13.ただいま、違いを実感しています
自他共に認める夜型人間にとって、ブラック企業に就職したのは果たして良いことだったのか悪いことだったのか......近年稀に見る規則正しい生活で過去の生活を考えさせられています。お早うございます、海月です。
私の今後を決める大事な話合い、もとい甘くもしょっぱくもあったお茶会を終え、新しい朝を迎えた今現在。清々しい朝と言いたいところではあるが眠たすぎて朝日が憎い。カーテンの隙間からもれる光に朝から目潰しを食らった気分だ。出来れば早急に遮光カーテンに変えて頂きたい。勿論出世払いで。
ポヤポヤと未だ覚醒しない頭で時計を見遣る。現在六時を丁度回ったところ。朝食まであと一時間弱といったところか。
時計を確認するために上げられた頭はすぐさま枕の上に戻ってしまった。首元まで引き寄せられた毛布はしっかりと握りこめられ離す気がないことを如実に物語っている。
起きなければという意思が全くないわけではないが、肌触りの良いシーツとふわふわの毛布に包まれれば誰だってもう少し寝ていたいと思うはずだ。それがたとえ、起床ギリギリアウトの時間だったとしても二度寝を求めてしまうのが人の性。そもそも三大欲求の一つである睡眠欲様に抗おうってのが土台無理な話で......っと長くなったけど、要は全て二度寝したいという言い訳です。だってまだ眠いんだよ!! こんな良いベッドに寝かせるのが悪い! 逆ギレごめん!!
部屋の静けさに反して脳内では喧しいながらも二度寝するという結論に落ち着いた。その時、思わず溢れた心の声が図らずも起床の合図となってしまったのは……まあ私が馬鹿だからだろう。
「よし......あと10分だけ寝「おはようございます、ミヅキ様」......「ミヅキ様」......はい」
「お仕度の準備がございますので、そろそろお起きになって下さいね」
狙ったように被せられた二人の女性———専属メイドの言葉には『寝るなよ』という副音声がついていたようで海月は蚊の鳴くような声で返事を返す。そんな自分でさえ聞き取りにくい言葉に、扉の外からでもちゃんと返事が返ってくるのだから獣人の聴覚が並外れているのは言うまでもない。まあそうさせてしまっているのは自分なのだから感心している場合ではないのだけれど。
そもそもなぜ朝からメイドさんを目覚まし時計代わりにしているのかというと、それもこれも私が生粋の夜型体質のせいなのだ。
生まれつき早寝早起きの朝型体質と無縁の人間であることはお母さん様のお墨付きだ。
曰く赤ちゃんの頃から昼はピクリとも動かず寝続ける癖に、夜は腹が減ったと泣き、遊べと泣き、かまえと泣き、おしめを変えろと泣き、それはもう大変だったらしいのだ。
多少大人になれば緩和するかと思いきや、授業参観の日でさえこっくりこっくりと船を漕いでる私を見て両親は早々に諦めたらしい。ついでに言うと私は最初から諦めていた。
そんな私が慣れない新しいベッドで、尚且つろくに身体も頭も働かせていないのに眠くなるわけもなく、ゼファン先生から薬を処方されなくなったあたりから眠るのも目覚めるのも辛くなっていたのだ。
薬の副作用で眠くなっていたのなら睡眠薬でも飲めばいいじゃないかと思うだろうが、薬を機械で量産している元の世界とは違い、この世界では全て医師免許を持つ人の手作業で作られている。それなのに、朝が起きれないからなんていう馬鹿馬鹿しい理由で貴重な薬を貰う訳にもいかず、なんとかとった対策というのがこの『超ハイテク! メイドさん目覚まし時計化計画』である。
「さあミヅキ様、まずはベッドから出ましょうね」
「でも布団が、布団が離れてくれんのです......!」
「引っぺがして下さい」
「引っぺがしましょうね」
「そんなご無体なぁ!」
