アラサー監察医に謎とショタを添えて~すき焼きの〆はうどん派です~
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その日もいつもと変わらない朝だった。
神崎 律華。二十代後半、職業と年代からアラサー監察医と呼ばれることもある。
そんな神崎が歯磨きをしていると、テレビから本日の占いが流れてきた。
『……座のあなた。数年に一度のラッキーデー。朝から良い知らせが届く予感。空色の服がラッキーアイテム』
「ふぅーん」
聞き流しながらうがいをする。そこに携帯が振動し、メールが届いたことを知らせた。
「朝から誰……ん、橋本先輩? なに、なに? また、体が子どもになっ……」
メールの内容が口からこぼれると同時に、神崎は超高速で動いた。
空色のシャツとストレートパンツに着替え、長い黒髪を緩く一つにまとめる。そして、就職してから学んだナチュラルメイクを顔に施す。
「いっちょあがり!」
大抵の人から好印象を持たれる外見を作り上げた神崎は、鏡で全身を確認して駅へと走った。
人をかき分けて満員電車に飛び乗る。ムワッとした熱気に包まれたが、これもちょっとしたスパイスだ。すべては、これから愛でる極上のデザートのため。
数駅ほど我慢した電車から吐き出され、人波に押されながら早足で改札を抜ける。そこは毎日通っている駅前広場だった。
人々が目的地へ急いでいる中、神崎が足を止める。後ろにいた人に舌打ちをされたが、塩と胡椒を間違えた程度で気にするほどではない。もし、ぶつかっていたら塩とプリンを間違えた怒髪コースになる。
神崎は今にもヨダレを垂らしそうな顔で、一点を見つめた。
「はぁ、旬のフルーツ山盛りパフェ……」
思わず呟いた声の先。そこには壁に軽く背を預け、電話をしている七、八歳ほどの少年がいた。
大きな瞳は少しだけ伏せられ、長い睫毛を強調している。そこに艶やかな黒髪が被さり、白く滑らかな肌をより一層引き立てる。
元々、神崎は二次元限定で美少年好きだった。それが、この少年によって、三次元の扉が開いた。現実では、この少年限定の美少年好きとなっている。
「朝から目の保養だわ」
少年の輝きに目が潰れ、体がグラリと揺れる。だが、ここで倒れてはならぬ、と神崎は足を踏ん張って堪えた。
その珍妙な動きに、人々から不審の目を向けられるが、気にしない。それに、これから仕事だ。
気を取り直した神崎は、ショルダーバックの紐を握りしめ、少年に近づいた。
そこで神崎に気が付いた少年が携帯を収める。
「おはよう」
「おはようございます。電話の途中でしたか?」
「いや。電話をしているフリをしていただけだ」
「どうして、そんなことを?」
少年が軽い動きで壁から背を離す。
「何もせずに立っていると、迷子と勘違いされて、数分おきに声をかけられた」
「それは……」
神崎が少年に視線を落とす。Tシャツの上に大きめのパーカーを羽織り、ショートパンツにスニーカーを履いた、とびきりの美少年。やましい思いはなくても、声をかけたくなってしまう。
神崎は鼻血が出かけた鼻を押さえ、視線を逸らした。
「こんな旬のフルーツ山盛りパフェにアイスを追加した子どもがいれば、そうなりますよ」
「君はなんでも食に例えるね」
「当然です。食とは生きること! 人生に必須です!」
神崎の場合はそこに美少年も入るが。
少年は慣れた様子で神崎の情熱を切った。
「あぁ、分かった。今は職場に行こう」
実はこの少年、本来の姿は四十歳手前のくたびれおっさんで、神崎の職場の先輩だ。それが、たまに体が子どもになるという特異体質持ちで、しかもこうなる原因は不明。前回は一晩寝たら、元のおっさんに戻っていた。
神崎が歩きながら橋本に訊ねる。
「なにが原因で子どもになるんでしょうね? 昨日は仕事の後、何をしました?」
「いつも通り、まっすぐ家に帰って、食事をして、風呂に入って寝た」
