雨の曲
よく晴れた日の夜だった。
空には赤い満月が見えた。
森の中に静かに佇むこの屋敷には、『夜景』なんて存在しない。
いつか本の中で目にしたことのある「夜景」は、宝石箱をひっくり返したような、という例えがぴったりなように美しかった。
ここでは空に無数の小さな粒が浮かんでいるのが見える。 小さな子供が癇癪を起こしてばら撒いたビーズのように。 僕は毎日、空にゴーストを見ている。
先生が教えてくれた。
あれらのうちの幾つかはもう死んだ星だそうだ。
死んだ星が放りだした光が、何十年何百年とかけて、母体が死んだことにも気が付かずに、まっすぐ進んでくる。
ひたすらまっすぐに進み、そして僕はそれをこうして受け入れているのだ。
死んだって誰かに受け入れてもらえる運命なら贅沢じゃないか。
僕はそっと窓のそばに座った。
目に映るそれは1日として同じものは無いはずなのに、僕には退屈な風景にしかならない。
その退屈な光を、僕は今日も受け入れることにする。
キラキラ光る存在は、どれも独りよがりで主張しているように思えた。月はいつも仲良くなれずにそこにいる。
僕の手が掴みたいと上に伸びる。
いつだって掴めないのに。
今朝早くに、小さな男の子が優しそうな夫婦に引き取られていった。ふっくらしたおばさんと髭のあるおじさんが彼の両手を引いていた。
『こちら側』と『あちら側』、
僕は今日もここにいる。
車に乗り込み嬉しそうに手を振る彼に、僕は軽く手を振り返した。
僕はそんな自分が嫌いだった。
うんざりするようなハリボテの笑顔のあの人が、大袈裟に寂しそうな声で彼らを見送った後、僕らに向き直ってこう言った。
「いい子にしなさい。そうすれば君たちを拾ってくれる物好きは現れるから。」
物好きは一体どこにいて、いつになったら迎えに来てくれるんだろう。僕はずっと待っているのに。
気がついた時には僕の知っている景色はここの景色だった。
『お母さん』や、『お父さん』と呼ばれる人は見たことがなかった。小さな時は、僕 を産んだ人がいつか迎えに来てくれるんだと思っていたけど、ここに出入りする大人が可哀想なものを見る目で僕を見るから、ああきっとそれはないんだな。と知 った。
僕は可哀想な人間らしい。
「流れる星に、3度願い事を言えば叶うらしいよ。」
と、昨日誰かが言っていたのを思い出した。
ゴミが大気圏で燃え尽きるだけなのに馬鹿馬鹿しい。
だけど今夜は暇だから、いつもの空から去るものはいないか、僕は目を凝らすことにする。
静かな世界に僕の息の音だけが聞こえる。
聞こえているのか感じているのかはわからない。
留まる星がゴーストで、流れる星はゴミ。
宇宙に行けば可哀想な僕も光るのだろうか。
願い事を言うことさえ儘ならない僕でも。
僕をこの世に放り出した存在が死んだとしても、僕はそれを知らずにただまっすぐ進んでいくのだろうか。
進む先には何があるんだろう。
そっと小さな足元に目を落とす。
薄汚れた靴下に小さな穴が空いていた。
僕の親指が少しだけ覗いていた。
産み出したなら、少しくらい、覗いてくれたっていいのに。
「そうだから貰い手がないのだ。」
僕の耳の奥でつぶやく音が響く。
僕は『どう』だからいけないんだろう。
どこから進んできた光なんだろう。
辿っていけば戻れるのか。
それとも進んでいけば辿り着くのか。
僕はなぜ息をしているんだろう。
深く吐き出した息がじめっとした暗闇に飲まれていく。 死にたいというわけじゃない。
寒い時なら白い色だけは僕の存在を認めてくれるのに。 夜の空が綺麗なほど無力だった。
「雨の匂いがするね。」
小さな声がキラキラと現れた。
「でも月が綺麗だよ。」
こんなに月が寂しそうにいるのに。
「雨なんか、降りそうにもないよ。」
僕はそう答えた。
