その6
康平によって絶望させられた弘美はその翌日の昼、再び理学部の地を踏んでいた。徳海に、家までわざわざ車で送り届けてもらった礼をしなければならない。二日続けてのお礼参りである。三回目ともなれば、理学部研究棟への道のりも慣れたものだ。
弘美は己の逃げ出しそうになる気持ちを鼓舞するように、ずんずんと大股で歩いていく。研究材料として解剖されるのは怖いが、美味しい血は欲しい。今までの十八年間で出会わなかった、弘美でも飲める血の持ち主が、今後現れるという確率は低い。少なくとも同じ十八年を費やさねば出会うことはできないだろう。その頃には、きっと弘美は干からびているに違いない。徳海という存在は、弘美にとって希望の星なのだ。
――研究員がなんだ、要は信頼関係だ私!
信頼関係構築のためにも、お礼は必要事項だ。
そんなこんなで、弘美はたどり着いた研究棟の入り口にあるインターフォンを押す。
「もうし、すみませぇん」
遠慮がちに声をかけると、インターフォンのスピーカーから男性の声が聞こえてきた。
『ご用件は』
弘美は質問する前に、背筋を伸ばして深呼吸した。緊張して声が震えそうになる。これは美味しい血までの第一歩だ。
「あの、こちらに徳海さんはいらっしゃってますか?」
昨日と違って名前を知っているので、呼んでもらうことが可能だ。弘美がドキドキして応答を待っていると。
『どちらさまですか?』
なにやら相手に素性を疑われたようだ。そういえば名乗っていなかった。
「あ、私は大学の文学部歴史学科の但野と申します」
『……少々お待ちください』
そう言ってインターフォンが切れた。とりあえずは門前払いではないようだ。弘美が言われた通りに待っていると、入り口が開いた。
「お、やっぱり昨日の子じゃん」
そうして出てきたのは、昨日も会った親切な青年だった。
「昨日はどうも」
弘美はぺこりと頭を下げる。青年も白衣を着ており、昨日は確認していなかった名前のプレートには「草野翔太」と書いてあった。
「今日も徳海に用事?」
「はい、その、差し入れを」
弘美は手荷物の保冷バッグを草野に掲げて見せる。
「差し入れかぁ、いいなぁ」
草野が微笑ましく弘美を見る。正確には迷惑料のスイーツなのだが、事情を知らぬ草野に、弘美の虚弱ぶりを披露することもあるまい。
「昨日徳海も入れてたし、いいだろう」
そんな理由で、弘美は草野の手で研究棟へ入れてもらえた。
昨日は徳海の小脇に抱えられての移動だったので、研究棟内部がよく見えなかった。なのであらためて観察すると、たくさんの研究室という札がついたドアが並んでいた。草野が言うには、弘美が出入りした部屋は研究室の隣の資料室で、研究資料を保管したりデスクワークをしたりするための部屋らしい。説明を受けながら歩くその様子は、無機質で病院の廊下を思わせる。正直弘美には苦手な雰囲気だ。
――大丈夫、まだ解剖とかまではいってないから!
挙動不審にならないように、弘美は平静を装う。
こうして例の資料室にたどり着くと、青年はノックもせずにドアを開けた。だがパッと見、徳海の姿が見当たらない。きょろきょろする弘美に、草野が笑顔を見せる。
「徳海は徹夜明けでね。そろそろ起こせと言われてる時間なんだ。丁度いいから君が起こしてよ」
そう言って弘美は中に放り込まれ、ドアを閉められた。
「え、あのちょっと」
これは無断侵入になるのではないだろうか。
――寝てるって、いないじゃんか
弘美は鍵もかかっていない室内を不用心だと思いつつも、うろうろとし始める。徳海はもう自分で起きてどこかに行ったのではないだろうか。つまりはここは無人である。誰もいない教室というものは、いろいろとガサ入れしたくなるものである。
――誰かの秘密の本とかあるかも!
例えば肌色の露出が激しいおねえさんが載っている本とか。弘美はルンルン気分で捜索開始する。
がしかし、誰もいないわけではなかった。
「ひゃっ!」
布がかけられたソファを調べていると、布の中から人が出てきた。徳海である。
――徳海さん、本当にいたよ!
