第七話 ゴブリン
優花の言う通り。ノイズ音みたいな声に聞こえて、耳の奥が痛くなる。鼓膜が悲鳴を上げているのがわかる。
しかも、一度だけではなく頻繁にだ。
足音っぽい音も、段々聞こえてくる。
そしてなにより、相変わらず違和感が消えない。
二つ目の声には、ノイズ音を比喩表現にできない。明らかに感情が表れた、「声」そのものだった。
「なんかわかる? この気味悪い声」
「私に訊かれても……わからない。でも、もう一つの声は……」
「やっぱ人、っぽいよな」
「となると……もしかして、ノイズ音の正体って魔獣か、魔物のどっちかじゃない?」
「あぁ、なるほど。そうか……」
神界での成果を早速、大いに活かすことができる。
確か、魔獣は動物としての本能、魔物は潜在的な特有の本能が、基盤となって行動している。
種によって世界全体の均衡を保守、もしくは崩壊させる目的も持っている。
それが主な行動原理であり、それもまた魔獣・魔物としての本能。
魔獣は、獣や爬虫類などの魔力を扱える動物型。魔物は人型系や無形系など、魔力を持った人型、あるいは霊的ななにか。この世界にとって重要な存在だけど、駆除する存在。
時に人間を襲うこともある。この国では出没頻度が高い。だから警戒していたつもりだった。もし本当に魔獣・魔物なら、抜かったとしか言えない。
「仁也、地響き。近いよ!」
「俺が……戦えるかもわからないけど」
俺は早急に収納魔法を発動させ、収納空間から瑠璃色の神剣エルステランを取り出し、鞘を腰回りの金具に嵌め込んで固定。
さらに、持っていた水筒をリュックに戻し、収納空間に仕舞って魔法を終了。
最後に身の回り含め、入念に確認したところで、準備は完了。
『ガアアァァァ!』
繰り返すごとに声量が増し、さっきまで小さい足音も、十分な音量になっている。距離が縮まっているのは確実で、気配を肌で感じる。
周囲はノイズじみた絶叫と、地響きによって支配され、常に鼓膜が曝され続ける。俺は不快感と恐怖を、放ってはおけなかった。
それでもなんとか堪えながら、剣を構え直す。準備が順調なようで、手元は震えっぱなし。逃げたい気持ちもないわけじゃない。でも、どうしても、人が襲われているんじゃないか。そう思えてならなかった。どのみち、向かってくる時点で無視できない。
「仁也……ゴブリン」
思考を巡らせている中、雑音の元凶が森を突っ切って現れた。
魔物の部類に入る《ゴブリン》。
その集団が血眼になって、なにかを追跡するようにやってくる。
「しかも数がちょっと多い」
複数かつ連続的な足音の、小型ゴブリン。一歩一歩が巨大な足音で、地響きを発生させ、その大きさを物語る長身の大型ゴブリン。数はざっと五十。
集団の先頭が、俺たち二人を視界に捉えると、追跡をやめて足を止めた。
俺は恐怖と緊張を持って面と向かう。俺の意識はただ正面のみ。いざ始まろうとしている戦闘を前に、精神を擦り切らした。
そんな俺は、周りが見えていなかったらしく。人が一人横から駆け込んでくるのを、優花が真っ先に気付いて、俺に知らせてくれた。
「た、助けて下さい!」
優花の元へ飛び込んで、服にしがみつく。
鮮やかな桃色という現実味のない髪。ロングヘアが特徴的で、一瞬だけ見えた顔立ちは、美しいが的確な整い具合。緊急事態で顔を見る余裕はないが、明らかに美少女というワードを、いち早く思い浮かべる顔だったのは間違いない。あと同世代か、近いくらいの外見年齢。
女の子はゴブリンの集団から逃げてたみたいだけど、目立った傷がない。十分に距離があったか、攻撃されても退けていた。そう考えられる。
そのうえ、息遣いはさほど荒くない。極端に怯えるような様子もなく、緊迫した状況に慣れているようだった。
恐らく戦闘経験者。対人や対魔獣・魔物も未経験な俺が、偉そうな口で言えたことじゃないけど、そんな人が苦戦する相手でもない気がする。
ていうか、こういう考え方が染みついたのも、神界の魔法書のおかげかもしれない。
魔法関連の書物は、異世界の戦闘に何度も触れる内容だった。
「仁也。ごめん、任せるよ」
「任された!」
端的に会話を済ませ、優花は一目散に美少女と後方へ下がった。
眷属化の際に、戦闘補助の能力も追加され、反動で体全体が筋肉痛になっている。潜在能力の影響だ。
筋肉痛はゆっくりと動かすなら問題はないけど、激しい運動はやめたほうがいいと思う。どんなことでも、無理して後々響くことはありがち。今は痛みを堪えて戦うより、安静にしてもらったほうが安心だ。
というか、そもそも激痛で戦闘どころじゃないはず。
この休憩前に知った話ってのが救いだ。
すでに最悪の事態を想定して、行動順序を打ち合わせしていた。おかげで遭遇後から苦労はしていない。
『ギャアアァァ――ガアアァァ――』
松の葉のような、深く渋みのある緑の肌や尖った耳、そぐわない大目玉と鋭い歯。大小の醜い顔が、それぞれ胴に乗っかっている。