小さな彼女がぺたぺたと僕の隣に来てスッと空を見あげる。
「でも雨の匂いがするよ。お月様が綺麗だけど、きっと雨が降るよ。」
月が僕らを見つめていた。
「ねえお兄ちゃん、私たちもいつか、誰かのおうちの子になるのかなあ。」
「そうなるといいね。」
「私はやだな、お兄ちゃんと会えなくなるの。」
「大丈夫だよ。」
僕はきっと売れ残る。
「それにきっと、大きくなったら忘れちゃうよ。」
「忘れないもん!忘れてても思い出すよ!」
僕は慰めるように彼女の頭を撫でた。
「忘れてても、絶対に会いにきてね。」
「大丈夫だよ。」
君は不服そうにもう一度言った。
「絶対だよ。」
「大丈夫だよ。」
それでもまだ少し不服そうな様子で、君は空っぽの空を見上げた。
僕もそれに倣い空を見上げる。
「あ」
君が言う通りに、雨は急に降り出した。
「降ったね。」
「けど月、いるね。」
「天気雨だね。」
月が寂しくないようになぐさめているみたいだった。 「優しい雨だね。月を守っているみたい。」
彼女は言った。 月が微笑んでるように見えた。
「私、雨好きだよ。」
「僕も好きだよ、雨。」
僕らは二人でその優しさを見上げていた。
「もしもふたりとも忘れてても、月の日に雨が降ったら絶対思い出しそうだね。」
「そうだね。」
忘れるには綺麗すぎた空だった。
彼女が満足したように笑った。
僕らはしばらくその優しさに包まれていた。
ふと、彼女が思い出したように言った。
「お兄ちゃんのオルゴールの曲あるでしょ?あれ、雨の曲なんだって。」
「そうなの?」
「うん。こないだ音楽の先生がおんなじ曲ながしてた。難しくてまだ弾けないけ ど、いつかひきたいな。」
「聴きたいな。」
「弾いてあげるよ!」
彼女は得意げに言った。
「でも弾けないんでしょう?」
「大きくなったら弾けるようになるもん。」
「じゃあ大人になったら、今日みたいな赤い満月の日に聴かせてよ。」
「うん!!約束!」
「約束」
僕の左の小指と彼女の小さな左の小指。
寂しい月と優しい雨の、ささやかな約束だった。
・
ある日、どこからか流れてくる音楽が優しかった。
僕は作業の手を止めて顔をあげる。
それは存在を忘れかけてたラジオから流れていた。
作業の BGM にとかけていただけで、集中するほどに忘れ去られ、ついにはほとんど聞いていなかった。
紹介は済んでいたのか、最後の一音を弾き終えると曲名を告げずに次の曲に 移り変わった。
未練も残さずに、さらにまた次の曲へと移っていく。
僕だけがずっとそこにいた。
知っているような知らないような、でも懐かしい気がした。
何故だかくすぐったくて優しかった。
もう一度流れるだろうか。
次の番組の MC が大きく声を張り上げた時、自分がずっとそこに立ち尽くして いたことに気がついた。
すっかり日が落ちていた。
開いたカーテンからのぞく月がうるさいほど眩しかった。 その夜僕は全く眠れなかった。 きっと作業が捗らなかったせいだ。
•
あれから何日も同じ曲が頭を埋めている。
一度だけラジオで聴いた、名前の知らないあの曲。
もう一度、その曲に出会えたのは、君のおかげだった。
雨が降っていた。
小さな体に大きな花束を持って、少し寒そうな格好の女の子が雨宿りをしてい た。
真っ赤な花束、真っ赤なドレス、黒髪のコントラストが目を引いた。彼女はポツンと寂しげに、落ちる雨を見上げていた。
雨の生まれるところを探しているようだった。
変な表現だけど、なんだか本当にそう見えた。
産み落とされる雨の始まりを探してるようだった。
僕は、なんでそんなに寂しそうなんだろう。と思った。 その時かすかに聞こえてきた音色に、僕は咄嗟に声をかけてしまった。
もし君が、見ず知らずの男に突然声をかけられて怖かったなら、本当に申し訳 なかったと思っている。