「仕事もいつも通りでしたし、原因不明……あ!」
神崎が閃いたように人差し指を立てる。
「こういう時に怪しいのは食事です。夕食のメニューは?」
「豆腐とわかめの味噌汁に、カキフライに、キャベツの千切りと野菜の煮つけだ」
「何気にいい物食べてますね」
一人暮らしの神崎は家庭の味に飢えていた。料理をするのが面倒で、パスタや丼などの一品料理や、弁当やお惣菜などで済ませてしまう。
カキフライなんて何年食べていないか……
あのサクッとした衣から溢れ出す牡蠣の旨味。一口目は何も付けずに牡蠣の味を楽しみ、次はレモンをかけてアッサリと。最後はタルタルソースでガッツリ食べながら、合間にキャベツの千切りで、口をさっぱりさせる。
あぁ、なんて至福の時間……
神崎が自分の世界に浸っていると、橋本が提案してきた。
「なら、今夜は食べに来るかい? いい肉をもらったから、すき焼きにする。と、キヌさんが言っていたが、この体では食べきれないと思うんだ」
「キヌさんって、昔から橋本先輩の家の管理をしている人ですよね? 体が子どもになったことは、伝えていないのですか?」
橋本が悩む。
「キヌさんも年だから。驚いて心臓が止まっても困るから、教えてないんだ。家のことは昼間するから、僕が家に帰る頃にはいないし」
「え? なら、すき焼きは?」
「材料を切って、鍋で煮込むだけにしてくれている」
「それなら簡単ですね」
神崎は大人らしく控えめな微笑みを浮かべながら、心の中では満面の笑みでガッツポーズをしていた。
夜は美少年と食事!
それだけで、神崎の一週間の活力は満たされた。
神崎が隣を歩きながら、子ども姿の橋本を観察する。
小さな顔に困ったように尖らした赤い口。背中に背負ったリュックの紐を持つ手に、ショートパンツから伸びる細い足。もう全てが萌えポイントの、プリンタワーだ。
いつ鼻血が吹き出すか分からない神崎は、ティッシュがポケットにあることを、さり気なく確認した。
こうして、二人は誰にも会うことなく職場の建物に入った。自分の解剖室に着いた橋本が、安堵してリュックを降ろす。
「誰にも見つからなくて良かった」
「今さらですが、無理に出勤せず有給を使えば良かったのでは?」
「整理したい書類があったんだ。あと、この前は急な検死が入って自分の検査が出来なかっただろ? 今日は採血ぐらいしておきたいと思って」
橋本の発言に、神崎の世界が揺れた。天と地がひっくり返り、ハバネロを食べてもサクランボと思えるほどだ。
神崎は倒れそうになる体に抗い、テーブルにしがみついたまま訊ねた。
「せ、せせせせぇ、先輩。それは、その美しい腕に、針を刺すということで、ごぜぇましょうですか?」
「針を刺さないと採血できないだろ」
「いぃ、いいぃい、いや、やめましょう! そんな野蛮なこと!」
必死に採血を阻止しようとする神崎に、橋本が下から覗きこむ。その顔に神崎の体がクラリと揺れる。
「上目遣いの美少年。絶景。ご馳走さまです」
神崎の呟きを無視して橋本が小首を傾げる。
「ダメ……か?」
「先輩! わかっててやっているでしょ!」
「そんなことないぞ」
橋本がもう一押しとばかりに顔を近づける。神崎の決心が揺らぎかけたところで、内線が鳴った。
神崎は逃げるように電話に出ると、返事をして切った。
「橋本先輩。書類整理はお預けです」
「検死の依頼か?」
「はい。遺体の情報は私が聞いてきますので、器材の準備をお願いします」
「わかった」
冷静を装ったものの、神崎は後ろ髪引かれる思いで解剖室から出た。今日一日、書類整理をする美少年を鑑賞する予定が……
神崎が呪いをかけんばかりの勢いで、薄暗い廊下を闊歩していく。その先には一人の男が立っていた。
無精髭を生やし、よれたコートを着ている。だが鋭い目付きは、いかにも警察という雰囲気だ。今度、あんパンと牛乳を持たせよう。