本気になれば部屋の中の寝息でさえ聞き取ることができる獣人さん達。そんな彼女たちの前でこっそり二度寝なんて以ての外だった。初めは扉の外からかかる声に『一体どこから声が!?』と飛び起きたものだが、流石にプライバシーもなにもない方法なので時間通りに起きてこないときにしか聞き耳を立てないと約束してもらっている。
そういうわけで大変有難いことに、今日も遅ればせながら起床することができたというわけである。
外から寝ないように声がかかるとはいえそこからは自分の力で起きなければならないから、私の朝は大変賑やかだ。訂正、いちいち気合を入れて声を出さないと動けないから一挙一動が喧しい。あとテンションもおかしい。
「うぅ゛~......布団なんて、布団なんてっ、大嫌いだーーー!!!」
「その意気です、ミヅキ様! さぁ次はベッドとサヨナラしましょうね」
部屋の外からの応援の声に、うおぉぉっ! と奇怪な叫び声をあげながら勢い良く掛布団を遠くへ追いやりゴロンゴロンと広いベッドを移動する。横になって三回転はできるほど大きなベッドは、当然シーツも布団も大きい。それを毎朝取り換えてくれている二人には申し訳ないが、愛すべき掛布団との別れで、涙で濡れるシーツには目を瞑ってほしい。あぁ、愛すべき布団......また逢う日まで!
そうして海月はベッドという名の楽園から飛び立った。
ゴロンゴロン...ドテッ!
「ぶっ......! あ、朝から熱烈なキッスを貰うとは、わが人生に一片の、悔い、な...し......ぐー」
「「ミ・ヅ・キ・様!」」
「うわあぁ~ん! すみませんでしたぁ~!」
床からの熱烈なキスを受け流し海月は泣く泣く立ち上がる。
そのままもそもそと夜のうちに準備してもらった服に着替える。頭からずぼっとワンピースを被る姿に気品は欠片も見当たらないが、流石の獣人さんでも扉の向こうの景色までは見ることはできないだろう。......ちゃんと着替えてるので扉をコツコツたたくのはやめて下さい。入ってますよ。
襟のある清楚なワンピースは柔らかな黄色の生地に白のレースがあしらわれている。中身30間近のおばさんには少々幼い気もするがこの外見には丁度いいのかもしれないと鏡の前で考える。
———私、このお屋敷のほとんどのメイドさんたちにはただの人間の女の子で通ってるしね。こっちの子は発育がいいから、私は小学生くらいに見えてるんだろうなぁ......うーん、仕方ないとはいえ年齢詐称は心が痛い。というか物理で心臓が痛い。
原因はわからないけれど、若返ってしまった私は異世界からの渡り人という肩書を隠し、森で迷子になっていた人間の女の子ということになっているらしい。
双子ちゃん達を助けた一件のせいか、記憶を失い途方に暮れているところを長に引き取ってもらったという筋書きらしく、命の恩人ということもあり手厚く対応するよう使用人の人たちに話は通してあると言われた。
———年を誤魔化してるのは兎も角、私が異世界人だってことを隠してくれるのはありがたい。客寄せパンダよろしく、見世物になるつもりは毛頭ないし、厄介ごとに巻き込まれても死ぬ予感しかしないもの。
王への謁見までは使用人だけでなく里の自衛団にも渡り人の存在を秘匿する。どこから情報が洩れるかわからない以上、私が異世界人であることを知る人物は必要最小限に抑え、危険性を少しでも減らさなければならないのだ。
目覚め早々一気にテンションが下がる内容だけれど自分の身に降りかかる危険は少ないのに越したことはないのだから我慢も忍耐も必要なのである。
だけど今ので大分目が覚めたな。......別にビビってないよ?
顔を洗いある程度の身支度を整えたところでようやく扉へ向かう。パタパタとなる靴音がちゃんと聞こえるくらいには頭も覚醒してきたらしい。それでも先ほど鏡で見た自分の顔はまだまだ眠たそうだった。世界を超えようが私の夜型体質は治りそうにないと知れば、きっと皆呆れたように笑うんだろうなと、目を瞑り頭に浮かんだ大事な人たちに小さく笑っておはようと告げた。私は今日も元気に寝不足です。......うん! いつも通りだね!