でも仕方がなかった。
どうしても知りたい理由が、どうしても、知りたくて。
「なんて曲ですか?」
「え?」
「その曲。」
君はあまりにも無意識だったから、
「何ですか?」
その綺麗な眉の間に皺を寄せて僕をそっと見上げてきた。
ちょうどその時、彼女の前にタクシーが止まった。
君は気まずそうにタクシーを見て、それからもう一度ひっそりと僕を見た。
「すみません。人違いでした。」
ギリギリで僕は返した。
君はほっとするような、すっきりしないような顔をしながら会釈をしてそのタクシー に乗り込んだ。
だから僕は本当の待ち人を探すふりをして見送ることしかできなかった。
それが、初めてそこで君に会った出来事だった。
•
僕はどうしても知りたくて、でもその術を知らなかった。
楽器が弾けたなら、例えばピアノが弾けたら。
絶対的な音感と演奏する力、それからついでに記憶力もあれば、たった1度だけ聞いたあの曲を完璧に再現して誰かに聞かせて、きっと必ず答えを知れたのに。
そもそもそこまでの能力があれば、音楽の知識もあるだろうし、あの曲の名前も知っているのかもしれないけど。
僕はやっぱりまだあの曲の中にいた。
僕が外にいるのか、曲が僕の外にいるのか。
まあそれはどっちでもいいんだけど。
もしかしたらすごく有名な曲なのかも。と、動画サイトに クラシックとうち込んでみた。
クラシックというジャンルだということはおそらく、正しいと思う・・・。
ただ、それだけでは余にも範囲が広すぎて、だけど僕には、その先に続くワードが全く思いつかなかった。
クラシックなんて今までの僕には興味も関心もない分野だった。だから何で今更そんなにあの曲が気になるのか僕にはわからなかった。
いつか聞いたことがある思い出の曲なのだろうか。 それとも単純に気に入ってしまっただけなのだろうか?
僕はそのわけがどうしても知りたくて仕方がなかった。
僕には心に残るその曲を弾いて答えを探すのは難しかった。やっぱり地道に探すほか、方法はないのだろうか。
自問自答を繰り返しながら、もう一度流れないかとあれから暇さえあればラジオを聴いている。
だけど虚しく無機質な音が響くだけだった。
そう思っていた時にまた君の鼻歌が響いたんだ。
あの雨の日、雨の匂いに運ばれた2度目の小さな音色に僕の心臓はくすぐったかった。
2度目に聞いた名前の知らないあの曲も、やっぱりどこか懐かしくて、優しかった。
僕の左手に存在を感じた気がした。
•
僕の左手は物心ついた時からなかった。 物心。 僕の場合、その物心は急についた。
ある日までの記憶がまるでなくて、ある日からの記憶が急にあるのだ。
物語みたいな話だけど。
最初の物心は白い天井だった。
ある日、目が覚めると白い天井が目に映った。
僕を押し潰しそうだと思った。
ふと足元に目を移すと、優しい顔で僕を見ている『男の人』と『女の人』がいた。
僕が体を起こそうとするとやんわりと宥めて、それから「まだ寝ていなさい。」と言った。
僕は、その知らない『男の人』と『女の人』が怖くて、とりあえず言うことを聞くことにした。
そっと周りを見回した。
そこは病院のようだった。
真っ白なベッドに僕は寝ていた。右手には細い管が繋がれていて、そばに吊るされた小さな袋からぽたぽたと綺麗な雫が流れていた。
それは静かに僕の右手に入っていくようだった。
左手には何もなかった。
何も、なかった。
空っぽだった。
「僕の左手は?」
僕は咄嗟に知らない人に聞いた。
はっとした『女の人』が「お医者さんを呼んできますね。」といって出ていった。 残された『男の人』が「何か覚えているか?」と聞いた。 僕は、覚えている、の言葉を辿った。
覚えているとは?
