プロローグ(後編)
噂だ。間違いない。周囲は基本、他人に無頓着だ。
仮定でしかないけど、もしかしたら――。
「お前は俺に纏わり付く虫なんだよ。それなのに今日も……ほっんと、懲りないよなぁ。腹立たしいにもほどがある!」
俺は縛られるような感覚に襲われる。さっきの震えがさらに大きくなり、口が動かない。なにか言えば反撃を食らう。
「そもそもさぁ。俺は優花と付き合えれば、それで良かったんだよ。道具であり脇役。端からお前のことなんて、どうでもよかったんだけどさ。お前がすぐ絡んでくるから。これがまた腹立つんだわ」
「な、なんだよ。それ…」
狼狽えるしかなかった。別に脇役か主役かなんてどうでもいい。
俺は友達だと思っていた。道具なんかじゃなく、ましてや親友と思っていた。
だけど――本人は違ったみたいだ。俺はただの道具。空星は、人前でのみ。友達を演じていた。空星との関係は、最悪な言葉の元で結ばれたものだった。
気付かなかった。それ以前に、疑いもしなかった。当然だ。
俺は自分の過去という道を振り返り、自分を疑う。小、中――
「おえっ……!」
嫌な記憶がちらつき、途端に目から涙が溢れるように出てきた。急な吐き気も加わる。
記憶喪失のように、久しく忘れていた。最近のような噂と同じ、あるいは――それ以上の仕打ちを受けた過去。
たとえ生活が安定しようがなかろうが、それは関係のない話。抱えていた問題。
人から避けられ、怖がられ、嫌われ、罵られ、蔑まれるという――地獄を。
因果は巡るのだろうか。
原因は違えど、言葉に起こせば地獄と変わりはない。
友達、親友という言葉は、噂を知っていたからこそ。余計に脆くなり、容易く破壊された。
心をえぐられているような、激しい精神的な痛み。思い出した。
動悸がする。めまいがする。涙がこぼれる。怖い、嫌だ、逃げたい、忘れていたい。
でも空星はきっと――、逃がしてはくれない。
「おトモダチの前で泣いて、惨めだな」
俺は両膝を地面に突き、死人のように頭を垂らした。恐怖で腕が上がらない。足に力が入らない、顔を上げられない。
本当は涙が浮かぶ目を、手で必死に隠したかった。自分の弱々しい姿は隠したかった。
またしても恐怖はちらつく。
泣けば、なにか言われる。
罵られる。
「おい。いつまで泣いてんの?」
「え……?」
思わず顔を上げたら、飛んできた。
流星のように、斜め上から飛来する拳。発端として胸ぐらを掴まれ、繰り返し俺を殴りつけた。
頬や目、腹部。時には片腕を集中的に痛めつけられ、地面に叩きつけられては踏みにじる。
起こされた後の手段は度々の拳や蹴り、追加で周囲にある木もだった。頭を鷲掴みにされ、木の幹
に後頭部を叩きつけられる。陰湿で卑しい思考に任せた暴力の数々。
振るわれるたび、意識が点滅する街灯のように、飛んでは戻ってを繰り返す。
最初は激痛を走らせ目立った鈍痛だったが、数を重ねていくうち――ただ耐え凌ぐことだけが念頭にあった。
「おいおい。殴られるだけか? 反撃しないのか?」
「うる、さい。お前、その調子だと優花にも……手を出すつもりだろ?」
「察しいい。当たり前だ。それ以外になにがある? アレもまた、おかしい。部活も入らず、これといった努力もしないような引っ付き虫を、あいつはなんで相手するんだか! お前にいられると、自堕落が感染するんだよ」
息を吐くように、暴行は止まらなかった。
殴られるたびに鈍い音がして、ひと段落すれば口元に血が滴り落ちる感覚があった。
地面にはすでに、点々と血で染まっている。
「俺はなあ……優花のこと好きだったけど、優花の行動見て勘づいたわ。どうせこうなんだろうと思ったよ。お前のせいなんだ! だから、お前も優花も殺す。お前らに俺の気持ちが分かるわけねえだろ。長年の思いを踏みにじったお前らに!」
暴力。殺人実行を宣言するほどの豹変ぶり。そもそも、あの場にいることの意味がまるで理解できない。
その違和感で気付くべきだった。本当に理不尽だ。
臆していつまでも告白せずにいたのは、どこのどいつだっての。