大きな扉は向こうの世界のものと比べると少し重たい。
獣人さん仕様で天井も高いからどうしたって扉は大きく、重くなってしまうのだろう。せめて片手で開けられるくらいには筋力をつけようと、今日も両手で扉を開ける。
のけぞりながら開けた扉の外には部屋付きメイドのシャーナさんとセリーヌさんが綺麗に礼をとって待っていてくれて、瞬きするうちに消えた獣耳に申し訳なく思う。
「お、おはようございます。シャーナさん、セリーヌさん」
「「おはようございます、ミヅキ様」」
「今日も余計な仕事をさせてしまって申し訳ないです。ちゃんと夜にはベッドに入ってるんですけど......どうにも寝つきが悪くて」
言い訳のような言葉にも嫌な顔一つしない二人はワゴンを押しながら部屋に入ってくる。
この二人は私の部屋付きのメイドさんということもあって渡り人だということは既に話してある。お屋敷でそれを知っているのは他に執事長とメイド頭の二人だけ。そのお二人とはまだ顔を合わせただけでちゃんとお話ししたことはないけど、いつかお仕事抜きでゆっくり話せたらいいなと思うくらい優しそうな人達だった。その二人が私の専属メイドに推薦したのがシャーナさんとセリーヌさんで、メイド業だけでなく戦闘の方でもかなり腕がたつらしく護衛としてもそばにいてもらっている。
そんな部屋付きメイド兼戦闘メイドの一人、シャーナさんはおっとりとした美人さんで、赤茶色の髪を後ろで綺麗にまとめている。お仕事をしているときの動きに無駄は一切見当たらないが、柔らかい笑みや優しい口調は他人をほっとさせてくれる。
セリーヌさんは癖のない黒髪ロングを後ろで高くポニーテールにしている。高身長スタイル抜群でモデルさんのような人だ。言動はかなりハキハキしていて、キツイイメージを持ってしまう人だが話せば案外冗談にものってくれる楽しい人だ。
セリーヌさんによって大きく開けられたカーテンからは、遮られていた太陽の光が入り薄暗かった室内を明るくする。そのまま私の顔色も明るくしてくれればいいのに、若干の隈をこさえた平たい顔は眩しそうに顰められている。それを見たシャーナさんがコップに水を注ぎながら椅子に座るように促す。これから髪を結ってもらうのだ。
この二人が初めて私の専属メイドになった日。どこぞのお姫様のような待遇に私は早々に音を上げた。だってお風呂の中にまできてお世話されるんだよ? 生粋のお姫様ならともかく中身アラサーの庶民には過ぎた待遇だ。度の超えたお世話は逆に疲れるなんて贅沢を知ることになろうとは元の世界では思いもしなかったけれど。
だから遠慮ではなく、私からの要望として、最低限のことだけ助けてもらうということで了解を得たのはよい選択だったと思う。
とはいえそんな中身アラサーが、朝起きるのを他人に手伝ってもらうのはいい年した大人が頼む最低限の助けなのかと言われれば頭を抱えざるを得ないのは自明の理。だからこそ朝のこの時間は海月のお調子メーターがだだ下がりになるのだが、そんな海月にはもう慣れたものでメイドの二人は穏やかに告げた。
「ミヅキ様。せめてゆっくりとお休みになれますように、私共にも協力させてください。昨夜も寝付きにくかったようですので、今夜は安眠効果のあるハーブを枕元に置いてみましょうか」
