その7
夏季休暇も半ばを過ぎ、夏の暑さも盛りを迎えている頃。弘美は草野からある情報を得ていた。
「実は明後日、徳海の誕生日なんだよね」
「なんですと!?」
そのような徳海の人生の重要イベントを、無視するわけにはいかない。誕生日をともに過ごすなんて、仲の良い証ではないだろうか。
そうとなればちょっとした誕生日ケーキくらい用意したいが、なにせ相手はあの徳海だ。買ってきたケーキを口にしてくれるかは賭けになる。そう悩む弘美に、草野が以前徳海が食べたことのあるケーキ屋を教えてくれた。
そこのケーキ屋で、イチゴのショートケーキと桃のババロアケーキの二つを買った。夏の暑さで傷まないように、箱にドライアイスを入れてもらい、それをさらに保冷バッグに入れるという二重の対策だ。抜かりはない。
――これでちょっとは、仲良し度が進むよね!
弘美はホクホク顔でいつもの研究棟までの道を歩いて行く。そして入り口のインターフォンを押そうとした時、中から走り出てきた人影とぶつかる。
「うわっ!」
弘美がケーキを落とさないように死守する一方で、相手は派手に転んだ。
「大丈夫ですか……」
弘美は声をかけるためにその人物を見て、驚いた。
――藤沢さん!? 香水臭くないから気付かなかった!
そう、弘美の目の前で転んでいるのはあの藤沢だったのだ。しかも一体どうしたことか無臭だ。弘美が藤沢と面と向かって顔を合わせたのは、これで二度目だ。だがお互いに、名乗りあってすらいない仲だったりする。
――どうする、手を貸すべき!?
弘美がどう行動すればいいのか迷っていると、藤沢がゆらりと立ち上がった。そして何故か手にもっていた酒瓶らしきものを掲げる。
――え、なに?
なにが起こっているのかわからず弘美が戸惑っていると。シュポン、と小気味良い栓が抜けた音がした。それと同時に中身が勢いよく吹き出し、その目の前にいた弘美の頭から降り注いだ。
「うぎゃっ!」
酒をまともに浴びた弘美は、全身ずぶ濡れだ。
――お酒臭い! ってかこれシャンパン!?
弘美の鼻を、アルコールの臭いが直撃した。おまけに酒で濡れたせいか、服がベタベタする。弘美はしばし呆然とするが、視界に藤沢の姿が入り、噛みつくように文句を言う。
「ちょっと、なにするの!」
藤沢からこのような仕打ちを受ける理由など、弘美にはこれっぽっちもないはずだ。だがこれに、藤沢がものすごい形相で睨んできた。
「あんたが、あんたが!」
その藤沢の様子はいつもの自身溢れる姿ではなく、まるで鬼女のようだった。
「あんたに京谷さんのなにがわかるっていうの! 私ならあの優秀な頭脳のサポートを完璧にできるわ。どんなわがままを言われても、愛してあげる! 京谷さんの隣にふさわしいのは、私なのよ!」
真っ赤な顔で怒鳴り散らす藤沢に、弘美はすうっと目が座った。
それがどのくらいの熱量で語られている思いなのか、弘美には理解できない。だがものすごく、カチンときた。愛しているというのは、そんなにエライのか。それは弘美の血が飲みたいという欲求よりも、崇高なものなのか。
いや、そんなお綺麗な建前なんてなくていい。この血が飲みたい欲求は、もっと切実なものなのだ。
「好きとか愛してるとか私はわかんないけど! 私は徳海さんがいてくれなきゃ、人生とっても困るんです!!」
これだけは、弘美の掛け値なしの本音だ。
入り口で女二人が怒鳴り合えば、研究棟の中にいる人間がだれかしら気付くものだ。この騒ぎに、研究棟から人が出てきた。
***
また鍵を掛け忘れたことに気付いたのは、人の気配がしたからだ。仮眠することは他の研究員たちには伝えてあるので、彼らではないだろう。となると京谷の研究室に出入りしようする人物に、心当たりは二人しかいない。そしてあの香水の匂いがしないことから考えて、犯人は一人だ。
なにがしたいのか知らないが、いつもコンビニで買ったデザートを手土産に、京谷の昼の休憩時間を狙ってくる但野弘美という女。中学生のような見た目だが、うちの大学の学生だという。何故京谷なんかに懐いてきたのかわからないが、とりあえず研究の邪魔だけはしないようなので、好きにさせている。
京谷が未だ夢現でいると、なにやらもごもご言いながら毛布を剥いできた。但野はいつもおかしな起こし方をするので、今日もそれだろう。京谷はもう少し眠りに浸りたくて、文句を言って振り払った。だが。
ガシャン!
ガラスの割れた音がして、京谷は急激に目を覚ました。ビーカーの類など、そのあたりに置いていただろうか。但野が出入りするようになって、とりあえず割れたりして危険なものは排除していたはずだ。
急に活動し始めて頭痛のする頭をさすりながら、京谷はソファの上に起き上がる。物が乱雑に置いてあったテーブル周辺がすっきりと片付いており、代わりに割れたグラスが二つと小さな包みが、床に落ちていた。
「……なんだ?」
但野がいると思っていたが、室内には誰もいない。ひょっとして怪我でもして、手当のために出て行ったのだろうか。それにしてもこのグラスはなんだろうか。この部屋にはないものだ。わざわざ持ち込んだのだろうか。それにしては、なにか違和感がする。とりあえず徳海は但野を探して廊下に出ると、綾川と出くわした。
「徳海くん。今藤沢さんとすれ違ったけど、すっごい顔してたわよ。なんか言ったの?」
「は、藤沢?」
予想していたのと違う人物の目撃情報に、京谷は眉を顰める。綾川も京谷の反応に、なにかおかしいと思ったようだ。
「会ってないの? てっきり徳海くんのところから出てきたと思ったのだけど。そういえば彼女、珍しく香水をしてなかったわね」
京谷も綾川の話に考え込む。藤沢は香水をしていなかったらしい。だとすると、ひょっとして京谷が但野だと思ったのは、藤沢なのかだろうか。あの時半ば寝ぼけていたので、なんと言って振り払ったのかあまり覚えていない。
「藤沢、どこに行った?」
「外に出て行ったみたいだけど」
正直出て行ったのならば放っておいてもよかったが、気になった京谷は藤沢を追って外に向かう。





