01.ただいま、どこでしょう?
良い子の皆は夢の中にいるであろう時間、ただいま0時32分、アラサー女はやっとこさ帰宅です。
駅から近い我が家でなければ1時になっていたことでしょう。
ありがとう、お父さん。あなたのおかげで私は30分早く家に着けます。
「ただいまあ~......」
ああ、やっと帰ってこれた。今日もお疲れさまだね、私。
ふかふかのラグに倒れこむように横になり、行儀悪いなと思いつつもそのまま靴を脱ぐ。眠いし疲れたし身体も気持ちもダルダルだ。お腹の脂肪はタルタルだ。グスン。
ああ、でも30目前で体力が落ちたかなって思ってたけどパンプスで駅まで走れるならまだまだ私も捨てたもんじゃない。並走しながらともに走ったおじさまにはちょっと運命感じちゃった。
くたびれたスーツを着て、薄くなり始めた髪を靡かせながらも気にせず走る姿は結構イケてたと思うのだ。だって私枯れ専だし。......これはもしや運命の出会いを逃したのでは?
「し、しまったああ゛~~また婚期が私から逃げていく~~」
「何言ってんの、海月。玄関で寝っ転がらないで、汚れちゃうでしょ」
一人頭を抱えて喚いていると、我が家のお母さん様が居間の扉を開けてお出迎え。呆れ顔は慣れっこだが今はもう少し娘の婚期について一緒に嘆いて欲しかったなと思うのは我が儘でしょうか……。
「まあイケオジは置いといて、お母さんただいま。にしてもこのラグそんなに汚かったっけ?」
「何言ってんの、汚いのはあんたでしょ」
「そんな馬鹿な!!というか酷い!酷すぎて目が覚めた!」
「はいはい。それはよかったわね。今お父さんがお風呂に入ってるから先にご飯食べちゃってね」
流石お母さん、娘のあしらい方が流れるような動作でした。ついでに私の発言も流されました。はい。
婚期も運命の相手も空腹とお母様には勝てなかった......無念である。
遅めのご飯はいつものこと。転職先がまさかのブラックでここ最近はかなり生活習慣が乱れてる気がする。自覚はあるが仕事だから仕方ない。実家通いじゃなければとうの昔に部屋のごみと一緒に生ごみになっていたかもしれない。
ありえるな......おー怖い怖い。本当、お母さんがいてくれてよかったわ。
じゃぶじゃぶと手を適当に洗い、準備された綺麗なタオルで拭く。パッと見上げた先の鏡に映った自分はとても疲れた顔をしていたが、食欲を誘ういい香りが意識を逸らす。
おいしそうな匂いに誘われ、ふらふらとキッチンに向かえばお母さんが温めた料理をテーブルに並べてくれていた。もはや夜食の域だからあまりカロリーのあるものは食べないことにしているが、温かなご飯とみそ汁があれば十分だ。だって日本人ですもの。
いつも通り自分の席について、手を合わせる。いただきますの言葉は、食材と調理してくれたお母さんに。
椀を傾けみそ汁を飲めば、自然と出てくる嬉しい溜息。疲れた時こそみそ汁は心からホッとする。流れ込むみその風味は体中を巡り疲れた体を癒すようだった。
「はぁああ~~おいしい~~」
「ふふ、よかったわね」
「うん、お母さんありがとう゛〜」
ホカホカのご飯も硬すぎず柔らかすぎずとてもおいしい。おいしいご飯は白米でも食べられちゃう。ふりかけとかおかずの塩気で食べるご飯もいいけど、噛むごとに感じる甘みを堪能するのも乙ですなー。
もきゅもきゅと幸せを噛みしめていると、階段をトントンと降りてくる足音が聞こえてきた。父は今お風呂に入っているから、考えられるのは一人しかいない。
リビングの扉を開けて入って来た弟はなぜか部屋着ではない。どこかに出かけるのだろうか。
「ねーちゃん、おかえり。相変わらず忙しそうだな」
「優斗、ただいま。あれ?何で部屋着じゃないの?」
「ちょっと友達に呼ばれたから出てくるわ」
「夜遊びもほどほどにね。大学生」
わかってるよと適当に言ったわが弟、優斗は母に行ってくると言って玄関へ向かった。玄関先からこちらに向かって話し続ける。
「ねーちゃん、ついでになんか買ってきてやろうかー?」
「んー......じゃあ、プリン買ってきて。今日はもう寝るけど、明日の朝食べるからー」
「はは、好きだよなープリン。じゃあいつものやつ買ってくるわ」
「よろしくー」
気の利くわが弟は、私の好きなコンビニプリンを知っているのだ。いやはやよい弟を持ったものだ。
甘いものが好きな私とは違って、優斗や父はお菓子自体あまり好きではない。だから昔はよく、時間があれば二人が食べれるような甘すぎないお菓子を作ってあげたりしたものだ。今は忙しすぎてそんな時間はないけど、おいしいと言ってもらえた時の喜びはいくつになっても覚えているものだ。
綺麗に食べ終えた皿をおき、ごちそうさまでしたと手を合わせる。皿を食洗器の中に入れて私の夜ご飯は終了だ。お風呂から上がった父と交代し、ササっと身体を洗って湯船につかる。体の芯から温まることで眠気が増し湯船につかりながらうとうとしてしまう。完全に眠ってしまう前に母の声で起こされ慌てて上がるのも見慣れた光景だ。
何から何までありがとう、お母さん。
お風呂から上がれば、お父さんがビールを飲みながらテレビを見ていた。今日は金曜日だから父もゆっくり夜を過ごしている。今年64の父は未だに現役で働いているから平日は私が帰る頃には寝てたりする。お互い忙しい身の上なのだ。
私に気づいた父がビール片手に話しかける。
「おう、おかえり海月。もう寝るのか?」
