06.ただいま、世界が眩しいです
朝日が昇る頃、鳥たちも待ってましたとばかりに騒がしく朝を告げる。可笑しな月は地平線の向こうへ姿を隠し、太陽が少しずつ顔を出す。
今日という日がまた始まった。
泣きつかれて途中で眠ってしまったのだろう。気づいたら夜明けで太陽が昇るのをただじっと眺めていた。
月が沈めば陽が昇る。朝日とともに鳥が鳴き、人々が起きる気配がする。当たり前のことなのに、今はこんなにも私に安堵と不安をもたらす。
帰れないと知ってからずっと考えていた。私の知らない世界のことを。私を知らない世界のことを。けれど途中で考えるのがばかばかしくなってきたのだ。
当たり前のことに気づいたから、変わらないことに気づいたから。
大きな窓は背の低い私が立っても頭をぶつける心配はなさそうだと、開け放たれたままの窓から風を感じつつも、ベッドを足場に窓枠に足をかける。ちょっとよろけながらもしっかりと自分の脚で立った。
ずっと考えていた。私はこの世界のことを何も知らなくて、私のことを知っている人が誰もいないという恐怖心に耐えられるのかということを。けど、逆に考えてみた。私は私が元いた世界の全てを知っていたのか?と。答えは否。すべてを知っているなど烏滸がましい。私が知っていたのはあの世界のほんの一部だけだ。では、誰しもが私のことを知っていたのか?これも答えは否。人は皆どんな人間か知られて生まれてくるわけではない。皆、初めは一人なのだ。世界に独りぼっちなのだ。
だったら、今この世界で独りぼっちの私はきっと新しい私だ。ここが私の新しいスタートなのだ。
へんてこりんの月はもう消えて見えないけど多分元の世界とのそれとは全く違うものなんだろう。だけど太陽は、私の知っているそれと全く同じだった。赤のようなオレンジのような、燦燦と光を放つあたたかな光は少しずつその輝きを増す。それはやっぱり変わらなくて、記憶のものよりもずっと眩しかった。
ふーと息を吐き出して、乱れそうになる呼吸を整える。吸い込んだ空気は朝露に濡れる土の匂いがした。
「若返ったのもいい機会だし、こっからもう一度頑張ってみようかな......あーあー、こんなんだったら貯金しないで好きなもの買ってればよかった。まあお母さん達が上手く使ってくれるか」
零れた言葉に大きな希望と少しの諦めが滲んでしまうのは許してほしい。だって、ここから新しいスタートを切ると言っても、海月は海月なのだ。この名を与えてくれた家族と親しみを込めて呼んでくれる人たちがいた。その人たちをひとたび忘れ新しい自分になるのはやはりどうしても胸がいたい。
二度と会えないかもしれない。名前を呼んでもらえないかもしれない。突然いなくなった私を探しているかもしれない。けど、私が人生のどん底にいた時沢山の力をくれた人たちは、きっと私が頑張っていればまた何度でも『海月、頑張れ!』と言ってくれるはずだ。
「忘れないよ......忘れるんじゃない、でもきっと今は皆にすがるときじゃないから」
だからここに置いていく。思い出も悲しみもどうしようもない怒りも今は全部ここに置いていく。
泣くのは今この時だけにしよう。
「がんばれ......頑張れ、私。負けるな海月」
誰かに応援されるような人になればおのずと結果もついてくるものだ、といつも背中を押してくれる人がいた。今は誰もいないから自分で自分を奮い立たせるしかないけれど、きっとこの世界にもいるはずだ。私に頑張れって、負けるなって言ってくれる人が。そう言ってもらえる自分を目指せばいいのだ。
「...っ!......く、っふ......頑張るよ私、頑張るから!っ頑張るから!」
陽が高くなればなるほど輝きが増して眩しいはずなのに、すべてが揺らぐ世界では美しい光のままだった。
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今朝はいつもより随分と早くに目が覚めた。それもきっと、昨夜の彼女の様子が気がかりだったからだと思うのだが、それでもいつも他人にあまり心を動かされない自分には珍しい行動だった。それもこれも彼女が珍しい異世界の人間だからだろうか。答えは定かではないが目が覚めてしまったのでは仕方ないと軽く身なりを整え庭に出ることにした。
この庭は朝日が昇ってくるのが見えるようにと高い木々は植えられていない。淡い青の空に薄く輝く星々が消えかかるのを眺めていると、どこかから小さく声が聞こえた気がした。
こんな朝早くに起きる人物が自分以外にいただろうかと、あたりを見渡したがどこにもいない。不思議に思い普段は隠している狼の耳を出し聴覚を研ぎ澄ませばどうやらその声の主は二階にいるようだった。
視線を上に向ければいつかのように窓に身を乗り出す異世界の女が見えて、思わずまた声を荒げる所だったが聞こえてきた言葉にそれもできなくなった。
必死に己を鼓舞する言葉を繰り返し繰り返し何度も口にする彼女は、窓から飛び降りようなんて微塵も考えていない。それよりも、この世界で生きていくのだと生きなければならないのだと言い聞かせているように見える。
強くこぶしを握り締め耐える姿から目が離せない。
異世界の人間とはかくも弱い生き物なのかと思ったばかりのはずなのに、力強く己の脚で立つ彼女は美しいとすら思えてしまう。
無意識のうちに狼の目を出してまで自分の目は彼女を捉えて離さない。なぜこんなにも目を離せないのか、そんなことを考える間もなくヴァンシュべルトの世界から音が消えていく。
この世界でただ一人、彼女だけが鮮明だった。
全ての音を切り取ったような世界で、背を向けた朝日が彼女の瞳から溢れる雫に映って見えた。