「セリーヌの言う通りです。ミヅキ様はお着替えもお一人で済ませてしまわれますから、私共の仕事をこれ以上減らされては困りますわ。少しお寝坊さん位で丁度いいんです。さあ、御髪を整えて朝食に参りましょう! 今日からは旦那様方と一緒のお食事なんですから遅れないようにしませんとね」
にこやかにそう告げる二人に海月もやっとこさ顔を上げて向き合う。海月のためにこうしていろいろ働きかけてくれる二人を好ましく思うのは確かなのだ。今はその気持ちに感謝しよう。
幾分か明るくなった顔色で海月は前のめりでこう告げた。
「それじゃあ髪も自分で適当にやるので! 明日から起床時間をもう後十分遅くして「「それは許可できません」」......はい」
今度こそトホホと肩を落とす海月に、二人はクスリと笑みを浮かべた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おはよう、ミヅキ」
「おはようございます、ヴァン。ヴァンが一番乗りですか、早いですね」
大きなテーブルの左側、奥から三番目の席に座っていたヴァンシュベルトは、ダイニングに入って来た海月に短く挨拶をする。長い脚を組みティーカップを傾ける姿は外国風のオシャレなダイニングに合いとても絵になっていた。
白いテーブルの上には既に人数分のお皿とグラスが置いてあり、これから始まる朝食の準備に白いエプロンをつけたコックさん達が、海月が入って来た入口とは別の扉を静かに行き来していた。
促されるままに海月もヴァンシュベルトの隣の席に腰掛ける。長達が来るまでもう少しかかるらしい。君も読むか?とヴァンシュベルトが新聞のような紙の束を差し出してくれたが、うねる線と点で複雑に書かれた文字をちらりと見て遠慮しておいた。
断っておくが文字が読めないわけではない。
確かにこの世界の文字は、私が見慣れた漢字でも英字でもなかったが読み書きが可能であることは随分前に確認済みだったりする。
この世界の文字を初めて見たのは療養中、ヴァンシュベルトが暇つぶしにと持ってきてくれた幾つかの本だった。表紙に書かれた文字は漢字ほど角ばってなく、英字ほど滑らかではなかった。けれど強いて言うならひらがなが一番近い気がする。しっかりとした線となめらかな線が混じったような文字で、時たま大小様々な丸がくっ付いていたりするのだ。
文字だけでなく当然文法でさえわからないはずなのに私は何故かその本のタイトルが読めた。確か『知っておこう! 世界の怖い人食い花とその撃退方法 その1』だった気がする。何故人食い花......とヴァンシュベルトのチョイスがよくわからなかったが取り敢えず面白かったので第3巻まで読んだ。ちなみに撃退方法は私じゃどうにもなりそうになかったのでできれば人間用の対策方法も今後載せて欲しいと思う。活用するかは要検討だが。
その他にも色んな書物を読ませてもらったが古い言葉、古語で書かれた文章もバッチリ問題なく読める事実に二人で首を傾げた。世界も人種ですら違うのに言葉や文字が通じてしまう不思議にどうしてでしょうね? なぜだろうな? 不思議ですね。不思議だなと多分同じ意味の言葉を意味もなく何度も口にしたと思う。結果、読めるんならラッキーです。問題ないなら僥倖だな、に落ち着いた。
悪いことじゃないんだから問題なしと頷く二人の横でメイドさんとゼファン先生が物凄く微妙な顔をしてた気がするがなぜだ。
まあだから本を断ったのには別に理由があるのだ。その理由は......
