恋に落ちる
人が恋に落ちる音を聞いた。
初めての事でもないからもう驚かない。自分の好きな人が、自分以外を好きになる。惹かれ合う。キラキラと輝くその瞳が自分に向くことはない。この光景も何度目かなんて数えるのはとうに止めた。
秘めた思いを打ち明ける度に何度となく恋に破れる僕をバーのマスターが慰める。だからノンケなんてやめておきなさいよ、と。僕だって選んでノンケに惚れているわけじゃないんだよ、と反論する。
僕はゲイだ。でも見た目はごく普通のサラリーマン。好きになる相手も普通のサラリーマン。同僚が仲のいい同僚になって休みに待ち合わせて遊ぶ同僚になって、それで遊び仲間の女の子にひっ攫われてしまう。社会人になってからはその繰り返しで結構な年数この両の手が恋人だ。時々、このバーで相手を見繕って一夜限りのお付き合いをすることもあるけど二度目があることはない。やがて相手がこの店に来なくなるだけだ。
いつの間にやら店には僕一人。今日も今日とて俯きながら失恋を酒で慰める僕に、ねえ、とマスターが声をかける。あたしにしない、と。
思わず顔を上げてどういう意味かと尋ねる。あたしと付き合いましょうよ、あたしこんなだけど、あんたのことは大事にするから。あたしの店のカウンターで何度も何度も泣いてるあんたに絆されちゃったのよ、と。
渋る僕に、あんまり難しく考えないでまずはデートしてみましょう、どうせ明日の休みは予定もないんでしょ、店が始まるまでならあたしも時間あるし。半ばそう強引に話が進み、あれよあれよと言う間に予定が埋まった。
翌日、家事を済ませて待ち合わせ場所に向かう。昨夜あんなに落ち込んでいた気持ちが嘘のように高揚する気持ちを押さえつけ、あえて無難な服を着る。待ち合わせ場所に目を向けると、そこには身ぎれいに着飾ったマスターがいた。店にいるときは緩く前に流した栗色の髪はふんわり一つにまとめられ、店ではかっちり黒一色に揃えた服も、今日は淡い色をまとっている。いつもよりも近い目線に足元をみればスニーカーで、それでも僕より少し、そうほんの少し爪先立ちすれば届くだけ背が高いのだけど、どうしてと問えばヒールは店の制服と同じで戦闘服なのよ、といつもより柔らかく笑む。
今日はマスターじゃなくて名前で呼んでねって悪戯っぽく笑う彼に秘密を共有しているような親近感を感じて、分かった、と同じように笑う。
僕一人じゃとても入らないようなお洒落なカフェでランチをとり、お互いのペースで美術展を辿り、ゆっくりと公園を歩く。穏やかな風を感じながら見上げれば雲ひとつない空が開けていて、夕焼けの境目を目でたどる。
久しぶりに凪いだ気持ちで過ごす時間に大きく息を吐く。ねえ、繋ぎましょうよ、と前を歩く彼から伸ばされた手を見ると、夕日を移して輝く爪が目に入った。
いつも綺麗に化粧してるのに爪はすっぴんなんだね、と他の客がかけていた言葉を思い出す。あたし、仕事中の爪は塗らないの。照明は暗めだから化粧はしっかりするけど、お金もらって人の口に入るものを作るんだから手はすっぴんよ、と芯のある声で言っていたのを覚えてる。
今日のその手先は彼の周りを舞い散る花びらよりも少し濃くて、桜貝のように艶やかな色気があった。目線を上げるといつもよりも素肌に近い笑顔がそこにあって、キラキラしたその瞳は真っ直ぐと僕に向けられていた。
その瞳に目を奪われた瞬間、僕の胸から、恋に落ちる音がした。
勝手に頬が動いてしまう。でも違和感は全くなくて、朝感じてた高揚はこの前兆だったのかななんて、パズルの最後のピースがはまったみたいな感覚を味わいながら大きく一歩を踏み出し彼の手をとり、そのまま走り出す。いきなり走り出した僕にびっくりしても、僕よりも長いコンパスを持つ彼は笑いながらやがて僕を追い越して行った。
足を止め息を整えるあいだ見つめ合うと、ふっと彼が笑ってくれる。お腹空いたね、と言うからご飯作ってとワガママを言ってみる。仕方ないわね、特別よ、って甘やかしてくれるから、嬉しくなってもう一度手を繋ぎながら店に向かう。
店に着いたら、大事にしますって伝えよう。大事にするから、大事にしてねって言うんだ。
今日からマスターに聞かせる話はきっと全部惚気話になるはずだから。
