第九話 目が覚めたらそこは花畑でした
アナスタシアは春が好きだ。
母が一番好きだと言う白い釣鐘型の花コーアブリーゼが咲く季節だからである。
レイヴン伯爵邸の庭に植えられた分も、そろそろつぼみが花開く頃だろう。
そんな事を考えながらアナスタシアは馬小屋ですやすやと寝息を立てていた。
二日後に来るガブリエラ・パナケアが共鳴石の改良に興味を持っていたと聞いたので、では何か他のものもと作っていたため、少々夜更かししてしまったのだ。
しかしそうであっても、いつもならば時間が来れば使用人の誰かが起こしに来るので、アナスタシアが寝坊をする事は稀だった。
だが今日はそれがない。そのため普段の起床時間はすっかり過ぎてしまっている。
そんな彼女を起こしたのはユニコーンのユニだった。
『アナスタシア、アナスタシア。朝だよ、起きて』
「うー……?」
ユニから呼びかけられ、鼻先でちょいちょいとつつかれて、アナスタシアは目を覚ます。
まだちょっと眠たい。ぼんやりしながらアナスタシアは身体を起こし、目をこする。
「おはようございますー……ユニちゃん……」
『おはよう、アナスタシア。今日はちょっとお寝坊さん』
「寝心地があまりに良くてー……やっぱりここが一番です」
そんなやり取りをしながらアナスタシアは大きく伸びをする。
一緒に大きく息を吸えば、なぜだかとても良い香りがした。柔らかい甘さのこれは花の香りだ。
(庭の花、咲いたのかな。お母様の好きな、コーアブリーゼ……)
想像して頬が緩む。母の思い出が浮かぶあの花がアナスタシアも好きだった。
何だか今日は良いことが起きそうだ――なんて思ったが。意識がはっきりしてくると、花の香りが一つではない事に気が付いた。
微妙に違う甘い香り。それがあちこちから漂って来るのだ。そうなるとさすがにアナスタシアも「あれ、ちょっとおかしいぞ」と思った。
しっかり目を開けて花の香りを辿ってみると、
「…………うえっ!?」
――――何と馬小屋の中に、たくさんの花が咲き誇っているではないか。
色合い的には春の花だ。馬小屋がまるで花畑のようになっている。
寝る時は見慣れた馬小屋だったのに、たった一晩で一体何が起きたのか。
アナスタシアはポカンと口を開けた。
「ユニちゃん、私はまだ夢の中にいるのでしょうか」
『残念だけどアナスタシアはしっかり起きているよ』
「そうでしたか……それは良かった。時にユニちゃん、馬小屋が花でいっぱいに見えるのですが、私は寝ぼけていたり?」
『しないよ。これは現実。おかげでフローの機嫌がとても悪い』
「フローさんの?」
アナスタシアは目を瞬く。
花が咲いてフローの機嫌が悪いとは一体どういう事だろう。
「フローさん、どうして機嫌が悪いんですか?」
『アレが来たから。暖かいのがあの子は苦手』
「そう言えば昨日もそれでちょっぴり喧嘩を……ところであれとは?」
アナスタシアが聞くと、ユニは、うん、と頷いて、
『フラワーホース。春を告げる妖精馬のこと』
と言ったのだった。
◇ ◇ ◇
大急ぎで身支度を整えてアナスタシアは馬小屋の外へ出る。
するとそこには白色の毛並みに紅玉のような瞳をした美しい馬が佇んでいた。
春を告げる妖精馬、フラワーホース。先日話題に出たばかりだ。
本当に膝から蹄まで白色や薄桃色の花で覆われている。ひと目見て女の子だなとアナスタシアは思った。
それにしてもフラワーホースがどうしてここへやって来たのか。ケット・シーの集会は良いのだろうか。
そう考えているとフラワーホースの向こう側にローランドとシズの姿が見えた。なぜかローランドはテーブルをそこに置いて仕事をしている。
「あ、アナスタシアちゃん、おはよ~!」
「おはよう、アナスタシア」
馬小屋から出て来たアナスタシアに気付き、二人が軽く手を挙げた。
「おはようございます、ローランドさん、シズさん。華やかな朝ですねぇ」
「あはは、花がいっぱいだからね~」
「何となく言葉と状況の絡みが違う気がするが、それはそれとして正しいので判断に迷うな……」
ローランドは顎に手を当てそう呟く。真面目な彼らしい悩みである。
「今起きたばかりなんですが、これは一体どういう状況でしょうか?」
「ああ、それは私達にもよく分からない。朝起きたらこうなっていてな」
「使用人の皆、大騒ぎだったよ。ロザリーは「あら良く咲いたわねぇ」なんて呑気だったけど」
「ガースさんにツッコミを入れられている姿が浮かんできました」
「その通りの事になっていたな」
なっていたらしい。話を聞いてアナスタシアは小さく笑った。
「ちなみに、この馬は君に会いに来たらしい」
「私にですか? でしたら起こしていただいて構いませんでしたのに」
「ああ、そうしようと思ったのだが……」
言いながら、ローランドはちらりとフラワーホースへ視線を向ける。
すると彼女はこくりと頷き、
『ダメ。子供は寝ると成長するんだよ。あなたはまだ小さい。もっと寝て、大きく育つと良い』
と言った。聞こえてきたのは柔らかな女性の声だ。
どうやらこのフラワーホースはアナスタシアの成長を心配して、ゆっくり寝させてくれていたらしい。
「まぁ、そういう事でな。危害を加える様子はないと分かったので、待つ事にしたんだ」
「お仕事をされているのは?」
「時間の有効活用だ。してみて分かったが、たまに違う場所でする仕事も、なかなか悪くないものだ。今後もぜひ取り入れて行こうと思う」
「監査官、監査官。それ、ライヤー隊長がすごーく渋い顔する奴ですよ」
さすがにシズがツッコミを入れると、ローランドはゆっくり首を横に振り、
「仕事の効率化のためだ。止むを得まい」
なんて言った。満足そうな様子のローランドにシズが頭を抱える。
「いっそ専用のガゼボとか作ったら良さそうですね」
「む、それは良いアイデアだな。採用しよう」
「即断! 即断過ぎます、監査官!」
まぁ、それはともかくとして。
アナスタシアが起床したのでローランドは書類を片付け、椅子から立ち上がる。
「では、フラワーホース。ここへ来た事情を話して貰えるか?」
『うん、いいよ』
フラワーホースは承諾するとアナスタシアの方を向いた。
『ずっと昔にレイヴンの人間から預かったものがある。私はそれを返しに来たんだ』
「預かった物ですか?」
『そう。とても、とても、大事なものだよ』
そう言うと、フラワーホースは目を閉じる。
すると彼女の足元で揺れる花達が、ふわり、と光を放ち始めた。
魔法の反応だ。その光はシャボン玉のごとく浮かび上がり、アナスタシアに向かってふよふよと近づいて来る。
アナスタシアは反射的に両手を水を掬うように手をかざした。
光はその上まで来ると、パチン、と弾け。
中から日焼けした一枚の紙が姿を現した。
「これは……地図?」
手の平に上に落ちたそれを見て、アナスタシアは目を丸くした。
現れたのは古地図――――クロックボーゲンが領都になる前の街の様子を記した地図だった。




