05.ただいま、現状を知りました
わ、若返ってる......これたぶん中学生、いや高校生ぐらいの年齢じゃないか?え?どういうこと?
訳が分からずベッドから飛び降り鏡に近づいてよく自分の顔を確かめる。単純に肌年齢が若くなったとかだったら飛び上がって喜ぶだろうが、これはどう考えてもおかしい。
忙しくて手入れをするのが面倒だからって肩の上で切りそろえられた髪は、なぜか背中を覆うほどまでに伸びていてつややかになっている。包帯で覆われていて気付かなかったが身体の骨格も少し小さくなっている気がする。それこそ成長途中の十代ぐらいに。
そこでハッとなって私は慌てて左脚の長い病院服のようなズボンをめくり上げる。大学生の時に知人と皆でサイクリングに行ったとき、派手に転んで膝の少し上に大きな傷を作ったのだ。手術で5針縫ったその痕は大人になった今でも傷跡を残していたのを思い出したのだ。
包帯はほとんどが両足膝下までと腕だけだったから見慣れた傷跡は上から新しい傷を作っていない限り消えるはずがない。そう自分に言い聞かせるようにくるくると柔らかいズボンをめくって傷跡を探す。
捲ってあらわになった自分の膝に手を這わした。白っぽい線のように残っていたその傷跡は自分の膝にはどこにも見つけられなかった。なぜと思わずにはいられないが、鏡に映る自分の姿から考えれば答えはすぐに頭に浮かんだ。若返ったのだ、傷ができるずっと前まで。傷ができる前までさかのぼってしまえば、傷跡が残るはずがない。
だけどどうしてそんなことが起こったのだろう。普通に家に帰って眠っただけのはずだ。若返ってしまう理由がわからない。それだけではない。そもそも私はどうやってここに来たのだ。眠っていたはずなのにいきなり知らないところにいて、しかも見たことも聞いたことも無い生物まで目にしてしまっている。
これはもう誤魔化しきれない。私がここにいるのは夢遊病でも、誘拐でもないのだと言い聞かせるのにも限界がある。
ぐるぐると回る答えのない問に頭を抱えていると黙ってこちらを伺っていたゼファン医師が海月に声をかけてきた。気づかない間に随分と近くに来ていたゼファン医師はへたりこむ海月に視線を合わせるように腰を落とす。
「......お譲さん。君は僕が知る限りほかのどの種族よりも治癒能力が遅く、薬の効きも悪かった。そして今この時期に狼人族の里に訪れる人間はいてはならないのが習わしだ。そのことは知っていたかな?」
「い、いえ......私、知らなくてっ」
「ああ、いいんだ。勝手に里に入ったことを怒っているわけではないから、一度ゆっくり深呼吸をしなさい。ほら、ゆっくり、ゆっくり」
呼吸が乱れていることにすら気づかなかったのはきっとぐるぐる回る頭がそれを考える隙を与えてくれなかったから。ゼファン医師に言われるとおりにゆっくりと呼吸を繰り返し手を引かれてもう一度ベッドの方へ戻る。今度はベッドではなくテーブルの周りにいつの間にか用意されていた三脚の椅子の一つに座らせられた。きっとヴァンシュベルトが用意してくれたんだろうけど今はお礼を言う余裕もない。
椅子に座り少し落ち着いた海月を見てゼファン医師がまた話し始める。
「さて、僕が君にいろいろ質問をしても余計に混乱するだけだろう。だから君から僕に何か聞きたいことはないかい?」
「聞きたいこと......」
「そう。応えられることならウソ偽りなく答えると約束しよう」
真剣な眼差しで海月を見るゼファンに思わず視線を逸らしてしまった。否応なしに現実を突きつけられているみたいに感じられたのだ。だけどずっと黙っているわけにもいかず、海月は一つずつ自分の疑問を言葉にしていく。
「あの、ここはどこなんでしょうか......目が覚めたら私、森のようなところにいて......あの三人の子供たちに会ったんです」
「君が目を覚ました場所は狼人族の里の森の端。そしてここは狼人族の長の館だよ。狼人族はわかる?」
「い、いえ......知りません。あの、東京都はご存知でしょうか」
「とーきょーと…...か、すまない。僕は仕事柄色々な場所に行くけど聞いたことはないな」
東京を知らないんだったらどこなら知ってるんだよっというわけのわからない怒りが沸き上がってきたがそんなことに文句を言っている場合ではない。
「君はファリールを見るのは初めてだったのかな?」
「え?」
「ファリールだよ、森で見ただろう。あの大きな橙色の鳥のことだよ」
「あ、ああ。そうですね、よく似た動物なら見たことはありますが、あそこまで大きくなかったと思います。ふぁりーるというんですか?」