覚えて、いる。ということだ。
そういえば知らなかった、と気がついた。
気がついた途端、何もかもが洪水のように溢れ出した。
それは不安というよりも孤独に似た痛みで、僕は全てが痛かった。
「僕はだれですか?ここはどこですか?僕の左手は?」
溢れ出すと止まらなかった。
空っぽの左手と雫を受け入れていた右手を無茶苦茶に振り回し、掠れた声で 力の限り叫び続けた。
だって僕は何も知らなかった。
僕のことも、 僕のことも、 僕のことも。
慌ただしく数人のナースとお医者さんが入ってきた。パニックを起こしている僕に 何かを注射した。
•
僕は目が覚めた時、目が覚める前のボクに置いてきぼりにされたらしい。
それが 僕の知っている僕の始まりだ。
白い天井と透明な雫を受け入れる右手、
知らない男の人と女の人、それから空っぽの左手。
それが僕の知る僕の生まれた時だ。
次に目を覚ますと、お医者さんが僕を忘れていったボクについて教えてくれた。
ボクは、何か大きな事故に巻き込まれ、何だか難しい状態で、記憶がなくなったらしかった。「ずっと眠っていたんだよ。」とお医者さんはいった。
言葉は喋れるのに、僕は全くの空っぽになってしまったらしかった。
お医者さんの教える、『ボク』のことは、空っぽだった僕の本棚にゆっくりと本のように並べられていく。
変な表現だけど、僕はその本が興味深かった。
僕のことを心配そうに見ている『男の人』と『女の人』は、僕の『お父さん』と『お母さん』だと教えてもらった。
ボクはそんな大切な存在まで置いていったのか。
お父さんとお母さんだというふたりに、大切な存在なのに忘れてしまってごめんなさい。と謝ると、優しそうに微笑みながら、「大切な記憶ほど忘れやすいんだよ。」と教えてくれた。
お父さんが僕の頭に乗せた手は、大きくて暖かかった。
僕はその暖かさが何だか嬉しかった。
それから、この僕の左手もその事故のせいだった。
ただ、どんな事故だったのかはその後もやっぱり思い出せなかった。お医者さんも お父さんもお母さんも、それだけは教えてくれなかった。きっと僕をこれ以上混乱 させたくなかったんだと思う。
知りたいとも思うけど、それ以上に怖かったから僕は知らないことに甘えることにした。
幸いにも僕は右利きだったらしい。
不便はあっても何とかなった。
僕は忘れてしまった分を取り戻すためにそれからたくさん勉強した。優しいお父さんとお母さんを安心させるために足りない左手を補う努力をした。
それでそれなりの大学を出てそれなりの仕事につくことができた。
でもたまに、ないはずの左手に存在を感じる時がある。 いつかボクを思い出す日があるのだろうか。
それはいい思い出だろうか。
そんな日があるならと、ボクを少し興味深くも怖くも思う。
•
君にもう一度会えたのは本当に偶然だった。
今度も雨で、やっぱり同じ場所で、
また君は小さく歌っていた。
その優しい音色は、はげしい雨の音にも消されずに僕の耳に入ってきた。
多分、求めていたからだと思う。 その場所を通るたびにもう一度会えたらと思っていたから、 音を辿って君を見つけた瞬間、心臓を掴まれた気分だった。
だから思わず、ちょっと大きめの声で
「あ」
と言ってしまったんだ。
その瞬間君は振り向いてこちらに気がついた様子だった。 「あ」
君も言った。
僕は急に恥ずかしくなって、それで口が勝手に喋り出してしまった。
「あの、この間はその、えっと、何だかその・・」
「雨垂れ」
「え?」
「ショパンの雨垂れです」
彼女は言った。綺麗な声だった。
「私よく自分でも無意識のうちに歌ってるみたいなんです。あの時も、雨、降ってたでしょう。だからなんだか懐かしくて。今日みたいに思い出してたんです。だからきっと雨垂れだと思います。」
雨垂れ。
彼女はそう答えを残して、タクシーに乗り込み、また去っていった。
雨の音だけが 僕を包んでいた。
僕は家に帰ると 雨垂れ と検索してその曲を聞いた。
スピーカーから流れる音が僕の記憶の音に重なる。
ボクはこの曲を知っている。きっと。