ツイと見上げた先にはキラキラと輝くシャンデリア。どんなにお偉いさんと高級店で会食をしてもこれだけ立派なシャンデリアの下で食事をしたことはない。周りに溢れる調度品も海月の緊張を誘うため本を読んでも集中できるとはとても思えないのだった。
———うーん......今更だけど本当に立派なお屋敷だわ。長って言うから、村長とか町長とかそのくらいの立場の人かなぁって勝手に思ってたけど、これはもう貴族と言っても差し支えないんじゃなかろうか......。
綺麗に並べられた食器と、朝から優雅なオーラを放つ隣の人物に緊張を隠しきれない。あまりに元の世界と、いや元の生活とはかけ離れた環境に今更になって礼儀作法やらテーブルマナーまで心配になってくる。
お茶会に呼ばれたとはいえ、こうしてロルクロース家の人たちとちゃんとした食事をとるのは初めてのことだ。今までは部屋で運ばれてきた食事を一人で黙々と食べていたから、誰かと一緒に食べることができるのは素直に嬉しいと思う。けれど、やはり育ちの良い人たちの前で食べるのは緊張するものだろう。
失礼なことがないといいけど、とピカピカに磨かれた綺麗な食器から視線を外す。まだ二人しかいないダイニングで食事を運ぶワゴンの音に耳を傾け緊張を紛らわせていると、そういえばヴァンシュベルトとは食事をしたことがあったんだなと思い出した。
まあ一緒に食事と言っても食べていたのは私だけで、しかもその彼にアーンで食べさせてもらっていたという苦い注釈は付くが。
静かに読み物に視線を向ける隣の人物を、ちらりと横目で盗み見る。
怪我人だったとはいえ、よくもまあこんなイケメンに食べさせてもらっていたよなと変な感慨が押し寄せてくる。一生に一度にあるかないかの経験だったと、その時のことを思い出して小さく笑った。
———最初は大きい声で怒鳴られたし、威圧感もあって怖い人だと思ったんだよね。嫌々お世話をしているわけではないんだろうなってことはわかってたけど無表情だから心配になるし。それでもずっと看病してくれてたあたり、律儀というかなんというか......いい意味で意外性のある人だなとは思ったけど。
初めてヴァンシュベルトと会話をしたとき、若者らしくない平坦な言葉の羅列に初めは距離を感じたものだった。背も高く体格もいい彼の表情は無表情からあまり変わることはなく威圧感を感じたのも確かだった。
けれど元の世界のことを無理に聞こうとはしない心遣いだとか温かい優しさを持つ人だとわかるのに時間はかからなかった。一見するとわかりにくいものだが、押し売りしない優しさは一緒にいてとても居心地がいいもので、私も余計な感情なしに自然と言葉が出てきたりする。双子ちゃん達にも慕われて良いお兄ちゃんみたいだから、顔に似合わず面倒見がいいのかもしれない。
そんな彼に私はとてもお世話になっているのだなと考えていたら長いこと見つめすぎたらしい。視線に気づいたヴァンシュベルトとバチっと目があってしまった。しまったと思ったがここで目を逸らすのは失礼な気がしてパチパチと瞬きを繰り返す。だけどそれもやはり不自然なもので、読み物をテーブルに置いたヴァンシュベルトが海月に声をかけてきた。
「どうかしたのか、ミヅキ?」
「あ、いえいえ、別に何でもないんですけど..................あー、その、テーブルマナーとかあんまり自信なくて、心配だなぁって思っただけです。たぶん元の世界とは違う作法もあるでしょうし」
まさか『貴方のことを考えていました』なんて馬鹿正直に言えるわけがないが、じっと見つめる目は何でもないじゃ許してくれそうになくて、結局さっき不安に思ったことを口に出してしまった。
皆さん大目に見てくれるだろうしおいおい覚えていけば良いことだと割り切ってるから、緊張こそすれ実を言うとあまり心配していないのだけど。
しかし、ヴァンシュベルトはそれを聞いてふむと口元に手を当てて考えるそぶりを見せた。本当は大して気にしてないことなのに頭を使わせてしまって申し訳なく思っていると、ヴァンシュベルトがなにやら言葉を紡ごうと一旦口を開いた。だがそのまま何も言わずに口を閉じてしまったのを見て海月はどうかしたのだろうかと首を傾げる。
