第一話 死に至った先
◇
ぼやけた視界に現れる。
「仁也。ごめんね。遅くなって」
静かに手を添え、俺の頭を撫でる母さん。撫でてもらっている感覚は、一切なかった。
背景は見慣れたリビング。小さい頃だろうか、視線の位置が低い。母さんの腰くらい。
葬式にでも行ったのか。礼服を着ていた。母さんの後ろにある机には、二つの遺影が見えた。日頃から聞く話と一致する、父さんと思しき遺影。記憶にない女性の遺影。女性の顔に関しては、だれかの面影があるように感じた。
遺影を目にしてほんの数秒。また吸い込まれるようにして目を閉じ、視界は暗闇に包まれる。見ていた謎の光景は消え、俺は夢の正体を知ることなかった。
◇
突如、感覚のようなものが脳裏を走る。思考が再開する。
仰向けらしい。
背中や手足が地面を捉えている。だが妙なことに、心地よかった。まるで安息の地。聖地――そう、ベッドみたいだ。触覚は問題ない。
瞼のわずかな重みも感じ、俺はそっと目を開ける。広がっていく視界には、キャンパスのような真っ新な世界が見えてくる。
どういうわけかと問おうにも、わけがわからない。
物語によくある、精神世界といった類いの場所なのか。あまりにも寂しい空間だ。きっと俺は、生きていない。
精神世界はともかく、死後の世界なら可能性はありそうだ。っていうのは、現実逃避にしかならないか。
あんなに叫んで血を吐いて。実に親不孝な子供だ、俺は。
確かな手足の感覚を噛み締め、起き上がって周囲を見渡す。進展の期待できない無音の世界。方向感覚や空間認識は意味を成していない。
「ホントッ、わけが――」
と言いかけた途端、重圧が頭上からのしかかる。俺の行動に対応したような状況変化。
抵抗力を緩めず踏ん張るが、逆らう態勢を続けるほど、重力は想像以上に増していく。まるで這いつくばれと、押さえ付けられているようだ。
そう感じるや否や、前触れもなく重荷が取れたように、重力を感じなくなった。
それに引き換え、突風が足下から吹き荒れて、前髪が逆立った。
「なんか、落ちてるみたいな……――って、本当に落ちてるんじゃ……!」
虫の知らせが、俺の頭に浮かび上がった瞬間。
目下に不透明で平坦な地面が、突然現れた。空中で対応できるはずもなく、着地と同時に衝撃音が辺り一帯に響き渡った。
足裏を伝い、全身に電撃が走ったような痺れ。結局、俺は落ちていたらしい。
「――あれ、でも痛みはない」
今さらながら、驚いてしまった。
理解する時間があるほどの落下距離なら、無事では済まされない重傷。あるいは死だ。
そもそも生死がわからない状態。ただ、感覚があることに説明がつかない。異常な違和感や痛みがないはなく、痛覚は働いていないということも。
どのみち、わけわからん世界にいることで、現実的ではないことは確か。
「ん、てか服……」
それに関連するのか。腹にふと視線が行くと、出血で滲んだはずの制服は染み一つない。
時間が戻ったのかと思ってしまう。
「あれ、なんか声がする……」
不意に声が聞こえた。
途切れることなく、頭上から叫んで聞こえる。聴覚を頼りに見上げた。
「――って、だれか落ちてきてるッ?!」
人が当たり前のように、こちらへ落下していた。
事に対しての衝撃で腰が抜け、その場で訪れるであろう一瞬を、ただ待つ。
――絶叫して、
「「うわああああぁぁぁぁ!!」」
衝突。
地響きのような衝撃音を轟かせ、顔面から直撃。
俺は思わず目をつぶり、暗闇の中で落下した人を、クッションのように受け止めたのはわかった。反射的に数回転その場を転がり、ようやく止まったときには、仰向けになっていた。腹に重量を感じる。
変わらず痛みもなく、とりあえずハッと目を開け、状況を確認する。
「うーん……」
「あれ?」
そこには、生きていてほしかった優花がいた。
体の上で交差し、重なった状態だった。どうやら優花の体重だったらしい。失礼シツレイ。すみません。い、息苦しいほど重たいわけじゃないんで。