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ねえ、マスター聞いてよ。僕また失恋しちゃった。毎度毎度カウンター席でそう言ってさめざめと涙するのも何度目なのかしら。いい加減ノンケはやめなさいって言ってるのに、選んでノンケに惚れるわけじゃないんだよ、なんて言って反省しやしない。
この店ができた頃から数年来通ってくれる常連だけど、ここでする話は仕事の愚痴か片思いのノンケの惚気話かそのノンケへの失恋話かぐらいだ。うんざりだけど、悲しさを押し殺すように泣くその姿を何度も見せられればいい加減絆される。
あたしだってこの店を始めてからそれなりに恋人はいたけれど、その間この人の幸せそうな顔って言えば片思い中の僅かな間、僅かな回数しかない。その僅かな顔を知っている身からすれば、もうわけわかんない相手に惚れたり体だけの付き合いなんてしてないであたしにしときなさいよと言いたくもなる。あんたよりデカいオカマだけどそこらの男よりあんたのこと長く見てきてるんだから。
少々強引ながらも翌日のデートをこじつけて、気合いを入れてオシャレする。店での姿とは真反対の格好で待ち合わせる。彼は没個性というか、まあ無難な格好をしてやってきた。ゲイである自分をオープンにしたくないようだから仕方ない。ワザと着飾ったのもそれが理由。これならただのデカい女で済ませられる。デカすぎて二度見はされるでしょうけど。
気になっていたカフェでランチをとる。彼はずっと挙動不審で浮いていたけどそれも可愛いなんて思っているあたりあたしも結構本気で彼を気に入っているらしい。その後は彼が見たいと言っていた美術展に入る。じっくり回りたいからとそれぞれのペースで見て回る。時々行き当たっては感想言い合ったりして普段より満足度が高い。今までの恋人は男女ともにべったりくっついてぺちゃくちゃ喋りながらだったから一つ一つの展示に向き合うような見方にこんなのもあるのか、と新鮮に感じた。
今までの恋人と彼とはタイプも違うのだから当然か。あたしはこういう見た目だから今までの相手は男女ともに自分に自信のあるタイプが多かった。自分中心で自分が楽しければそれが一番って思っている。それが悪いわけではないけれど、少しでもどちらかの気持ちが離れたらあっという間に興味や関心の対象が次に移る。相手を理解したり相手のために時間を割くのは自分の時間が勿体無いって考え。熱し易く冷め易い。いい意味で流されやすい分、留まるつもりも全くない。
彼はそれとは真反対。惚れやすいくせに情が深い。相手のことを思うあまりに自分は後回しだし、相手を理解することに時間をかけようとする。熱し易いくせに冷め難い。その上結構頑固。どちらかというとあたしが避けてきたタイプ。なのに今そんな男を口説いてるっていうんだから恋愛って不思議なものね。
美術展を出て公園を歩く彼はまだ余韻に浸っているのか夕焼けに染まり始めた空を見ている。彼の視線と気持ちをこっちに向けたくて、手を差し出して繋ぎましょうよと声をかける。私の手を見て、顔を見て、目があった瞬間、今までに見た事がないほど幸せそうな表情が徐々に滲み出るように彼の顔に浮かび上がってきた。
これだ。あたしは彼のこの顔が見たかったんだ、この顔をさせたかったんだ、と思った瞬間、心臓が引き絞られたかのような痛みを覚えた。
あたしの手を取るなり急に走り出した彼に驚きつつ、負けずに思いっきり走る。あっという間にあたしは彼を抜き去って、大きな声で笑った。日頃の運動不足のせいか、彼の膝まで笑っていた。
照れ隠しのように見つめあった後、お腹空いたねと声をかけたら、ご飯作って、いつも作ってくれてる美味しいご飯が食べたい、なんて可愛らしいことを言う。店に戻ったら開店準備をしなければならないけど、開店時間を少し遅らせればまあいいかと、仕方ないわねなんて勿体ぶって応える。店に向かう道すがら手を繋いでくれたから、離したくないな、なんて珍しいことを思う。
店に着いたら胃袋を掴む美味しいご飯を用意して、無理やりにでも毎日食べたいと言わせてやる。
あたしのご飯とお酒じゃないと満足出来ない体にしてやって、毎日あたしの店に通わせて、店で泣くのも笑うのも幸せそうな顔をするのも全部全部あたしのせいにしてやるんだから。
最後までお読みいただきありがとうございます!アラサー同士でもピュアな恋の発展いいよね!
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