ヴァンシュベルトは暫くじっと海月を見ていたかと思うとおもむろにその口元を面白そうに歪めた。
「そうだな......教えるのは構わないが、流石に今説明したところで付け焼刃にもならないだろう。父上たちもそろそろいらっしゃるだろうからな」
なぜ面白そうな顔をしているのかはわからないが、言ってることは正しいのでそれもそうだと頷き海月も返事を返す。
「はい、そうですね。だから今日のところは目を瞑っていただけると」
「だが、いい方法があるぞ。ミヅキ」
助かりますと続けようとした言葉はヴァンシュベルトの言葉によって遮られる。今日はよく言葉を被せられる日だな。
「はい? いい方法ですか?」
首を傾げる海月に更に笑みを深めたヴァンシュベルトはそうだと頷きながら自分の目の前に置かれているスプーンを持ち上げる。そしてそのまま訳もらわからず眺めている海月にスッとスプーン近づけた。
近づけられたスプーンはちょうど海月の口元あたりでピタリと止まる。そのスプーンの上には何も乗せられていないのにまるでその中身を零さないようにスプーンは水平に保たれている。
「......(おい、なんか見覚えがあるぞ??)ヴァ、ヴァン? まさかとは思いますが......」
嫌な予感にスプーンとヴァンシュベルトを交互に見やる。つい先ほど余裕綽々で笑っていた記憶がぶり返し、再び私に圧し掛かる。知らぬ間に引き攣った頬を隠す間もなく、にやりと笑ったヴァンシュベルトは海月の顔の前でスプーンを小さく揺らしながらこう言ってのけた。
「また俺が食べさせればミヅキが作法を気にする必要はない。そうすれば何も問題はない、だろう?」
「な、ないわけがないでしょう!?」
———こ、この男......! 私がアーンされるのを恥ずかしがってたのをわかってやってるな!
片方だけクイッと上がった口角が今は憎らしくて仕方がない。いつもの無表情はどこに捨ててきたと言わんばかりの挑発的な笑みに、海月の頬はヒクリ、ヒクリと引き攣る。
「一体どこからそんな突拍子のない考えが浮かんでくるんですか! それなら潔くテーブルマナーを間違えた方がマシです!!」
「ふっ......そうか? 良い案だと思ったんだがな」
「ならもう少し説得力のある顔で言って下さいよ! もう! 揶揄うのもいい加減にしてください!」
恥ずかしくて大きな声を出す海月にヴァンシュベルトは更に笑みを深める。
ゆらりゆらりとなおも口元で揺れるスプーンを没収しようと手を伸ばせばおっと、と言いながら腕を引っ込まされた。
ヴァンシュベルトよりも明らかに短い海月の腕では限界まで伸ばしたところで届くわけもない。それすらもなんだか腹立たしくて、海月はプイっとそっぽを向いた。子供っぽい態度だと自分でも思わなくはないが、なんだか酷く揶揄われている気がしてならないのだ。体は幼くとも中身はヴァンシュベルトよりも約十は年上なわけで、こんな揶揄いを受けるような年では断じてないのだと態度で示す。
けれどそっぽを向いた先で、壁際に控えているセリーヌさん達がくすくすと微笑ましそうに笑っているのに気づき流石に恥ずかしくて下を向いた。
この恥ずかしさをもたらした張本人といえば背を向けた先で私に向き合うために椅子の向きを変えたらしい。小さくギッと椅子の動く音がした。
こうなったら何が何でも振り返ってやるもんかと密かに拳を握る海月に、意外にも揶揄いなんて微塵も含んでない穏やかな声がその名前を呼んだ。
「ミヅキ」
少しだけイントネーションの違う不恰好な発音。それでもその声音はこっちを向いて欲しいという彼の思いを全て代弁しているかのように私の視線を彼に運んで行った。
そして私は彼に視線をやったことを後悔する。
「悪かった、ミヅキ。......怒ったか?」
