第十三話 それを人は本能と呼ぶ
狭く薄暗い路地で、テオと男の氷の魔法がぶつかり合う。
氷と冷気が辺りを満たす中、少しずつ過去の記憶が蘇り始める。
テオはアーデン伯爵領の貴族の血を引く両親の間に生まれ、アーデンのために生きるよう育てられた。
そこに自由も選択もない。些細な失敗も許されず、与えられた仕事をこなした時だけ、両親は褒めてくれた。
だからテオは両親から褒められたくて、彼らから言われた通りに振舞った。そうしている内に、自分の感情も、両親や周りの期待に合わせるようになり、いつしか顔からは表情が消えた。
まるで人形のようだと揶揄されたのは、果たしていつからだったろうか。気が付いた頃には、テオは自分で何かを選ぶことも、望むこともしないようになっていた。
けれどレイヴン伯爵家に来て、記憶こそなかったものの、自分が変わり始めたことにテオは気が付いた。
最初は戸惑う気持ちの方が大きかった。けれども、それは決して不快ではなかったのだ。
(ああ、私は――楽しかったんだ)
記憶を取り戻した今なら分かる。
テオは生まれて初めて『楽しい』という感情が、自分の中に芽生えたのだ。
(アレンジーナが言っていた言葉も、アナスタシア様やシズの言葉も、メレディスやヴァレリー様の言葉も――ヴィットーレの言葉も今なら分かる)
テオはぐっと奥歯を噛みしめる。
(自分で選択すること。私はそれを、ずっと放棄してきた。私は本当に――アーデンの人形だった)
目尻から零れた涙の粒が、冷気の風で凍り、宙を飛ぶ。
(忘れたままでいたかった……!)
これまで過ちを犯し続けてきた自分が、こんなことを言う資格なんてないことは分かっている。
けれど、そう思ってしまうくらいに、彼女たちと過ごした短い時間は、テオにとっては幸福だったのだ。
優しい日々だった。あんなにも穏やかな時間を過ごしたことなんて、テオにはなかった。
「お前まで裏切るのか!? 一番忠実だったお前まで!」
男は昂った感情のまま、そう怒鳴ってくる。
彼の怒りは魔力に乗って、本来以上の鋭さを持つ無数の氷の刃を作り出す。
その氷の刃は、テオとジェーンの頭上で、円を描くように浮かび上がった。
「て、テオ兄ちゃん……!」
「大丈夫です」
背中越しに聞こえる、ジェーンの震える声にテオは力強く返す。
自分が庇えば、この子供一人くらいは、何とか守れるだろう。
そう思った時、
「俺たちはお前のせいで……お前のようになれと言われてばかりなのに!」
男の恨みのこもった叫びが、テオの耳を貫いた。
(分かっている。分かっているんだ、それは。それだけが自分の、人形だった自分がただ一つ、胸を張って誇れることだった)
それすら手放して、一体自分は何をしているのだろう。
テオはそう自問自答する。
その時ふと、頭にとある言葉が蘇った。
『テオにもいつか分かりますよ。人生を変えるくらいの出会いをすれば、きっと』
テオは目を見開いた。
ああ、とつぶやく。
もしかしたらこれが、そうだったのかもしれない。
「裏切り者は死ねっ!」
男の怒声と共に、氷の刃がテオとジェーン目がけて、勢いよく落下する。
テオがジェーンを守るように両手を広げ、
「ふんっ!」
――当たる、と思った瞬間。
突然目の前に現れた首無し騎士の槍が、氷の刃をすべて薙ぎ払った。
「ホロウ・デュラハン……?」
「何とか間に合ったか」
テオがぽかんと口を開けた。
「何故、あなたが」
吹く風に、ホロウのマントがぶわりと揺れる。
「ローランド殿と、其方自身の行いに感謝すると良い。吾輩は其方の監視役だ」
その言葉は決して優しいものではない。
けれど彼の声はまるで、テオを褒めているように温かかった。
◇ ◇ ◇
ホロウが男を拘束したのと、ほぼ同じタイミングで、アナスタシアとシズがその場に駆け付けた。
「ジェーンさん、テオさん、ご無事ですか!」
「ジェーン、大丈夫かっ!?」
「う、うん。大丈夫。テオ兄ちゃんが、うちを庇ってくれたから」
まだ少し震えているようだが、ジェーンは笑ってそう言った。
アナスタシアとシズがほっと息を吐く。
「ホロウ・デュラハンだと……!? こんな奴まで巻き込んで……っ! 裏切るにしても、やり方があるだろうが……!」
テオたちを襲っていた男は、ホロウに拘束され、地面に押さえつけられながらも、血走った眼で怒鳴っていた。
その言葉にテオは僅かに目を伏せる。
アナスタシアはちらりと横目にそれを見つつ、静かに男の方へ近付いた。
「『裏切った』は間違いですよ。彼は記憶を失っておりますので。ですから、そうですね……」
そこでアナスタシアはしゃがんで、
「あなたが軽はずみな行動を取らなければ良かったのでは?」
にっこりと微笑みかける。
男がヒュッと息を呑んだのが分かった。
するとすぐそばで聞いていたシズが、
「ローランド監査官にちょっと似てきたなぁ……」
困り顔で苦笑していた。
アナスタシアにとっては誉め言葉である。
フフ、とアナスタシアは小さく笑って立ち上がり、テオの方へと振り向いた。
「テオさん。ジェーンさんを守ってくださって、ありがとうございます」
「いえ、私は……」
「ありがと、兄ちゃん! 魔法、めちゃめちゃ上手じゃん! すごかったー!」
「……っ」
アナスタシアとジェーンがお礼を言うと、テオは明らかに動揺し始めた。
表情は暗い。彼はふらふらと後退りながら「……違う」と首を横に振る。
「違う、違う、違う、違う……! そんなんじゃない、私は、そんな人間じゃないっ!」
テオは頭を抱えて叫んだ。
かけていた伊達眼鏡が、かしゃん、と音を立てて地面に落ちた。
「に、兄ちゃん?」
「ただ、体が動いただけです。そうしようと思って動いたわけじゃない。私が考えて、動いたんじゃない。選択したんじゃない! 私は、あなたたちに褒められるような人間じゃない……!」
「お、おい、テオ? 大丈夫か?」
頭を振りながら後退るテオ。
それを見て、アナスタシアは一歩ずつ、テオが下がった分だけ近付いた。
「テオさん。生き物はそれを『本能』と呼びます」
そして静かにそう語りかけた。
テオの動きが一瞬止まる。
「本、能……?」
「そうです。自ら選ばなくても、学ばなくても、生き物が誰しも最初から、自分の中に持っているものです」
アナスタシアはそこでいったん言葉を区切り。
「あなたの本能は、とても優しいものですね」
「――……っ」
そのとたんにテオはくしゃりと、泣きそうな顔になる。
次の瞬間、彼は右手を勢い良く横に振った。
すると彼の手が動いた場所から、しゅわ、と白い霧が現れる。
魔法だ。直後に、走り去るような靴音が聞こえてくる。
「テオさん!」
反射的に、アナスタシアはその靴音を追いかけて走り出した。