「......ああ。僕らはよく食用として食べる鳥だね。祭典などではメイン料理として使われるから、子供らでも名前ぐらいは知っている」
そ、それはどういう意味でしょうかと聞く前にゼファン医師の表情を見て固まる。目はしっかりと海月を見ているのに、その表情はどこか険し気でそれでいて憐れむような顔だった。もしかしたら今の問答でゼファンは答えを見つけたのかもしれない。海月の中で未だぐるぐると巡る答えのない問の答えが。
「古くからの習わしを知らず、子供でも知っている日常的なことも知らない......君は、もしや異世界からの渡り人ではないのか」
「異世界......?」
「そう、過去にも何人かの人間がこの世界にやってきているからもしやと思ったのだけれど……まさかこんなに小さな子まで」
思案し始めたゼファン医師には悪いが異世界だなんだと言われてはい、そうですかと頷けるほど大人じゃないし、わけがわからないって泣きわめくほど子供でもないのだ。それに欲しい答えはそれじゃない。
「あのっ!!」
いきなり大きな声を出したからゼファン医師もおとなしく座っていたヴァンシュベルトも驚いたような顔をした。けれども欲しい答えを得るためにここで引くわけにはいかない。
「私、もしかしたらあなたたちの常識と言えるようなこと何一つ知らないかもしれません!ここがどこなのか聞いてもわかんないし、異世界とかもしかしたら本当にとんでもないところに来てしまったのかもしれないけど、でも、過去にもここに来た人がいたんですよね!なら、私、帰れますよね......」
最後は何とも弱腰になってしまったがさっきから心臓の音がうるさいのだ。まるで耳元で鳴っているかのようにどくどくと喧しいほど響き、それがより現実味を持たせるから本当に嫌になる。
ここがどこかなんて本当はどうでもいい。帰れればいいのだ、自分の家へ。
これは夢と一緒だ。どんなに恐ろしい悪夢であっても、終わってしまえば笑い話になる。けがをして痛い目にあっても、きっと帰れば『こんな目にあったんだ、可笑しいでしょ』って友人や家族に笑いながら話せるのだ。
「私に帰り方を教えてください。元の場所に......帰れるんですよね?」
ああ、どうしてそんな顔をするんですか。哀れな子を見るような、すまなそうな表情はいらないんです。ただ、一言、帰れると言ってくれるだけで、私の心臓はうるさくなくなるのに。
一度ゆっくりと目を伏せ、ゼファンは静かに告げた。
「すまない、帰る方法はないのだ。誰も知らないんだ......すまないね」
......きっと、この人は意地悪をしようとして言ってるわけではないのだろう。その表情や雰囲気からもそれはわかる。わかるが、その言葉はどうしても受け入れられない。
カラカラに乾いた喉は一体何を求めているのか、陸に上がった魚のように息がしづらい。コクリとつばを飲み込む音が部屋中に響いたかと思うくらい静かだった。
その後のことはあまりよく覚えていない。
自分がこの世界の生物ではないことはあまりに遅い治癒力や脆さから推測したということ。私と同じように異世界からやってくるものは過去にもいたということ。残念ながら今はだれ一人としていないこと。そのほかにも色々優し気な口調で教えてくれていた気がするが、私がこれ以上話を聴ける状態ではないことを察してか、また明日来ると言って部屋を出ていった。ヴァンシュベルトもしばらく何も言わずに部屋にいた気がするが、私が何も反応を示さないことに気づきそっと出ていった。
気づけば太陽は沈み、空には月が上り始めたいた。海月は誘われるようにもう一度窓へと視線を向ける。
少し肌寒いぐらいだったが窓を閉める気にはなれなくて、窓辺に腰掛けると月が良く見えた。若返るとともに視力までよくなったのか月のクレーターもよく見える。
自分の名に月が入っているからか昔から月は大好きだった。日本ではうさぎの形に見えるそれを見つけるたびに小さな笑むを漏らしていた。こんなことで笑顔になるなんて単純な奴といつか誰かが笑っていたが、恥ずかしいと思ったことは一度もない。大好きなのだ、この名も、月も。
けれど、その大好きな月はもうない。少し欠けた下弦の月にウサギなんていないし、私の好きな月は緑とも青ともつかない色を放ったりしないから。
知らない人、知らない場所、知らない月、きっと今見つけたこと以上に海月の知らないことでこの世界は溢れてる。
そして、この世界で海月を知るものもだれ一人としていないのだと気づいた瞬間、静寂が部屋から逃げ出す音がした。