布だと思ったのは毛布で、徳海はそれに頭まですっぽり包まって寝ていた。本や服その他のもろもろを下敷きにしているが、痛くないのだろうか。
「徳海さーん、起きましょうよー」
弘美は徳海の耳元でささやいてみる。だが起きない、眠りが深いようだ。ふと見ると、昨日切った指に絆創膏がまかれていた。結構ざっくりいっていたようで、まだ傷口は塞がっていないのではないのか、血のいい匂いがした。
――ちょっとだけ、ちょっとだけかじるくらいはいいかな……
いい匂いはするが、味見をしてみなければ美味しいかはわからない。だが定番の首は駄目だ。血を吸い慣れていない弘美は、首から血を飲むのが上手ではないのだ。頸動脈を切って大惨事を起こす可能性が高い。なので腕に、ちょっとかじりつくのはどうだろう。だってちょっとだけでいいのだ。贅沢は言わない、なにせ最初だし。
弘美が徳海の腕に手を伸ばそうとした、その時。がしっと徳海の手が弘美の顔面を掴んだ。
「寝ている相手に、なにをしているんだお前は」
「いだだだだ……!」
手にだんだんと力が入り、弘美はギブアップを要求してバンバンと顔を掴んでいる腕を叩いた。まさかの狸寝入りとは、敵は手ごわかった。
「三日続けてお前の顔を見るとは、お前も暇人だな。こんな所、女子大生が楽しいことなんてなにもないだろうに」
ソファの上で身体を解しながら、徳海が嫌そうに言った。確かに今時の女子大生には不向きな場所だが、吸血鬼女子大生である弘美には美味しい場所なのだ。
「ひどい! 昨日送り届けてくれたお礼をしに来たのに!」
弘美はむくれ顔で保冷バックを掲げて見せた。本日のコンビニスイーツは、チョコプリンである。
「それはありがたくいただくが、その前に昼飯だ。そういやお前ちゃんと朝から飯食ったのか?」
徳海から何故か弘美の食事の心配をされたが問題ない。
「ちゃんと食べたもん、カロリーメイトと牛乳!」
胸を張った弘美だったが、徳海からデコピンされた。
「そんなもんは飯と言わねぇんだよ、アホ!」
徳海から、バランス栄養食をうたっているかの食べ物をダメ出しされた。
――貴重な栄養源だというのに、なんということだ!
驚愕する弘美に、徳海が呆れた視線を向ける。
「そんなん食ってるから、いつもぶっ倒れるんだよ! 来い!」
ということで弘美は、徳海に研究棟内にある簡易キッチンに連れて行かれた。徳海曰く、研究棟には研究員たちが泊まり込むことも多々あるので、それなりのキッチン設備が整っているのだそうだ。
「ふぉおー……」
だが、簡易キッチンを見て弘美は感動する。それなりというか、立派なキッチンであった。但野家の台所よりもきれいに整頓されているかもしれない。
そんな弘美をよそに、徳海はキッチンで冷蔵庫の中をガサガサと漁りだす。
「冷凍うどんか」
徳海が冷蔵庫から冷凍うどんを手に取った後、適当に野菜を取り出していく。そしてまな板の上で野菜を適当な大きさに切り、湯を沸かした鍋にかつお節を大量に入れている。研究施設なのにかつお節があるとは、少なくとも但野家の台所にそんなものはない。最近は顆粒だしすら買い足してない。
色々なことに驚きながら待つことものの五分で、おいしそうなあんかけうどんが出来上がっていた。
「ほれ、食え」
差し出されたあんかけうどんを、弘美はよだれを垂らしながら見つめる。
――なにこれ、お店屋さんっぽい出来上がり!
弘美が感動しつつも恐る恐る、箸をつけようとしたその時。
「お、いいもん食ってんじゃん」
そこに顔を出したのは草野だ。どうやらあんかけうどんの匂いにつられて寄ってきたらしい。なんという食いしん坊さんだろうか。
「来るだろうと思って作った、ほれ」
だが徳海が当然のように、草野にもあんかけうどんを出した。もしかしてこの草野は、いつも食事をたかっているのだろうか。
――なんてうらやましい!
それはともかくとして、あんかけうどんだ。弘美はずずっとうどんをすする。冷凍のくせに讃岐うどんのコシがきいている。かつおだしの優しい味が身に染みる。野菜が美味しい。思えば誰かの手料理は、母が転勤する父について行ったきり食べていない。
「なんか、お嬢ちゃんが泣いてるんだけど」
「は?」
研究員二人がなにか喋っているが、弘美は今それどころではない。
「まともなごはん……!!」
今の弘美には、五臓六腑に染みわたるという言葉の意味がよくわかる。
――癒しだ、これは癒し料理なのだ!!
「普段ろくなもん食ってねぇな、こいつ」
「いや、徳海の飯はうまいよ、ほんと」
感涙する弘美の隣で、研究員二人は普通にうどんをすすっていた。
それからあんかけうどんの感動に十分浸った後、徳海と二人で食後のデザートとしてチョコプリンを食べた。
「俺の分は!?」
草野が一人で騒いでいたが、これはあくまでお詫びの品であって、草野にお詫びする理由がない。自分の分を草野に進呈するという選択肢も、もちろん弘美にはない。
――できれば徳海さんの血がよかったけど、このご飯でもいいよね
徳海はとりあえず逃げないのだから、気長に行こうと弘美は自分に言い聞かせた。
そんな弘美の前で、チョコプリンをもらおうと草野が徳海にたかっていた。