ベッドに寝転び天井を見上げる。
ざらざらした白色がこちらを押し返しているようだった。 僕は目を閉じた。
ショパンが生んだその曲は、雨の日に大切な人の帰りを待ちながら作られたそうだ。
優しく歌うその曲は、少し不安げに寂しそうに、だけど大丈夫。でも不安。 大丈夫だよ。そんな不安たちを大きく抱きしめるように、孤独に寄り添うように。 静かに僕の中を流れて僕の心にしっかりと届いた。
一人きりになった気がして寂しかったんだろうか。怖かったんだろうか。だけどショ パンはよっぽど大切な人を待っているんだと思った。
だってこんなにも、優しいから。 僕は詳しくないからよくわからないけど、 最後のフレーズの後の余韻が心をぎゅっとした。 雨を見上げながら鼻歌を歌う彼女は誰かを待っているのだろうか。
もう一度彼女に会いたいと思った。
•
次にまた会ったのは、というか見つけたのは君からだった。
「また会いましたね。」
また同じ場所でやっぱり同じように、雨と共に君は現れた。
無防備な笑顔だった。
「今日は歌ってないんですね。」
僕がそう答えると君は少し恥ずかしそうに笑い、
「歌いそうになった時に、ふとあなたの事を思い出したんです。歌ったらまた現れ るかなって。だからこれから、でした。」
と言った。
静かな雨の音が柔らかく僕らの会話を促していた。
「あの曲、聞きましたよ」
「え?」
「雨垂れ、聴きました。」
「そうですか。」
「僕好きです、その曲。」
「私もです。」
「優しい曲ですよね。」
僕らは雨を見上げていた。
「小さい頃、どうしても弾けるようになりたいと思っていて。」
彼女が寂しそうに言った。
「弾けるんですか?」
「今は弾けるようになりました。」
「聞いてみたいです。」
少し間があいて彼女は目を伏せて微笑み、そして静かに到着したタクシーに乗 り込んだ。
戸を閉める前、少しだけ止まってから振り返って
「また。」
とだけ言った。
僕はまた、雨と見送った。
その日、もう日課になりつつある雨垂れを聞きながら、目を閉じ、雨垂れを弾く 彼女を想像していた。
その後、僕らは1年近く、あの場所で顔を合わせることはなかった。
•
音楽大学というのは本当にいろんな音楽のある場所らしい。
仕事で少し用があって訪れたその大学は、そこそこ有名でそれなりに大きな音楽大学ということもあって、いろんな楽器の音がそれぞれの教室から聞こえてきた。
きらきらした音が、それぞれ主張するように響き、星空のようだった。
なれない場所だからか、用を済ませた僕は、なんだか居心地が悪くて、少し早歩きで帰るところだった。
そんな中、音を出さない教室にふと足が止まった。
1年ぶりに見る君は大きなグランドピアノの前に座っていた。
授業中のようには見えなかったからノックをして扉を開けた。
君はそれに全く気が付かないようで振り返ることもなかった。
だから僕はもう一度戸を叩いて音を出してみた。
君は集中しているのかそれにも全く気が付かない。
勝手に入るのは悪いかとも思ったが、少しだけ、と開いた扉に体を滑り込ませた。
ピアノの前に座る君はあまりにも綺麗だった。
何を思っているんだろう。
少しして、君は徐に鍵盤へ手を置いた。
初めて君のピアノが生で聴けるのかと心が震えた。
1つ深く呼吸をした後、君のピアノは静かに歌いはじめた。
君のピアノは綺麗に響いた。だけど何だか苦しそうに見えた。ついにとまり、少し戻り、また、そして少し戻る。 何だか消えそうだった。
ぼそっと彼女の呟きが聞こえた。
「何で・・・」
「何で・・・・・」
こころなしか彼女の体がゆらゆら揺れていた。
そして次の瞬間大きく傾いた。
僕は咄嗟に右手で、ほとんど上半身を使いながら彼女を受け止めた。
椅子から落ちかけた彼女は僕に支えられながらうっすらと目を開けて僕をみた。 そしてまた目を閉じた。
結論で言うと不甲斐ないが、僕の右手だけでは、彼女を抱えて医務室を探しあてて、そこまで運ぶのは難しかった。
だから僕はとりあえず、その教室の端にある椅子にそっと彼女を寝かせることにした。