体格は人間のように個体差がある。痩せこけて弱々しい頭でっかちな個体、筋肉質で頭の小さい個体、中肉中背の個体もいる。
大半は錆びついた鎧を纏い、一部のものは虫食い状態。擦り切れた服のようだった。軋む音と金属の擦れる音が、恐怖をひしひしと感じさせる。
手に持った剣はなまくら。盾は頼りないと思わせるほど、夥しく穴が開いている。
さらに言えば、俺たちは運がついてない。
「最悪だ……」
魔獣・魔物の知識を、洗いざらい引き出す――。
魔力を扱える魔獣・魔物は常に魔力に曝され、その影響で体の中の組織が進化。
環境や生態などで驚異的な力《属性》が生まれた。俺たちの剣にもある属性と、同一のもの。だけど、無属性は存在しない。
しかも特異能力に似て、属性に合わせた《属性攻撃》を魔獣・魔物は行える。
今、俺が焦点を当てるべき一つは、通常と異常を分類する属性。
大体の魔獣・魔物には《通常属性》があって、同じ種族でもその土地ごとに変異。それが《異常属性》になる。
さらに、魔獣の中にも人間が稀・災害とする存在。総称して《特殊》が存在する。これが今の状況を、深刻にした。
現在で確認された種類は、《武装》と《混合》。
どちらも珍しいうえ、強い。行動の予測がつかない。
俺はゴブリンの様子を見張りつつ、脳内の箇条的な知識を巡り、改めてゴブリンたちを見る。
『ガアアァァァァ!』
『ギャガアアァァ!』
ゴブリンの特徴。肌の松葉色は木属性を表す。属性は通常。でも鎧に加えて、剣と盾を持つ完全武装。明らかに《武装》だ。
「……パンテラ。なんで、こんなところに……」
◇
山林を展望できる高台。廃墟と化して半壊状態の木造家屋が一戸。
仄暗い建物内は、所々で腐敗している。家具は散乱し、生活の痕跡が残っている。
床板を穿つ生命力で、床下から生えた青紫色の植物。壁を伝って天井、屋根へと伸び、広域を支配する。
天井に開いた複数の破損箇所から、僅かな光芒が差し込んでいる。
階段を上がったニ階の寝室と思しき部屋に、外套を着用して、付属の頭巾を脱いだ二人が潜伏していた。
「弟よ。便利な魔法を習得したものだな。まさか、内装や家具に至るまで再現できるとは。しかし、使うときが限られるかもしれんが」
「そうだね、兄さん。でも、もしかしたら他で使う機会があるかもしれないよ?」
「うむッ。だといいな。で、肝心なゴブリンの様子は?」
「うーん、いい調子だよ。ちゃんと働いてくれてる」
脚にカビを生やし、黒ずんだ木製の椅子に座る、賢顔の小柄な少年。小さな机に頬杖を突き、水晶玉に酷似した透明な球体を持ち、彼は暇を持て余すように眺めている。
隣では、筋肉隆々の巨体を持つ強顔の青年が、拳撃や蹴撃を断続的に空気に放ち続ける。
空間を揺動させる衝撃だが、廃墟は一切動じず、少年は恍惚な表情を浮かべていた。
「あー、生で見たかったなぁ。戦闘」
細々とした光芒が、少年の持つ球体に差し込む。内部は海面下の煌めきを放つつ、少年少女三人とゴブリンの姿が投映されている。
「そうか。魔物だが、勤勉に働いてくれることは素晴らしいッ」
「ていうか、そういうふうにさせてるんだけどね。さて。ゴブリンたちが予定通り接触したから、僕たちはこれで任務完了だ。長いことやってきたけど、ようやくだ。準備を重ねた歯車が噛み合い、稼働する。《序章》という名の舞台に立てる!」
「うむうむ、胸が弾む。回収班に報せるとするか!」
「うん。多分、僕たちが彼らと交える機会があるのは内戦以降だろうね。ま、そのときまで世間に身を置ける自由があればだけど」
少年は鼻で笑い、一蹴する。
「俺は、組織単位であれば敗戦を望む! しかしながらだ。彼がもし抗い、もがいてでも勝利を奪ったのなら、私情を挟んで彼らと戦いたい!」
「さあね。僕は正直どっちでもいいかも。でも、現状を考えるなら……敗戦かな。組織としても、それを望む。てか、そもそも応援を必要としてる少女を助けるかは、眷属次第か。潜伏班は人格者だとか報告してたけど。果たして釣られるかな。不確実なきっかけなんて、計画が根底から崩れるってのに。首領様は勝負師ってことか? それとも、なにか――」
「弟よ……!」
青年の一言が、弟と呼ばれる少年の思考と言動を遮った。
「なんだよ、兄さん」
「時間だ。この場においても、首領様への詮索は容認できない。たとえ、お前の兄とはいえど」
沈静で威圧のある声調。眼差しは鋭利になる。
「ちぇ、わかってるよ……――兄さんはなにか知らないの?」
「俺も同じ立場、知るはずがない」
弟は眉根を顰め、上目で吐息を漏らし、快活な足音を二度鳴らす。
足下で魔法陣が展開され、淡灰色の光源となる。兄弟が魔法陣に収まると、垂直状に光が放射。
「……神の眷属アオハラジンヤ。戦えるといいね、レアス」
小言を呟き、その刹那に姿は消失。
抜け殻となった家屋は、轟音響かせ全壊した。