神崎に気がついた菅田警部が軽く手を上げた。
「よう」
「またですか」
「そう嫌な顔をするな。仕事だろ?」
神崎が差し出された書類を受けとる。中身はこれから検死をする遺体の情報だ。
「最近、ウチへの依頼が多くないですか?」
「そりゃあ……」
「こんにちは」
二人が話していると、五十代ぐらいの男がやってきた。髪を整髪料でしっかりと撫で付け、パリッとした白衣を着ている。
男は人受けがいい笑顔で菅田に声をかけた。
「菅田警部。女の子と話したいなら、ウチの解剖室にもいますよ」
「そういうわけではない」
「そうですか。ウチへの依頼が少ないので、てっきり……」
そう言いながら横目で神崎を見る。神崎は以前この男、佐古の下で仕事をしていたが、意見が合わず追い出された経緯がある。
そのため神崎は佐古か苦手……と、いうより嫌っていた。砂抜きがされていない貝を噛んでいるようなジャリジャリ感。
神崎が顔も見たくないと、背を向けて書類に目を落とす。
菅田は肩をすくめて説明した。
「あんたのとこは、仕事は早いが、雑で証拠を見落とすからな」
「最初の解剖では、探す範囲が広いですから、見落とすこともありますよ。ですが、二度目の解剖となれば探す範囲は狭いので、証拠を見つけるのも簡単でしょう」
その発言に神崎の眉がピクリと動く。最近、佐古が行った検死結果について、菅田が疑問を感じ、神崎に再検死を依頼することがあった。そこで神崎は佐古が見落としていた証拠を発見している。
本来なら最初の解剖で発見すべきなのだが、自分の実力不足を棚に上げての発言だ。
神崎が文句を言おうとしたが、その前に菅田が話を先に進めた。
「それと解剖の痕が雑だ」
「別に後は焼くだけですから、そこは関係ないでしょう」
「解剖の傷痕が酷すぎると苦情がくる。その対応をするぐらいなら、最初から苦情がこない仕事をする方を選ぶ」
「それなら……」
食い下がる佐古に神崎が言葉を挟む。
「素直に今月の検死数が足りないから、仕事をくれって言ったら、どうですか?」
佐古の顔が赤くなり目に見えて歪む。
「そ、そんなことはない! ま、せいぜい癒着を疑われないようにしてください。警察との癒着を疑われたら、鑑識全体の問題になりますから」
そう言い捨てると、佐古は去っていった。その背中を眺めながら神崎が呟く。
「確かに、鑑識が警察に有利な検死をしている、というのが社会問題になり、こうして独立した組織になりましたから。同じ解剖室に続けて依頼するのは、得策ではありませんね」
「分かった。なら、面倒なのだけ依頼しよう」
「嫌がらせですか? とりあえず、遺体の状況は把握しました。結果は解剖が終わり次第報告します」
「頼む」
薄暗い廊下にふわりと風が吹き、神崎の髪を巻き上げる。赤い唇が綺麗な弧を描く。
「私に見つけられないものは、ありませんから」
神崎は颯爽と解剖室へ戻っていった。
その頃、橋本は……
橋本は器材の準備を早々に終え、解剖室の隣の部屋にいた。事務仕事用のパソコンと並んだ机と椅子。あとは本棚がある小さな部屋だ。
橋本は少しでも書類を整理するため、本棚にあるファイルを取ろうと手を伸ばした。が、まったく届かない。
「くそっ! このっ!」
高い本棚相手に橋本がぴょこぴょことジャンプする。そこに、悪寒が走った。慌てて振り返ると、少しだけ開いているドアがある。
その暗い隙間から、こちらを覗いている神崎の顔があった。背景が暗く、そこに目だけがギラギラ輝いている。
普通なら叫び声を上げるホラーな光景だが、橋本はどこか恥ずかしそうに頬を染めた。
「見てたなら声をかけてくれ」
「す、すみません」
ヨダレを拭きながら神崎が部屋に入る。
「あまりにも橋本先輩の姿が可愛らし……って、違う。検死体が到着しました」
「そうか」
橋本はため息とともに書類整理を諦め、解剖室へと移動した。