それが僕の右手の精一杯だった。
そっと移動させた彼女は眠っているようだった。
そのままに残して離れるのは心配だった。
僕は少し考えたあと、そのまま様子を見ることにした。
静かな部屋に彼女の呼吸が木霊していた。
数分かそのくらいで彼女は目を覚ました。
僕をみて少し驚いた後、「夢かと思った。」と小さな声で呟いたのを僕は聞いた。
ペットボトルの水を手渡し飲むように促しながら、仕事で来る用があってたまたま見かけたのだと伝えると、君は恥ずかしそうにお礼を言ってから、少し水を飲み、そして「久しぶりですね。」とはにかんだ。
それから僕らは初めて座りながらまともな会話を交わした。
「あれから、あの場所に行くとまた会えるかなと思ったんです。でも全然会えませ んでしたね。」
「僕もです。雨が降れば会える気がしました。」
「あのあと謝ろうと思って。」
「え?」
「聴きたいと言ってくれたじゃないですか。雨垂れ。でも私、何も言えずに。」
「ああ、いいんです。そんなよく知りもしない人に急に言われたところで気持ち悪いだけですから。」
「そんなつもりじゃ。」
「いいんです。」
小さな静寂の後、彼女は懐かしむように言った。
「小さい頃に約束したんです。赤い月の日に聞かせてあげるって。」
優しい声が寂しく響いた。
「・・・物心つくまでの記憶がないんです。」
思わず言っていた。
それは僕が気にしないでいようといたことで、一番気にしていることだった。
「え?」
「子供の時、事故に遭って目が覚めて、それまでのことを無くしてしまったんです。
思い出そうとするたびに頭が痛くなって。
君に会う少し前のある日、偶々あ の曲を聞きました。
何故かすごく懐かしい気がして、何か思い出せるかもと思いました。でも無理でした。
もう一度聞きたいと思って、でも名前を知りませんでし た。そんな時あなたの歌うあの曲を聞いたんです。
嬉しかった。
昔のことはやっぱり思い出せなかったけど、それでも良かったと思ってます。あなたの歌はすごく優しかった。だからそんなあなたが弾いたところを、単純に、あなたの音楽を知りたかったんです。」
彼女は驚きながら僕の話を静かに聞き、
それから少し黙った後、ぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
物心ついた時には孤児院にいたこと。
生みの親の顔も名前も知らないこと。
仲のいいお兄さんがいたこと。
そのお兄さんにいつか雨垂れをきかせると約束したこ と。
ある日孤児院で火事が起きたこと。
崩れた家具に埋もれて逃げ遅れたこと。
お兄さんが助けに来てくれた姿がヒーローのように見えたこと。
お兄さんが助 け出してくれておぶって運んでくれたこと。それがお兄さんをみた最後だったこと。
次に目が覚めると病院にいて、すぐに今の両親に引き取られたこと。
今の両親 には自分より歳上の息子がいること。
ピアノを習わしてくれたこと。
そこまで話して、プツリと途切れた。
そして小さく、
「小さな頃の何かをずっと探してるなんて、似てますね、私たち。」
と呟いた。
寂しく響いた空間に、僕は言葉を探した。
「いつか弾けるといいね」
と返すのがやっとだった。
彼女はまた少し黙った後、絞り出すように言った。
「弾けないんです。」
そしてもう一度強く、自分を傷つけるようにいった。
「弾けないんです。もう何ヶ月も」
口角を上げてそう言った。
僕は思わず
「大丈夫だよ。」
と言っていた。
彼女は泣いていた。涙を流せずに、でも何かに怯えながら 泣いていた。
人は涙を流さずにでも泣けるらしい。
そんな彼女をみると胸が八つ裂きにされるほど痛かった。僕には泣いている彼女を抱きしめることしかできなかった。
「みんなそう言うんです。
勝手にいろんなことを想像して、有る事無い事好き勝手に言って、こっちのことなんか考えもせず!
音楽だけが救いだったのに!
みんな結局いなくなる!!!
わたしには何もない」
彼女はバタバタとその両手を振り回した。
「大丈夫なんて言わないで!