「オラ、オラ、オラ、オラッ! 早く泣き喚けよ。早く笑わせてくれよ。毎回のように話題の材料をくれよ。なあ、みんな面白いだってよ。いじめたくなるだってよ! みんなと違う行動を取るお前の姿ぁ! 可哀想だなぁ、人と違うことがさぁ!」
続けざまに殴られる。
「一体だれが、こうしたんだろうなッ!」
今日は楽しい日だと思ってた。
「だれがやったんだろうなッ!」
普段を少しでも忘れられると思ってた。
「消えろ! 消えろ! お前なんて目障りでしかない!」
早くここから離れたい。
でも、暴力によって蓄積した怪我のせいで、一歩踏み出すことすら叶わない。思うように行動できない。
悲観して捉えることしかできなかった。
やがて忍耐の限界を迎えた俺は、意識を手放そうとした瞬間、表の光差すほうの人だかりに気付いた。
「おい鬼島、青原になにをしている!」
突如として聞こえた怒鳴り声は、どこか聞き慣れた声で、俺は一安心できる大人の姿を視界に入れた。
男で見覚えのある身長に体格、佇まい。髪を下ろしただけの自然なヘアスタイルで、堂々とした姿は俺のクラス担任。祀崎塔次郎先生。隣には優花の姿もあった。
それはまさしく、救いだ。
「先生? どうしたんすか? 別になにもしてませんけど」
「嘘を言うな! 青原が血だらけじゃないか! それに、このことは辻島から聞いている!」
「チッ。おい仁也!」
「鬼島来い!」
先生はとっさに空星を捕らえ、連行しようと必死に引っ張る。抵抗する空星は凄まじい剣幕で、俺と優花に視線を行き来させた。
「仁也、優花。俺は、お前らに腹立ってしょうがなかったんだよ! 特に仁也! お前には死んでほしいくらい目障りだったんだよ! 必ず、殺害を達成してみせる! 殺されちまえ!」
狂気に満ちた最後の足掻き。
もう自分がなに言っているのか、正常な判断もつかないらしい。変わり果てた空星の姿は、偽りだと思いたい。少なくとも、相手の気持ちに気付けなかった俺にも非はある。空星が憎いとは思わなかった。
「……友達って、なんだよ……」
叫び終えた空星は先生に抵抗することなく、連れて行かれた。
その途端――第一にホッとした。これに尽きる。
肩から重りが取れたようだった。
「仁也!」
空星の連行を確認した優花が、若干俯いて心配そうに見つめながらやってきた。
「なんだ。優花か」
「もう、なにその反応。それよりも怪我は大丈夫――な、わけないよね……。痛かったはずだし」
「まあ、めちゃくちゃ殴られた」
「そうだよね、とにかく保健室に行こ?」
「うん。でも、俺は一人で歩けるから。心配しないで」
優花は何度かこちらを振り返りながら、先頭になって歩く。この場から背を向けて立ち去るが、未だに俺の心は複雑だった。
そんな体育館裏の暗闇から、日差しが照りつける表へ出た瞬間。普段感じたことのない異物を感じた。痛みを感じた。細長いものを感じた。違和感がする、腹に。
俺はその違和感を確かめるため、着ていた制服を脱がぬまま視線を落とした。
「え……――」
唖然。まだ理解が追いつかない。
太陽光を反射する鋭いナイフのような刃先が、腹から出ている。
赤一色の液体がブレザーと同化するように染まり、腹全体を覆うほどの染色面積になって拡大を続ける。
ワイシャツの生地を覗けば、血の染料に濃く塗り変えられている。その染まり方は多量の出血を示す以外ない。
事態は収まることを知らず、胃の辺りからも違和感を覚えれば、猛烈な勢いで内部から上昇。食道を通過。
感覚的に液体が逆流していることがわかる。止まる気配は一ミリもなく、瞬く間に口内へ到着する。
俺は吐き出すまいと思い、頬を膨らませてから口元を両手で押さえ付け、どうにか塞いだ。
必死になって逆流の足止めをするが、俺の対抗手段に勝る勢いで、液体を口内から吐き出してしまった。
「う、うぇっ……!」
吐き出した感覚。多量の鮮血が掌を紅く染める。
「……血?」
「キャアァァァ!」
付近にいた一人の女性が、俺の吐血に叫んだ。
そんな中、背後から気配を感じる。