術衣に手袋、マスク、フェイスカバーと、完全防備で神崎が遺体の前に立つ。反対側にはダブダブの術衣と手袋、マスクとフェイスカバーをした橋本がいる。高い踏み台を使い、視線を高くしている。
神崎は書類にあった情報を説明した。
「睡眠薬と青酸カリによる、服毒自殺だそうです」
解剖台の上には女性の裸体。頭の右側の髪に血が付いている。
「頭の血は?」
「警察の所見では、睡眠薬で意識が朦朧としている時に歩いて転倒。机の角に頭を打撲、ということです」
「青酸カリは即効性の毒ではないから、飲んだ後で動くことも可能だが……そもそも、なんで、この女性は青酸カリなんて持っていたんだ?」
「脅すのに使っていたそうですよ。彼氏の行動が気に入らないと、死んでやる、とか、一緒に死のう、とか言って、その度に出していたとか。いわゆる、メンヘラですかね?」
「メンヘラ?」
大きな純粋無垢な目が、首を傾げて見つめてくる。中身は四十になるおっさんと分かっていても、この見た目には敵わない。
神崎は自分の発言を悔いた。
「すみません、言葉が悪かったです。忘れてください」
「悪い言葉なのか?」
「今の橋本先輩には似合わない言葉です」
「……そうか」
これ以上追及しても答えはないと判断した橋本が話を変える。
「この姿だと、あまり介助は出来ないから、腹を開くまでの器械出しを中心にする。その後は頭部の処理にまわる」
「わかりました。それでお願いします」
神崎が無言で右手を出す。その手に橋本がメスを置く。神崎は迷いなく頭側から足側へ一直線に腹を切った。じわりと血がにじむが、それ以上の出血はない。
「鉗子」
神崎の指示に、橋本が先端に爪がついた鉗子を手渡す。神崎は切った皮膚を鉗子で摘まむと、持ち手を体の外側へ倒した。鉗子の重さで皮膚が引っ張られ、切った部分が開く。
神崎が手際よくメスで腹膜まで切り開く。そこで、橋本が筋鈎と呼ばれる小さな鍬の先を、切り開いた皮膚に引っかけた。
「開腹器」
橋本が無言で、湾曲した二枚の羽根が付いた器材を渡す。神崎は腹膜と臓器の隙間に、器材の羽根を入れた。腹の中がしっかり見えるようになったところで、ネジを回して羽根を固定する。
「あとは、こっちで勝手にしますので」
「わかった」
橋本がちょこちょこと踏み台から降りる。そして、検死体の頭元に移動すると、準備していた器材を使い、血が付いた髪をバッサリと切り始めた。怪我の周囲の髪が短くなり傷口が現れる。
そこに神崎が声をかけた。
「その怪我の程度だと、致命傷ではないと思うのですが、どうですか?」
「そうだな。傷はさほど深くないし、頭蓋骨の陥没もない。元々、頭部は出血しやすいからな。派手に出血しているが、致命傷ではないようだ」
胃と十二指腸を切り取った神崎が別の机に移動する。そこで胃と十二指腸を解剖して、慎重に内容物を確認していく。だが、そこで神崎は唸った。
その様子に橋本が声をかける。
「どうかしたかい?」
「ないんですよね」
「なにが?」
「目撃者や防犯カメラから、睡眠薬と青酸カリを飲んだおおよその時間と、死後硬直から死亡推定時間は分かっています。ですが、それだと胃か十二指腸の中に、もう少しあってもいいと思うんですよ」
橋本がつま先立ちで、机の上にある胃と十二指腸を覗き見る。
「食残が少ないのかい?」
「それより睡眠薬と青酸カリです。現場に残っていた量から飲んだ量を予測した数量が資料に書いてありました。ですが、それなら胃か十二指腸に、もう少し残っていてもいいのに、まったくないんです」
神崎が腕を組み、悩みながら呟く。
「そもそも青酸カリなんて、胃酸と反応して発生した毒ガスを吸って中毒死するっていう、不確定極まりないものですよね? そんなに、うまく死ねるか……」
「つまり、他に死因がある、と?」
神崎が検死体を睨む。
「橋本先輩。もう一度、器械出しをお願いします。今度は胸を開きます」
「わかった」