あなたもすぐにいなくなる!」
「大丈夫だよ。」
僕はもう一度、今度はしっかり言い切った。
「僕は初めから空っぽの人間でしたから」
僕の言葉がツンと自分に刺さった。
彼女の両手がパタリと落ちて、僕らはしばらくそのままでいた。
彼女も僕も失うことが怖いのだ。
彼女が少し身じろぎしたとき、僕はそっと抱きしめる腕を解いた。
「急に抱き締めたりしてすみません。」
彼女は首を振ると、気まずそうに口を開こうとするから
「謝らないでくださいね」
と僕は言った。
彼女はそっと目を合わせ、
「ありがとう」
と言った。
優しい静寂が僕らを包んだ。
僕らはやっぱり失うのが怖くて、
急に離れた隙間に流れる空気が寂しいような気がした。
なんだか照れくてチラリと君の様子を伺うと、君も恥ずかしそうに伺ってきた。
僕らは二人、誤魔化すように笑った。
空いた空間に言葉は必要ないような気がした。
僕らは少し見つめ合ったあと、少しではなく暫くかもしれないが、どちらからともな く外で一緒に食事をすることに決めた。
•
どこに行こうとかお互いにプランがあったわけではない。 ただ大学を出たあと、 どこか に向かって歩き始めた。
気がつくと僕らはまた、出会った場所にいた。
「ここで会いましたね、私たち」
君がゆったりと言った。
「そうですね」
僕はその日を思い浮かべた。
「あの日は降ってましたけどね、雨」
「でも降りますよ。今日も」
「え?」
「雨の匂いがしますもん。晴れてるけど、きっと降ります。」
彼女はそっと空を見上げ、ゆっくりと、そして深く息を吸った。
僕もそれに倣うように空を見上げ、深く吸った。
雨なんか知らない綺麗な空だった。
「・・・」
「・・・」
「あの日、綺麗な格好で綺麗な花束を持って雨を見上げてるあなたが、すごく寂しそうで、どうしたのかなと思ったんです。」
彼女がこちらを見る気配がした。
「雨はどこから来るんだろうと思ってたんです。
お母さんを知っているのかなって。」
静かな風が僕らの頬を撫でた。
「雨の音の隙間から雨垂れが聞こえてきました。」
「なんだか身に覚えのあるシチュエーションです。」
彼女がくすくす笑う。
「すごくびっくりしたんですよ。」
「僕もですよ。」
「変な人だと思いました。」
「雨を見ながら鼻歌歌う人がいるなんて。」
「好きなんですよ、雨。」
吹き飛ばすように彼女は言った。
「僕も好きですよ。」
「次もまた雨の日でしたね。」
「また歌ってましたね。雨を見上げながら。」
「あの後、なぜかあなたのことが頭から離れませんでした。」
「僕もです。」
「またここでうたえば会えるかなと思いました。」
「また会えましたね。」
「歌ってませんでしたけどね。」
悪戯っぽく君が笑った。
「でも歌おうとしていたんでしょう。」
僕も揶揄うように言った。
「そうですけど、歌ってませんでしたよ。」
「じゃあ何でですかね。」
「何でですかね。」
「運命ですかね。」
「そうかもしれませんね。」
車の通る音が僕らの静寂を埋めていた。
「最初の何ヶ月かは期待してたんですよ。」
「少し長期の仕事があったんです。でも終わってからは僕も期待しました。」
「・・最近は、」
「いいじゃないですか。」
僕はゆっくりと続けた。
「また会えましたから。」
「でもまさか、会えるなんて思いませんでした。」
彼女は微笑み、少し目を閉じた後、風にまかせてゆっくりと話し始めた。
涼しい声だった。
「両親はすごくいい人なんです。私を引き取って育ててくれました。私が音楽が好きだと気が付いてからは、音楽を習わせてくれて、音大まで通わせてくれました。
音大まで続けるのって莫大な金額が必要なんです。それを血のつながらない私に。
私にとって、すごく大切な家族です。だけど、兄がある日、お前いつまで居るんだって言ったんです。いつまでうちの金を使うんだ。って。私その時怖くなって。」