「ただいま、お父さん。特に見たいテレビもないしね、疲れたからもう寝るよ」
「そうか、お前も忙しいしなぁ。疲れてるだろう」
「まあね。でも仕事だからって割り切れるくらいにはもう大人だから。大丈夫だよ」
「そうか、ほどほどでいいんだからな。お前が頑張ってるのは父さんも母さんも、優斗だってわかってる。だから応援しているよ。一区切りついたらまたおいしいところに連れてってやるからな」
「ありがと。じゃあそれに免じて、いつもよりビールの本数が多いのは見逃してあげるね。おやすみ、お父さん」
「ば、ばれてたか......母さんには内緒にしてくれよ。おやすみ、海月」
最近お腹周りが気になり始めてきたお父さんは、お母さんからお酒の量を制限されているのだ。私はビールはあまり飲まないけど、仕事終わりにお酒が飲みたくなる気持ちはよくわかるから告げ口はしないであげよう。今日のところはご褒美の言質も取ったしね。
結婚して別々に暮らしていたら今の父との会話はなかったのだろう。周りの同級生たちが結婚していく中取り残されたように感じたことも無くはないが、やっぱり家族はいいなと思う。重くないほどの気遣いと煩わしくない冗談がとても心地いいから、私は今の生活に満足している。
二階にある8帖の私の部屋は最近掃除をしていなかったから雑誌や服で少し汚い。訂正、かなり汚い。ただ、ベッドの上はいつでも寝れるように綺麗に整えられているから今日も周りの乱雑さは無視してベッドにダイブする。
子供の時から一緒に寝ている犬の抱き枕は、年季が入って色はくすんでいるが洗濯済みだからとってもいいにおいがする。柴犬を模したこのぬいぐるみの名前はポン太郎。ポンはなんとなく可愛いから、太郎はなんとなく語呂がいいからつけたなんとも適当な名前だが案外気に入っている。ふわふわの毛からお気に入りの柔軟剤のにおいをかいでいるうちに瞼は少しずつ重たくなってきた。
少しばかり慌ただしい毎日に、大事にしたいと思える家族がいて、自分なりに精一杯生きているのだからきっと神様からも花丸を貰えるだろう。明日のプリンはきっとおいしいし、多めの睡眠をとればきっとまた月曜日からも頑張れる。
割とどこにでもいるような平凡アラサーは今の現状に満足している。今以上の驚き溢れる人生はたぶん私のキャパを超えるだろうし、結婚はおいおいできればいいかなという程度だ。不満もない、不安もない、悪く言えば平坦な人生だが文句はない。
明日もきっと何の変哲もないいい日になるだろうと思い浮かべながら、海月の意識はゆるりと落ちていった。
変わらぬ明日が、既にもう遠いことに気づかずに。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「......て、...あ......、......!」
ん...?誰かの声......?
水の中から音を聞くようにくぐもってよく聞こえないその音は、何だか徹夜明けのアラームのようにも感じられて少し不快だ。いや実質昨日はかなり遅かったし、はっきり言って喧しい。今日は休日だしまだもう少し寝ていたいからここは無視ということで、じゃあお休みなさい。
ごろりと寝返りを打ちその声から逃げるように身体を丸めるが、相手も大概しつこいらしい。声は更に大きくなった。
「...!う...あ!......て、きて!」
うるさい音を遮るように布団をかぶろうとするがその肝心の布団が見つからない。目は開かないから手探りでしかわからないがどうやらベッドの下に落としたらしい。仕方ないとあきらめて目を開ける直前、今までで一番の大きな声と身体を揺さぶられる振動で、抗い続けた目覚めは強制的に行われた。
寝起きの頭では正常に判断できないがとにかく休日に無理やり起こされて怒りを感じているのは確かだ。起こした内容によっては相手が誰であろうと容赦はしない。お母さんは例外。お父さんと優斗は有罪だ。
パシパシと何度か瞬きして私は相手の顔を見ようと身体を起こす。思ってたよりも眩しくて上手く目が開けられない。カーテンまで開けて起こそうとするなんて、此奴やりよる。
「あ、見て!目が覚めたみたいだよ!」
「本当だ、やっと起きてくれたねー!」
はしゃぐような声に意識を引きずられ瞬きを数度繰り返す。はじめは眩しくて眩しくて何も見えなかったが徐々に光にも慣れ、私の目は世界を映した。
「...え?......どこ、ここ」
青々と茂る木々に、見たこともない花々。見慣れた自分の部屋の壁紙や家具はおろか、建物や電柱が何一つ見当たらない光景に開いた口が塞がらない。自分の部屋かと思ったらまさかの屋外。しかもジャングルかっていうほどの自然に囲まれ、驚かないほうがおかしい。え?本当にここどこ?
起こしてくれたのであろう心配げな3対の瞳に見守られながら再度口に出すことを許してほしい。くどいというなら苦情がきてもやむを得ない。できれば苦情はこの状況の説明とともにお願いしたい。......それでは、準備はよろしいだろうか。
スーッと息を大きく吸い込み、あらんかぎりの声で叫ぶ。
「ここどこおおおおおおおお!!!!??」
いくらブラック企業勤めで常に寝不足気味だと言っても、見知らぬ森の中で眠るほど神経図太くありません!!どこよ、ここ!?今何時!?私の家はどこ~!
ワンワンと響き渡る己の声を合図に彼女の新たな人生が幕を開けた。