喋ってはいないが、それでも謝罪する。その後すぐに離れようと、試みて数ミリ移動するも、まだ起きない。さっき叫んでいたから、寝ているわけじゃない。気絶なのだろうか。
俺は頭を悩ませたが、ひとまずは優花の体の状態が気になって確認する。俺と同じように怪我は見当たらない。
「……あれ、私……」
目を擦りながら起き上がり、片目で俺へ視線を向けると、手が止まった。
徐々に腕を下げ、開いた口が塞がらずにいる。一応、確認。
「優花でしょ?」
「……うん」
「仁也――なの?」
「うん、もちろん」
「「…………」」
間が空く。
「ええええぇぇぇぇ!!」
この世の珍事に遭遇した。そんな叫び声を上げる。でも、実際そうだ。
本来の俺なら、叫んで混乱するんだろうと思う。
優花の姿を見て安心した、と思いたい。今いる場所に対する恐怖や不安は増している。
生死もわからない中で、この再会を喜ぶべきなのか。とりあえず、苦笑いすることしかできなかった。
「な、なんでこんなところにいるの!?」
「俺だって、今さっき知ったばかりで。生きてるのか死んでるのかもわからない」
ホント、わけがわからない。いや、一つ理解できることがあるならば、さっきの摩訶不思議な魅惑の聖地だ。うん、間違いない。
「それに、ここはどこ?」
「知らない」
「本当に知らないの?」
「知らん」
「なんで仁也も、そんな元気なの? 怪我は?」
「それも知らない。てか俺が知らないから、わざと聞いてる?」
「てへっ」
「わざとらしいわ!」
たまに俺をいじってきたり、わざとボケたり。普段通り。
「なんかこの世界、豆腐に囲まれてるみたいだね」
あと個性的な発言も。
「フフッ、よかった。元気そうで」
「そう言う優花も、問題なさそうでよかったよ」
お互い、正確なことはわからない。ただ、こうやって話せるうちは、元気なんだと思っておく。
「ありがと。ま、それはさておき……空星のことだけど、いい?」
「……うん、いいよ」
少しばかり返答を悩んだが、ここで断ったらと思うと承諾した。
自分の非を詳しく確かめるために。
「じゃあ私から、知ってること話すね」
「わかった。無理せずに」
俺の言葉に頷いた優花は、俺と通学路で行き合ったときから殺される直前まで。経緯を淡々と話していく。
優花はあの日の通学路。特におかしな様子もなかった空星から、約束の時間と場所を聞いたらしい。
文化祭の午前中は女友達といたらしく、学校中を歩き回っていたそうだ。
ただ、後をつけてくるヤツが二人。一人は全く知らないヤツらしい。
第一印象や服装の特徴を聞けば、一目瞭然のように心当たりがあった。
朝のニュースで話題を掻っ攫った、高速の殺人犯と一致する。最後に見た背後は、あっという間に消えていくようだったのを覚えてる。身体能力が常軌を逸している点も納得だ。
つまり、俺たちを殺害したヤツは相当な手練れ。判別できなかった生死の云々――どちらかといえば死か。
ただえさえ俺は、安静にしていなかったし、優花が意識を失うのが早かった。
ていうか、目覚めたなら普通は病室のはず。最初から答えは出ていた。
無駄な時間を割いたことに、思わずため息をつきたくなるが、理解するための過程だと思って二人目の話に移る。
正体はまあ、散々殴り飛ばしてくれた空星だと言う。ここは予想通りというか、容易に想像できる。
優花曰く、空星は午後から仕事のため、午前中は空き時間があったらしい。午後の仕事は二時から。
「校内を自由に動けたってことか……」
二人の接点が気になるけど、これで一つ仮説が立てられた。
空星が放った『殺されちまえ』っていう言葉は、あの殺人犯に「任せた」と言っているような合図に今は思える。
じゃなきゃ、空星が去ったあとに俺たちが殺されるなんてこと、起こるはずがない。共犯じゃないとできないことだ。
ただ、それは俺たちの情報による推測。証言だけど、一概に断言できない。未熟者の妄想に終わるかもしれないし。どのみち、落ち込みたくなるし辛い。