多量の出血のせいか、血を見たショックか。うまく体を動かせず、機械的な動きで振り返ると――恐怖が待っていた。
「ニヒヒ……」
「え…?」
人がいる。黒一色、恐怖が纏わり付いたようなフード付きのローブを着た、怪しい人物が立っていた。
目元は見えない。でも吊り上がった口元のせいで、三日月の目と不敵な笑みが頭に浮かぶ。
俺は確かに起きた現実を理解し、死を覚えた瞬間――急に意識は薄れた。視界に風景の残像だけが入る。
気付けばうつ伏せで倒れている状態になっていた。
思わず優花を探す。
「仁也! 嫌ぁ!」
「ゆ、う…かぁ」
希望は、ある。
優花は先頭を歩いていた。コイツが俺にだけ気を取られていればいい。人だかりの一部になっていれば、それでいい。
殺人犯が俺以外のだれかを、優花を襲わないでほしい。そう願うばかりだった。
だけど、現実は叶えてくれなかった。
重たい視線を動かす頃には、殺人犯が鋭い刃物を手に、だれかの至近距離に足を着いていた。
姿が重なって犯人の背後しか見えないが、トレードマークのポニーテールが唯一、風に揺れて見えていた。
募る危機感。
「にげろおおおぉぉぉ!」
「……っ!」
俺は腹部を刺されているに拘らず、大声で躊躇なく叫んだ。
「ニヒヒ………」
殺人犯はまた不敵に笑い、軽やかな動きでこの場から立ち去ろうと、戻って塀に乗った。
その途端、陰になったような同じ格好のもう一人が、体育館裏からこちらに現れた。
「最高です。死に、祝いの花束を」
と、言い残して二人が敷地外へと逃げていく。
怒りに任せる余力もなかった。ただ、絶望に浸るだけだった。
そして優花は――と思って探し、腹から血を流して倒れているのを見つけた。
薄れていく意識のせいで視界は狭く、顔しか見れなかった。
目を閉じ、仮眠を取っているようにしか見えない。思えない。
アイツらが、どういう了見かは知らない。感情の渦が、怒髪天を衝くような勢いで湧き上がる。
「なんで、なんで優花、まで…」
現状を受け止める俺の器は溢れ、決壊する。
大粒の涙を流しながら激痛を堪え、ほふく前進。
どうしても、優花の側に行きたかった。俺は、優花が死ぬことが一番怖かった。どうにかして生きてほしかった。
なんの力もない俺だけど、優花が逃げるまで痛みに耐え、刺されたまま動けないよう足止めすれば、俺だけで済んだ。自分の命になんて、拘らなければ。
どうせ刺された時点で、俺は死ぬようなもの。覚悟というよりか、環境のせいか。覚悟より諦めがあった。
でも、せめて――優花の元へ行きたい。
這いつくばってひたすらに。優花が助かってほしいとだけしか、頭にない。
「くっ……そ……――」
虚しい。
優花の近くにすら行けなかった。優花の顔は、まだ遠くにある。
「ゆ……う、か。ごめん。俺、なんかの……せい……で」
決めつけ。友達と勝手に思っていた。俺は仲良く話してくれる友達が欲しかった。
ダメ人間で、自分が憎くて、殺したヤツも憎い。
腹立たしくて……。
苦しくて……。
痛くて……。
優花が……。
あまりにも無力な自分に、嫌気が差す。そんな自分に、思わず叫びたくなった。
「……っ…うああああぁぁぁぁ――ッ」
元々、死にたくなるほどの思いをしてきた。
でもやっぱり、人なんだ。生き物なんだって思う。
母さんの顔が浮かぶ。今まで見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わったすべてが――なにも残らない。
とっさに死にたくないって思う。
でもきっと、どんな死に方をしようと――最期はそう思うんだろう。
「青原くん、青原くん、聞こえますか? 私の声、聞こえますか?」
体を揺さぶり、声を掛け続ける男。なんか聞いたことがある。あぁ、でもわからない。
救助隊員なのか、だれなのか、わからない。モザイクのように焦点が合わず、ぼんやりとしている。
「お名前――」
言葉……――。
「いえますか?」
声……――。
音……――。
「ごめ、ん…とうさん、かあさん――おや、ふこ……うで」
暗闇。