その9
シャンパンぶっかけ事件の後、弘美は徳海の車で送られて家に帰ることになった。弘美としては電車で帰る気満々だったのだが、徳海が言うにはこの格好で電車に乗せるのが気の毒だそうだ。徳海に送られて帰るのは、これで三度目だ。
「アネキ、今度はなに?」
三度目となれば慣れたもので、康平はしっかり服を来て玄関まで出てきた。初めての時は半裸で徳海を出迎えたらしく、徳海も正直康平を不審者かと思ったそうだ。姉として、野生児な弟ですみませんと謝りたい。
「すまない、君のお姉さんがなにかしたわけじゃない。完全なとばっちりだ」
疑いの目を向けてくる康平に向かって、徳海がきっちりと頭を下げた。これに康平の方がぎょっとした。
「いや、あんた、いや、あなたに謝ってもらうことじゃ!」
「元はと言えば俺のせいとも言えなくはない」
徳海はそう言って再度頭を下げる。その丁寧な態度に、康平が慄いている。
「本当に、なにしたのアネキ」
康平が顔を寄せてボソッと聞いてくるが、だからこちらは被害者だと言っているのだ弟よ。
そして徳海が康平に尋ねた。
「できればご両親にも謝罪したいところだが、帰りは遅いのか?」
「え、なんで?」
これには弘美も首を傾げて尋ねる。すると徳海にデコピンされた。
「お前な、これは立派に傷害罪だぞ? 瓶の方を投げられていたら、怪我じゃ済まなかったんだからな」
そう言われると納得だ。まだ未成年な弘美だから、保護者に説明しようというのか。
だがしかし。
「両親はいませんよ、海外赴任中です」
康平の口から語られた。二人は数年は日本に帰って来ないだろう。徳海はこの答えに驚いた様子だった。
「そうなのか。食事なんかはどうしているんだ?」
「私が作る?」
弘美は徳海に思わず疑問形で答えてしまった。仕方ないではないか、暑いのが嫌で、最近台所に近づいていないのだ。
弘美の答えに不安を感じたのか、徳海が声を低くして弘美に尋ねた。
「但野、今日の朝食はなにを食べた」
「カロリーメイトと牛乳」
徳海は弘美の答えに呆れた顔をして、康平を見た。
「君は」
「バナナ」
徳海が頭痛をこらえるような仕草をした。続けて康平に質問がとぶ。
「昨日の夕食は」
「カップ麺」
「その前の日の夕食」
「ドッグ、ごほん!コンビニ飯かな」
一瞬ドッグフードと言いそうになった康平。あれは康平にとってのバランス栄養食なのだが、人様に言うわけにはいかない。虐待を疑われる。だがどのみち、弘美は徳海に叱られた。
「お前は、なにしているんだ!そんなものばかり食ってるから、いつもヒョロヒョロしているんだろうが!」
そう言って徳海がガシッと弘美の頭を掴んだ。メリッっと力が込められるのがわかる。
「痛い痛い!」
悲鳴を上げる弘美を無視して、徳海は康平に向き直る。
「君も! ダメ姉に頼っていないで、自分でなんとかしようと思え!」
徳海からダメ姉呼ばわりされた挙句、康平に飛び火した。だが康平は弘美以上の面倒くさがりで、いっそ生のまま食べればいいと考えてしまうのだ。野生児な弟で申し訳ない。
「君!」
「あ、康平っす」
「康平はなにが食べたい?」
これに弘美が歓声を上げた。
「え、作ってくれるの!?」
が、またもや弘美の頭を掴んだままの手に力が籠る。
「育ち盛りの高校生に、十分な飯を食わせるのは大人の責務だろうが!」
「痛い痛い痛い!」
二人でこんなことをしていると、康平が食べたいメニューを発表した。
「かつ丼、俺かつ丼が食べたい!」
かくして、但野家姉弟の悲惨な食生活を知った徳海は、食事を作ってくれることになった。だがすぐに、但野家の冷蔵庫にろくな食材がないことに絶望した徳海が、車を出してスーパーまで買い物に行くことになる。荷物持ちで康平も付いて行った間に、弘美はシャワーを浴びた。まだベタベタした感触が残っていたのが、これですっきりした。
***
康平は徳海と二人で買い出しに行くことになった。但野家の冷蔵庫に、徳海が望むものがなにもなかったからだ。最近レトルトばかり食べていたから当然かもしれない。
徳海の車は、独身男が乗るにしては大きな車だった。研究のための採取に行ったりするので、大きな車が便利なのだそうだ。
そしてスーパーで買い物を終えた帰り道でのこと。康平が学校でのことなどを話し、徳海とそこそこ打ち解けてきた時。
「徳海さんは、姉が面倒ではないっすか?」
康平は思い切って尋ねた。姉が徳海の元へと足しげく通っているが、姉から徳海のリアクションの話を聞いたことがない。
――やっていることが、まるで男に貢いでる女みたいなんだよなぁ。
康平は姉を心配する弟として不安であった。なんと言っても徳海は、姉の希望なのだ。
徳海はしばし無言だったが、やがて前を向いたままぼそぼそと言った。
「面倒というか……、どうしてあいつが俺に会いに来るのかわからん」
そう答える徳海は嫌そうというよりも、心底わからなくて困っているという様子だった。ひょっとして姉が腰が引けているせいで、はっきりとした意思表示ができていないのではなかろうか。
――しっかりしろよ、アネキ!
康平としてもこういうのは、他人が口出ししてはいけないのではと思う。だがそれでもなにか言わずにはいられない。
「もし徳海さんが姉が嫌いではないのなら、姉を構ってやってほしいです」
徳海との心の距離を縮めるのは姉の役目だ。だから康平にできるのは、援護だけ。
「いろいろと謎だと思いますが、俺の大切な姉なんです」
徳海が一瞬ちらりと康平に視線をよこした後、「フン」と鼻を鳴らした。





