でやれるのか?」
「1つとはいえ、封印が解かれたからな。こやつら程度なら問題はない」