第十一話 理由も建前も取っ払った上で
月の綺麗な、ある夜のこと。
ホロウ・デュラハンは、いつもと同じように透明化して、テオの部屋の外にいた。彼の監視のためだ。
実のところ、ホロウの体は睡眠をあまり必要としない。銅の星の力で妖精騎士となったからだろう。
精神的な疲労を回復するために、まったく眠らないわけにはいかないが、肉体的にはそこまで影響はない。
(コシュタ・バワーや、アナスタシア殿には、しっかり眠れと言われてしまったが)
思い出してホロウは苦笑する。
今回の仕事中はそうもいかないが、普段は心配されるため、なるべく毎晩眠るようにしていた。
(人として扱われるのは、嬉しいものだな)
そんなことを思い出しながら、時間を潰していると、
ギィ、
と控えめな音を立てて、テオの部屋のドアが開いた。
テオが、頭を押さえて、ふらふらと部屋を出てきたのだ。いつも無表情な彼にしては珍しく、僅かに眉根が寄っている。
(頭痛か……?)
もしかしたら、記憶が戻りかけているのかもしれない。
ホロウは警戒しながら、部屋を出てどこかへと向かう、テオの後をつける。
すると、彼が向かったのは屋敷の庭だった。
テオは屋敷の壁に背中をつけて、深呼吸をしてから、月を見上げていた。気分転換でもしているのだろうか。
警戒しつつ、テオの様子を見ていると、
「あれ、テオさん」
頭上からアナスタシアの声が聞こえた。
顔を上げると、彼女は窓から顔を出しているのが見えた。
周りには、妖精の蹄が数頭、楽しそうに飛んでいる。
(あの妖精馬め、遊びたくてアナスタシア殿を起こしたな)
本当に馬に好かれる御仁である。
微笑ましく眺めていると、アナスタシアはひょいと部屋の中へと戻る。
そして少しして、庭へとやって来た。
「こんばんは、テオさん。お散歩ですか?」
「こんばんは。ええ、少しだけ外の空気が吸いたくなって。……その馬たちは、夜も押しかけてくるのですか?」
テオは妖精の蹄へ視線を向けながら、どこか咎めるような口調で言った。
その気持ちはホロウにも分かる。人間であり、そもそもまだ子供のアナスタシアにとって、睡眠は成長に重要な要素なのだ。
しかし妖精の蹄はまるで気にせず、新しい遊び相手を見つけたと言わんばかりに、テオの方へとやって来る。頭の上で飛び跳ね、肩に乗り、実に自由に振る舞っていた。
「毎日ではないですけどね。あちこちで大きな建築工事が始まったので、興奮冷めやらぬらしくて。かわいいですよねぇ」
アナスタシアは呑気にそう言っている。本心だろう。
人よりも、馬と過ごす方が気楽だと言うくらいだ。馬が遊びに来てくれて、嬉しくて楽しくてたまらないという気持ちが、笑顔から伝わってくるようだった。
「ところでテオさん。もしかして、眠れませんか?」
すると、アナスタシアはテオにそう訊ねた。
テオは僅かに視線を彷徨わせたあと「……ええ」と頷く。
「なるほど。では、良かったら、ホットミルクでも作ってもらいましょうか? 温かいものを飲むと眠くなると言いますし。まだ起きている方がいますので、それで――」
「アナスタシア様」
アナスタシアの言葉を、テオは珍しく遮った。
「何でしょう?」
「……私は、あなたたちの敵なのですよね?」
テオはそう続けた。
疑問ではなく、確認するような訊き方だな、とホロウは思った。
(事前説明はされているが……)
その時のテオはぼんやりとしていて、理解しているかどうかわからなかった。
しかし、覚えてはいるようだ。
アナスタシアはテオの目を真っ直ぐ見て、
「はい。そういう関係です」
――肯定した。
いつも通りの態度で、声で、アナスタシアは頷く。
後ろめたい気持ちは、そこからは感じられない。
(そういう方だからな)
ホロウがそう思いながら、二人の会話を見守る。
「それなのに、どうして私を助けて、こうして自由にさせているのですか?」
「監視付きで、拘束付きは、自由ではないですよ」
「自由ですよ。私は――」
テオは何かを言いかけて、はたと止まった。
「……?」
それからしきりに首を傾げている。
恐らく、テオ自身の忘れている記憶が、彼の心に働きかけているのだろう。
(やはり記憶が戻りかけている)
警戒を強めなければならない。
ホロウがそう考えていると、
「……ここにいると、おかしな気分になるのです」
テオは胸に手を当てて、どこか苦しそうに言った。
「皆が親切で、穏やかに笑いかけてくれて――胸が苦しくなる。どうしてそうなるのか分かりません。ですが私はきっと、こういう場所にいなかった。それだけは分かります」
テオにしては珍しく、感情の昂った声だった。
眉根を寄せて、胸に当てた手でぐっと、服を握りしめる。
「テオさんは、ここにいたくはありませんか?」
アナスタシアは静かにそう訊いた。
「記憶が戻れば、迷惑をかけるであろうことは承知しています。いない方が良い」
「そうではなく、テオさんの気持ちの方です」
「私の、気持ち……?」
「はい。理由とか、建前とか、取っ払った上で教えてください。あなたは、ここにいるのは嫌ですか?」
「…………」
テオは一瞬、呆けた顔になった。
「いいえ」
それから、くしゃり、と顔を歪め、
「いいえ。ここにいると胸が苦しくて、おかしな気持ちになる。ですが――……ですが私は、たぶんここが、ここにいる人たちが、好きで。好きで……だから、私は、ここが……」
テオ自身、混乱しているのだろう。言葉がすらすらと出てこない様子だった。
彼はただ必死に、自分の中の気持ちをかき集めながら言葉にしている。
「私は、ここが好きで……ここにいたいのだと……思います」
今にも泣き出しそうな掠れた声で、テオは言った。
「では、それで」
「?」
「いてください。記憶が戻っても、戻らなくても。あなたがいたい分だけ。良かったら、うちで働いてみませんか?」
アナスタシアは優しい笑顔を向け、そう提案した。
テオの目が大きく見開かれる。
「――何を。ありえない、ことです」
「よく言われますねぇ」
だろうな、とホロウは思った。
何となく予想をしていたため、驚きこそ少なかったものの、真正面からこれを言われれば、戸惑うのは当然だ。
(吾輩もそうであったからなぁ)
かつてホロウも、アナスタシアを悪だと決めつけ敵対していた。
だからホロウには、テオの今の気持ちがよく分かる。
そして、だからこそ、アナスタシアが本心で言っていることも分かるのだ。
「あなたが誰でも、記憶がどうであっても、私たちの味方になってくれたら嬉しいです」
「…………」
テオは何も言わなかった。
言えなかった、という方が正しいかもしれない。目を見開いたまま固まっている。
そうして、しばらく経った頃、
「くしゅん」
と、アナスタシアがくしゃみをした。
「失礼しました。夜はまだまだ冷えますねぇ」
「そう、ですね」
「テオさん。お返事はいつでも結構ですよ。ですので、今は――ホットミルクをいただきに行きましょうか!」
「……はい」
アナスタシアの笑顔に促され、テオも彼女について歩き出す。妖精の蹄も一緒だ。
テオの表情は心なしか、先ほどよりも和らいでいるようにホロウには見えた。
(……さて、どう転がるか。いざという時は、吾輩が切り捨てれば良い)
ホロウはそう思いながら、二人から距離を取りつつ、ついて行ったのだった。