二人は最初と同様に向かい合って立った。
神崎が鎖骨の下から腹の上まで一直線に皮膚をメスで切る。やせ形の体型だったため、すぐに胸骨が出てきた。
「ヘラ」
橋本が先の丸いノミのような形をしたヘラを渡す。神崎は胸骨の周囲に付いている肉をはぎ取り、胸骨を露にする。
「電ノコ」
五センチほどの刃が付いた、電動のこぎりを橋本が取り出す。神崎は刃を胸骨の一番下に当てると、銃の引き金を引くようにスイッチを入れた。
刃が上下する低い騒音とともに、骨の肉片が飛び散る。神崎は振動に耐えながら、電動のこぎりを上へと移動させていく。
胸骨を切断し終えたところで、神崎は引き金から指を離した。鼓膜を突き破るような音が消え、解剖室に静寂が落ちる。
神崎は電動のこぎりを橋本に渡すと、開腹器より太い形をした開胸器を胸にセットして広げた。
目の前に現れた肺を見て神崎が目を開く。
「どうした?」
「肺が浮腫ってるんです。まるで水死体のような……」
悩みながら神崎が心臓を持ちあげる。
「橋本先輩、ちょっと心臓をこの位置で持っていてください」
「わかった」
心臓を橋本に渡した神崎は、即座にメスを手に取った。心臓の下にある気管支に少し切れ目を入れ、そこにハサミの刃を入れて切り開いていく。
「……見つけた」
神崎が注射器を手に取り、そこに溜まっていた液体を吸い取る。
「ま、まだか?」
手を全力で伸ばしているため橋本がプルプルしている。その様子を神崎は恍惚な顔で、済まなそうに言った。
「もう少し頑張ってください」
「喜んでないか?」
「苦痛に耐える美少年、ご馳走さまです、なんて思っていませんよ?」
「早くしてくれ!」
神崎が必要な組織を切除する。
「戻してください」
橋本はそっと心臓を戻し、大きく息を吐いた。
「手が痺れた……で、なにがあった?」
「他殺ということが分かりました」
「なに?」
「ただ、もう少し……決定的な証拠がほしいんですよねぇ」
まるで夕食にもう一品ほしいような言い方をしながら、検死体を観察する。そこで思い出したように言った。
「橋本先輩、スコープありますか?」
「あるよ。持ってこようか?」
「お願いします」
橋本が胃カメラを持ってくる。
「ありがとうございます」
神崎が検死体の口からカメラの先を入れていく。そして、気管の入り口、声帯のところで手を止めた。
「見つけた」
それはマスクをしていても分かるほどの美笑だった。
橋本の家で神崎は、机の上にカセットコンロと鍋をセットした。
「近づいたらダメですよ。火傷をしたら大変ですから」
「いや、子ども扱いされても困るんだが」
「いいから、私に任せてください。あ、卵はありますか?」
温めた鍋に牛脂を伸ばす。それから野菜と高級和牛を敷いていく。そして、酒と砂糖と醤油をかける。クツクツと美味しい音とともに腹を刺激する匂いが漂う。
「さあ、食べましょう!」
神崎がお椀に卵を入れる。ぷっくりと盛り上がった濃い色の卵黄。さすが自然農法で有名な高級卵だ。
よく見れば使った調味料も一級品が揃っている。
「橋本先輩って、何気にいい物食べてますよね」
「そうかい? 全部キヌさんに任せているからなぁ」
「任せすぎでしょ」
神崎が卵をかき混ぜる。
「卵を入れるのかい?」
不思議そうに見つめている橋本に神崎が目を丸くする。
「すき焼きと言えば生卵でしょ!」
「そうなのかい? そういえば、生卵は食べたことないな」
「卵かけご飯は!?」
神崎が驚きで身を乗り出す。橋本は逃げ腰になりながら首を横に振った。
「食べたことない」
「なんてもったいない! 今度、食べてみてください!」
「わ、わかった」
「とりあえず、今日はすき焼きを生卵につけて食べてください」
神崎が橋本のお椀に卵を入れると、かき混ぜて渡した。
受け取った橋本が、仕方なく卵に肉をくぐらせる。卵黄の黄色がかった肉が蛍光灯の光で輝く。