僕は黙ってその先を促した。
「兄が、両親が、家族になって以来初めて他人に見えました。」
彼女はただ前だけを見つめて話し続けた。
そこにある何も、見てはいなかった。
「急に他人に見られるのが怖くなりました。針に刺されてる気分になるんです。 何か言われてるんじゃないかって怯えて、今までは気にしなかったようなことにも簡単に傷つくようになりました。友達にも家族にも。そうしたらみんなを嫌いになりそうで、私は、みんなが怖くて、それで私は」
「大丈夫だよ。」
僕はゆっくり言った。
もう一度雨の匂いを吸い込んだあと、彼女は吐き出すように続けた。
「段々ピアノの音が難しくなったんです。説明しづらいんですけど、難しく、なった んです。」
「うん。」
君はやっと僕を見て、それから続けた。
「あの日、お兄ちゃんは、赤い月の日に雨垂れを聞かせてね。って約束してく れたんです。」
こうやって、と君は自分の左の小指を出して見せた。
瞳が揺れていた。
「雨垂れは、お兄ちゃんの大事なオルゴールの曲でした。よく聞かせてくれたんで す。これは僕の大切なオルゴールなんだよって。
私その曲が大好きで、でも私たちその曲の名前を知らなくて。初めて名前を 知った後、お兄ちゃんに教えてあげたんです。雨の曲だよ。って」
「・・・」
「だから私たちの中で、それはしばらくずっと雨の曲でした。」
「雨の曲・・・」
その時、彼女の言う通り、雨は急に降り出した。
「降りましたね。」
僕がポカンと言うと、
彼女はぼうっと空を眺め、こう答えた。
「もしよかったら聴いてくれませんか?」
「え?」
「雨垂れ。今なら弾ける気がするんです。私のアパート、すぐそこですから。」
そう言うと早く、彼女は僕の手を引いて駆け出した。
僕はふわふわしたような、もやもやしたような、なんだかよく分からない心を抱え、彼女に手をひかれるままについていった。
彼女は雨に濡れるのなんかお構いなしだった。
あまりにも急な展開についていかない頭が、彼女は意外と足が速いのだなとか、そんな関係のないことを考えていた。
僕は聞きたいと思っていた彼女の音楽が、ものすごく楽しみでもあったし、逃げ 出したいほど怖くもあった。
家に着くと、彼女は何も言わずにそのままピアノに向かった。
彼女のピアノに向かう空気に、少しの音を立てるのも躊躇われた。
彼女は美しい動作で椅子に座った。
濡れた髪を雫が滑り、床に落ちた。
僕は何も言えなかった。
ただ静かにその一連の動作を眺めていた。
彼女はスッと目を閉じた。
ゆっくりと、深く呼吸をした後、あまりにも綺麗な動作で、その長く繊細な指を鍵盤に乗せた。
また一つ雫が滑り落ち、そして彼女は雨の曲を弾き始めた。
紡ぎ出される音は雨よりも柔らかかった。
僕は知っていた。その女の子のことも。もちろんこの優しさのことも。ひとつ、またひとつと僕の中に染みわたっていった。
その女の子の弾く雨の曲は、僕の知ってる僕の大事なオルゴールよりずっと優しくて、それに暖かかった。
ボクは僕だった。
僕の頬の涙を隠すように雨が滑り降りる。静かな調べがボクの作った結び目を解いていくようだった。そして僕の不安を優しく包み込むように、 その最後のフレーズを僕にくれた。
彼女は暫くその余韻に全てを委ねた。
それからゆっくりと一粒だけ涙を流した。
ぽたりと雫が落ちた音がした。
「やっと聴かせれましたね。」
「うん。」
彼女はやっとこちらを向いて、にやっと笑った。
「間に合いましたね。」
「約束したからね。」
「ずっと言いたかったんです。ありがとうって。」
「少し時間がかかったけど。」
彼女は微笑み、僕もまた微笑んだ。
「やっぱりいい曲だね、雨の曲。」
「やっと、わかりました。」
「え?」
「帰ってきてくれてよかったです。」
彼女が嬉しそうに言った。
「さて、もう一回聞きますか?」
窓の雫に赤い月が笑っていた。