「はぁ……、あんなヤツと一緒にいるんじゃなかった……。もう取り返しがつかない……」
複雑に感情が芽生える。憎いし、怒りたいし、泣きたいし、怖いし、最もは申し訳が立たないことだ。
一番の被害者は優花だから。
「仁也のせいじゃないよ。気にしなくていい」
「それは違う。俺と一緒にいたせいで、こうなったんだ」
俺の負の感情を聞こうが、優花は目を閉じながら顔をゆっくりと横に振った。
「一緒……だったじゃん?」
「え……?」
「一緒でよかったじゃん。今こうやって、二人でいる。それだけで心強いんだよ。私は仁也がいてくれてよかったと思ってる。今この場じゃなくても、学校にいるときだって思った。仁也ってね、すごいんだよ。私は仁也の優しさを見習ってやってきたんだから」
優花も死という体験を経て、恐怖だったはずだ。辛かったはずだ。なのに気遣ってくれている。
いや、正確には違うのかもしれない。気遣うようなことをさせている、が正しいのか。
必ずしも、心に余裕があるってことはないはずだ。きっと抑えてる。今はただ、自分たちの行方がわからない以上、不安に駆られる。やめだ。情けない。
こうなった以上は心を入れ替えよう。なにがどうなるのか、わからなくても。
いつだって先の話はそうだから。
「……ありがとう。安心した、さすが励まし上手」
「ん? 褒めても私からなにも出ないよ?」
と、にやけ顔で言われる。
「わかってるよ。でもホント、俺は優花に感謝しかない」
「え……? いや、感謝されることはっ、別に。そう面と向かって言われると……」
顔を赤らめたまま黙ってしまった。俺も恥ずかしくないことはないが、自然と口に出るほど間違いなく事実だし本音だ。
普通なら混乱してもおかしくないけど、優花の言う通り。
傍にいてくれる人がいるから、どこか安心しているのかもしれない。少し、気楽でいられるのかもしれない。
でも本当は、生きていてほしかった気持ちがある。
この場に限っては、二人でいることが絶対いいわけじゃない。
夢でしかないけど、生き返られたらいいのに。
「まあ、優花の言う通り。気にしないことにするよ」
「う、うん。そ、そうしたほうが、いいよ。私も気にしない、し……」
「大丈夫か?」
「うん……まあ」
まだ恥ずかしさを引きずっているのか。口調に表れて落ち着きがない。だけど楽しくて、心温まる。
でもやっぱり空星とは――いや、駄目だ。もうこれは、おしまいだ。
また後ろ向きになりかけていた自分に、歯止めを掛ける。
そんな中、突然コツッと高らかな音が、一定の間隔で繰り返し鳴り響く。
「なんだ?」
「え……?」
徐々に近付いてくるのがわかる。度々大きくなっている。迫り来る音は心臓の鼓動を速くさせ、緊迫とした状況に染まった。
さらに、濃い霧まで発生する。この空間内とわずかなコントラストを生み、囲むように停滞しているのが、辛うじてわかる。
袋の中の鼠、そんな気分だ。そもそも見ず知らずの世界に、逃げ場を求めるほうがおかしい。
優花と互いに背中を預け、正面から左右の百八十度を警戒。圧迫されるような恐怖を覚える。
どこか靴音にも聞こえる高らかな音も相まって、恐怖は増幅し、助長させる薄黒い人影が見える。
「だれだ!」
恐怖よりも警戒が勝った俺は、勢い余って口に出してしまった。求めていた返事はない。
競り負けた恐怖心も浮上してきた。返事をされないとはどういうことか。なにを意味するのか。張り詰めた空気が漂う。
逃げるなんて選択肢は早々に消えた。足がすくんで動けない。
「じ、仁也。大丈夫かな?」
「わ、わかんない……」
目紛るしい変化に対応するのが、やっとの思い。
さらに視界を妨げていた霧が、嘘のように晴れて一変。視界の自由が得られたのも束の間。
「え……?」
得ても解放はされなかった。
俺の正面。優花もこちらに振り返る。
間違いなかった。
「だ、だれ……?」
「女の子だ………」
俺たちの間に動揺が広がった。