橋本は両目を閉じて、パクリと口の中に肉を入れた。
一噛み。二噛み。口を動かすごとに橋本の目が開いていく。肉の甘みに濃厚な卵が絡み合い、味わったことがないハーモニーが次々と生まれてくる。
ここで白米を一口。
肉とは違う米の甘さが絶妙に重なり、肉と卵をより深い味わいにする。
そこから橋本は無言で、すき焼きと白米に食らいついた。
一通り食べて舌と腹が満足した橋本は、神崎に訊ねた。
「で、他殺の証拠はなんだったんだい?」
神崎がすき焼きを食べる手を止めずに解説する。
「あー、そもそも死因は溺死でした」
「溺死? 部屋にいたのに?」
「直接、肺に水を入れられて、溺れたんですよ」
「どういうことだい?」
神崎が箸を持っている手で自分の喉を指差す。
「胃カメラで確認した時、声帯に細かい傷がありました」
「傷?」
「はい。何かを無理やり突っ込んだような傷です」
「つまり喉に管か何かを入れて、肺に水を入れた、と?」
「そうです」
神崎がお茶を飲んで一息つく。
「犯人は、睡眠薬と青酸カリを管を使って、胃に入れようとしました。が、管は気管に入り、そのことに気づかず、肺へ流し込み溺死した」
「ん? それだと、血液内から睡眠薬の成分は検出されないだろ?」
「これは犯人の自供の話ですが。犯人は被害者の彼氏で、一緒に店で飲んでいたそうです。それが、途中から別れるなら死ぬだ、一緒に死のうだ、面倒な話になってきた。で、飲み物に睡眠薬を混ぜ、強制的に眠らせて家に送った。血液内の睡眠薬はこの時のものです。で、家に帰ると被害者が突然暴れだし、勝手に転けて頭部を机の角に頭を打って倒れた、と」
神崎が鍋から肉をとり、お椀の中の生卵に浸す。
「ここで犯人は、このまま確実に死んでほしいと考え、被害者が持っていた睡眠薬と青酸カリを取り出したそうです。で、チューブを無理やり口の中に突っ込み、水と一緒に睡眠薬と青酸カリを漏斗で流し込んだ。なかなかな荒業ですけどね。気管支の中の液体に、溶けかけた睡眠薬と青酸カリの成分がありました」
橋本が納得しながら頷く。
「それで肺が浮腫ってたのか」
「そういうことです。さて、〆のうどんを入れましょう」
「うどん?」
首を傾げる橋本の前に、神崎が準備していたうどんを出す。
「やみつきになりますよ」
すき焼きの肉と野菜が残っている中にうどんを投入する。神崎は一煮たちしたうどんをお椀に入れ、橋本に渡した。
「熱いですから、気をつけてください」
すでに満腹の橋本は少しだけ……と渋々うどんを口に入れた。
「……うまい!」
肉と野菜のうまみたっぷりの汁を吸ったうどんは、噛むごとに味が染みでる。これは、お腹いっぱいでも食べてしまう。
橋本が黙々とうどんを食べる姿を、神崎がよだれを垂らしながら幸せそうに眺める。餌付けをしているようで、これはこれで癖になる。
神崎は人生最高の夜を満喫した。
翌朝。
子どもだけで何かあってはいけないと、無理やり橋本の家に泊まった神崎は早起きをした。
ふわっふわっのパンケーキにナイフを入れる前の気分で、橋本の部屋の前まで来る。
「起こすだけです。決して寝顔や寝ぼけた顔を見たいという、やましい下心があるわけではありません。起こすだけです……ん?」
微かに話し声が聞こえる。神崎はそっと橋本の部屋を覗いた。
「橋本先輩、おはようござ……」
『本日の占い。今日は最悪な人から発表……』
部屋にあるテレビから、本日の占いが流れている。微かに聞こえた声の主はこれだったらしい。
ホッとしながら神崎が視線をずらすと、寝癖がついたおっさんが起きていた。
「お、戻ってる。大きめの服を着ていて正解だった」
「ノォォォぉぉおぉ!!!!!」
『……座のあなた。昨日とは、うって変わって最悪な一日。何をしてもダメ。バッドアイテムは、くたびれたおっさ……』
無情な占いを聞きながら、神崎は真夏の地面に落ちたアイスのように溶けた。