再度聞こえた声は、口数の少ない彼らしく短く簡潔な言葉だけ。だけどいつもよりずっと静かで私の耳に心地よく響く。そしてその声も目も、驚くほど優しい。それは例えばネル君とレティちゃんを抱き上げている時に彼が双子達によく向けていたものだったと思う。可愛くて、愛しくて仕方ないというような温かな笑みは見ていて大変微笑ましかったが、いざ自分にそれが向いているとなるとそうも言っていられない。だって彼はなまじ顔がいいのだ。美形にこんな表情を向けられても何故!? と混乱するしかないのは私に美形耐性がないからだろうか。言い値で買うのでできれば早急にインストールさせて欲しい。
兎に角理由がわからない。
どうしてこんなに......だ、大事な人に向けるような表情を私に送るのかその理由がさっぱりわからないのだ。
看病している時も暇に付き合ってくれた時も彼は確かに優しかった。それは間違いないのだが、今向けられているのはもっと、ずっと温かな何かで……それとも私が気づかなかっただけで昨日のお茶会でも彼はこんな顔をしていたのだろうか。
一生懸命記憶を巻き戻してみたが、貸してくれたハンカチの柄しか思い出せなかった。私の馬鹿。
別に甘い言葉を囁かれたわけではない。怒り、子供のように落ち着きのない私を宥めるような言葉だ。それなのにその目がなにやらそれ以外の何かを持って私に伝えてこようとするから私の視線は再び遠くへ逃げるしかなくなる。
顔に集まる熱はきっと耳まで赤く染め上げているのだろう。普段は隠れている耳が今朝ハーフアップにしたことで丸見えなのを思い出して消えたくなった。
答えを促すように再度呼ばれた自分の名に、口をついて出た言葉は可愛げのないもので、これじゃあ私が本当に子どものようだと内心頭を抱えた。
「べ、別に怒ってません! 揶揄われてるみたいで嫌だっただけです!」
「それはすまなかった。楽しくてつい、な」
「私は全然楽しくありませんでしたけど!?」
勢いつけて出た言葉にクスリと笑われてしまった。突っぱねた言い方は相当余裕なく見せたのだろうと思うとやっぱり目を合わせていられなくなった。
再び視線が外れた海月にヴァンシュベルトはちょっと困ったように笑って言葉を続ける。きっと私がまだ怒っているか拗ねていると思ったのだろう。弁解するような口ぶりで、彼にしては少し淀みのあるぽつぽつとぎこちなく出てくる言葉だった。
「すまない。君は、誰にだって礼儀正しいし、配慮を忘れないだろう。俺にだって、弟達にだって、屋敷の使用人にだってそうだ。そしてその分遠慮して、子供のように泣いたり、理不尽さに怒ったことは一度もない。......けれど初めて庭に出てみた時や、食事を口にした時の顔を見れば、君が俺よりもずっと心が豊かな人なんだってことはわかる。君が弱い自分を抑えようと努力していることも、一人で泣いていたのも知っているから、それが余計に心苦しく思う」
ヴァンシュベルトの口から出た言葉は本当に思いもよらないことばかりだった。私は否定の言葉すら出ないほど驚いてしまい、ただただヴァンシュベルトの言葉を拾っていった。
まさか傷の手当をしたり、庭に出てみようと誘ってくれた裏で、彼がそんな風に考えていたなんて、私は微塵も考えたことはなかったのだ。
いつの間にか合わさっていた視線に、ヴァンシュベルトは目を細める。
「だからだろうな。君が少しでも無邪気に笑って、声を憚らずに泣いて、腹を立てて声を荒げるのを見ればどうしたって嬉しく思うんだ。それはきっと父上や母上たちも同じ思いでいると思う。まあ俺たちの勝手な思いだからミヅキには鬱陶しいものかもしれないが」
苦笑を漏らしながらもその表情はどこか楽しげで、ともすれば幸せそうな笑みにも見えた。普段滅多なことで表情を動かさない彼だからそう思うのだろうかと自問自答してみる。答えは出そうにないが、この顔を見てまだ拗ねたり怒っているようでは本当にただの子供だ。
視線を外して苦笑しながらも続くヴァンシュベルトの言葉に耳を傾け続けた。それは私に対してというより、自分の気持ちを一つ一つ確認するような口調だった。
「だから揶揄っているつもりはなかったんだが......そうだな。ミヅキを、俺はネルやレティのように大事にしたいと思っているから、やっぱりまた怒らせてしまうかもしれないな」
