プロローグ 紅玉の星
憧れは人を強くする。けれど同時に人を脆くもするものだ。
心の中で強く願い、石のように硬くなった憧れを、さまざまな出来事が雨のように打つ。
打たれれば打たれるほどに、石は削られ、穴が空き、やがて砕けて小さくなってしまう。
――――憧れを持たない方が、ただ生きるには楽かもしれないわ。
馬の一頭が、レイヴン伯爵家の複雑な家庭関係を見てそう言った。
その時のアナスタシアは「そうなのかな」と思った。
そして同時にこうも思った。自分にとっての憧れとは、一体何なのだろうかと。
◇ ◇ ◇
グナーデシルト騎士学校というものがある。
この国、クライスフリューゲルにある、三百年ほどの長い歴史を持つ学校だ。
ここには騎士などの武官を目指す者達が通っている。
騎士学校の敷地は広く、その中には各種訓練や行事で使う、円形の競技場も建てられている。
その競技場の前に、騎士学校の制服を着た生徒が一人やって来た。
赤毛のショートヘアに黒い瞳をした、勝ち気そうな顔立ちの少年だ。
歳は十五歳。騎士を目指す者らしく体格は良い。
彼の名前はイヴァン・レイヴン。レイヴン伯爵家の次男である。
「……はぁ」
イヴァンがため息を吐くと、同じタイミングで空がごろごろと鳴った。雷だ。
何となく見上げれば、今のイヴァンの心境のようにどんよりとした空が、そこには広がっている。
イヴァンは半年ほど前に起きたレイヴン伯爵家のいざこざで、つい先日まで自宅謹慎の処分を受けていた。
自宅と言っても、レイヴン伯爵邸を追い出されてしまったため、祖父の屋敷でだが。
最初はイヴァンもまさか、学校外の事で謹慎処分を食らうとは思っていなかった。
実際に学校長にもそう訴えたのだ。
しかし、
「騎士道とは忠誠心や武勇だけを言うのではない。君が騎士を志すのならば、なぜそうなったのか、ゆっくり考えなさい」
との言葉が返って来ただけで、処分が取り消される事はなかった。
(……なぜ、なんて)
言われた通り、イヴァンは考えた。けれど出てきた答えはいつだって一つだ。
父の第二夫人オデッサと、その娘のアナスタシアの存在だ。
あの二人が父と母をおかしくしてしまった。
確かにイヴァンだって、母の振る舞いは気になった。
けれどイヴァンが慕う兄ガラートの従者が「他領でも似たようなものですよ」と言っていたので、問題ないと思っていたのだ。
それがまさか、レイヴン伯爵家を追い出され、自分はともかく兄が領主候補から外され、学校から謹慎処分を受けるほどのものだとは思わなかったのだ。
――――あの時までは。
自宅謹慎を言い渡され学校を出る時、友人達が声をかけてくれた。
その時イヴァンは納得できない苛立ちを、愚痴と共に彼らに話したのだ。
すると友人達は口々に、
「話は聞いたけれど、君達のやって来たことはどうかと思う。貴族として、人として。そして家族としてだ」
「学校長は戻るなとは仰っていない。よく考えるんだ、イヴァン」
とイヴァンを諭した。
中には面白がって揶揄る輩もいたが、それ以上に友人達の言葉はイヴァンには衝撃的だった。
特に妹のアナスタシアに対する態度も耳に入っていたらしく、真剣な顔で苦言を呈された。
そこでイヴァンは初めて、他人から見た自分の姿を知った。
そんな事は認めたくない、認められない。そう意固地になったが、半年もすれば嫌でも理解出来た。
自らの振る舞いが、そして在り方が、イヴァンが憧れたアーサー・レイヴンという騎士とほど遠い事を。
アーサーのような騎士になって、兄や家族を支えるのだと、明るい気持ちで通っていた学び舎が重苦しいものに感じる。
陰鬱な気持ちになりながら、イヴァンは懐から一枚のカードを取り出した。
『案内役』と書かれたカードだ。これは近々行われる騎士学校の行事で担う役割を示すものである。
謹慎が解け、学校長に挨拶に行った際に、
「イヴァン・レイヴン。冬の祝祭で行われるジョストのトーナメントで、君は案内役を務めなさい」
と言われ渡されたものだ。その時、このカードの対となる招待客の名前を見て、思わず目を剥いたのを思い出す。
その招待客の名前はアナスタシア・レイヴン。
今のイヴァンが関わりたくない人間の一人だ。
「今さら、どんな顔をして会えと……」
何故と学校長に尋ねたが、答えてはくれなかった。
ただ「もし断れば、今度は謹慎では済まぬぞ」と言われ、引き受けるしかなかったのだ。
イヴァンはアナスタシアの事は好きではなかった。
軟弱で、何を考えているか良く分からなくて、何をされても涼しい顔をしていて。
そして――――父の愛情を奪ったオデッサの娘だ。
イヴァンの母が暗い顔をしていたのは、いつもあの二人のせいだった。だからイヴァンはアナスタシア達の事が好きではない。
(好きでは、ないが。……別にそれは、アナスタシアのせいでもなかったな)
ぽつりと心の中で独り言ちた時、ふと目の前に影がさしかかった。
見上げればそこに一体の銀色の像がある。
グナーデシルト騎士学校の競技場前に立つ、右手に大槌を、左手に松明を持った男神の像だ。
鍛冶の星とも、火の星とも呼ばれる、紅玉の星である。
騎士の星である瑪瑙の星ではなく、なぜこちらがここにあるのか。
騎士学校の七不思議のひとつだが、イヴァンはこの像が格好良くて好きだった。
だから悩んだり、考え事をする時はここへ来て、よく祈ったりもした。
「…………僕は、どうしたら良いのでしょうか」
応えてくれるはずもないが、ふと言葉が出た。
どうしたら、なんて。それはイヴァン自身も分かっている。
分かっているが、誰かに縋りたくなったのだ。
「…………帰るか」
考えても仕方がない。そう思って、イヴァンはくるりと踵を返す。
そして数歩離れた時。
ごろごろ鳴っていた雷が、けたたましい音を立て、像に落ちた。
「うわッ!?」
その音に、振動に、心臓が跳ねた。
大慌てで振り向けば、そこには見るも無残に砕けて倒れた紅玉の星の像があった。