言われた言葉に心の中でそっかと頷く。
ネル君やレティちゃんみたいに、つまり妹みたいに思ってくれているのだと、だから少し意地悪で、あんなに優しい目をしてたんだなと納得した。
家族は小さな子供にとって世界そのもの。自分がしたことを肯定してくれる両親に、飾らずとも自分を見てくれる兄弟。その存在は時に彼らにつらくあたっても無条件で許してくれる柔らかな唯一。大人になっても、いくつになっても、家族とはそういうもの。色んな家族の形があるだろうが海月にとってはそれが家族というものだった。
腹を立てて声を荒げたり、顔を背け続けられたら誰だって少しは嫌な思いをするだろう。何をそんなに怒る必要があるんだって相手だって怒りたくなってしまう。
だけどこの人はそんな私を見ても嬉しそうに笑っている。それは昔、怒ることも笑うことも煩わしくて家を出た私に、必死に構い続けてきた弟が漸く怒ってしまいには叩いた私に対して見せた笑顔にちょっと似ている。私はあの時ほど家族の存在に感謝したことはない。
そんな家族のように、妹のように思っていると言われたのだとこの人の目が教えてくれる。
自分を守るために、保つために、今まで随分失礼な態度をとり続けていたのだと思う。一人でも頑張らなきゃと思うほど、周りと自分の繋がりを弱いものにしてしまっていたのかも。けれどこの人はそれを離さずにいてくれたのだろう。だからこそ、私は今こんなにも嬉しいのだ。
理不尽に泣いても、しようもない事に腹を立てても、機嫌悪そうにしかめっ面をしても、大きな口を開けて笑っても、この人はきっと受け入れてくれるんだ。家族に向けていた感情を、私もこの人に向けてもいいんだと言ってもらえたのだ。
頬を染めた熱とは違う、ツンとした熱さが溢れて来る前に海月は言葉を紡ぐ。
「......もういいですよ。別に最初から怒ってたわけではないですから」
「いいのか?」
驚いたような不安そうな顔が私の顔を覗き込もうと近づいてきたから、勢いよく顔をあげてハッキリと伝わるように声を出した。
「いいんです! でも、過剰な子供扱いは必要ないですからっ! これまでみたいにわからないことは聞いて、やれることは自分でやります! だから今度からは嫌なことは嫌ってはっきり言いますからね! それで頑張ってるなって思ったらたまに褒めてください。甘やかされたり、与えられるばかりより頑張れって応援してくれる方が私はずっと嬉しいんです!」
伝わればいい。それだけで十分なんだと。
そうしてくれるだけで私はこの場所で、この世界で、私らしく生きていけるんだと。
ああ、と返事をしたその人はやっぱり優しい顔をして笑っていた。細められたその青の目に、私もきっと彼に負けないくらいの心からの笑顔を見せているのだろう。
その後
「ん? でもなんで私が一人で泣いてたって知ってるんですか?」
「ん? ......さあ、なんでだろうな」
「え、ちょ、ちょっと待ってください......ま、まさかあれ見てたんですか?!~っちょっと! ねえ! どうなんですか?!」
「はははっ」
楽しそうに、それはもう楽しそうに笑う人物は、やっぱり無表情で冷たい男などではない。時に驚くほど真っ直ぐで、自分の気持ちを飾らず、偽らず、丸ごと伝えてくる。真面目な顔は案外すぐに変わってしまうのに、変わってほしいときに変わってくれない。丁寧な口調で思いやる癖に、案外押しが強くて意地悪だ。
そんな彼が、ただの優しくて面倒見のいいだけの男だという認識は即刻改めるべきだと、ゆらゆらと揺れる挑発的なスプーンを前に、固く心に誓った。
「直ちに席替えを希望しますっ!!」
「却下する」
「却下を却下!!」
「アーンしなくていいのか?」
「まだ言うか!! それはもういいですからっ!」
「大丈夫だ。ネルやレティもまだたまに母上に食べさせてもらってるから恥ずかしくないぞ」
「妹に見るとしても流石にもうちょっと上にしてくれませんかね!? せめてヴァンの2こ下とか!」
「ははは」
「なんで今笑ったの!?」




