その3
綾川の元を去った弘美が隣の資料室を覗くと、徳海が白衣を脱いでいた。香水臭いのが移ったのだろう、弘美のところまで臭ってくる。
「やっほ」
声をかけると、徳海が白衣を着替えながら、ちらりと弘美を見た。
「ここの前で暇してたら、綾川さんにお茶に誘われた」
「そうか」
徳海は藤沢とのやり取りで疲れたのか、いつにもまして言葉数が少ない。けれども帰れとは言われていないので、弘美は中に入った。徳海が黙ってコーヒーメーカーをセットしたので、弘美はいそいそと保冷バッグからコンビニスイーツを出す。
「ほら、疲れた時は甘いもの! って前にも言ったねこれ」
「その時も、あの女が来た後だったな」
徳海が小さく笑った。
――スイーツ効果だね!
徳海の機嫌が上向いてくれれば、この夏みかんゼリーも本望だろう。
徳海がコーヒーを二人分入れて弘美にカップを片方差し出すと、どさりとデスクのイスに座った。そして弘美から受け取ったゼリーを食べながら、ぽつりと零した。
「あの女もなんで俺に執着するのか、さっぱりわからん」
心底参っている様子の徳海に、弘美は首を傾げる。徳海と藤沢のあの様子では、浮気男と愛人の図だ。決して正妻ではない、そういう後ろ暗い関係図な雰囲気なのだ。
「あの藤沢さんって人、前からああなの?」
徳海も弘美の言わんとすることを察したのか、疲れたように首を振った。
「ここ最近だな、藤沢の態度が急にひどくなったのは」
藤沢とは以前はいたってビジネスライクな態度であり、ちょっとしつこいという程度の印象しかなかったのだそうだ。それが先日いきなり付き人を気取って資料室を片付けてみたり、待ち伏せして徳海を食事に誘ってみたりと、やることがビジネスを通り越しているのだという。
「今、上からも会社に抗議してもらっている。さすがに邪魔だからな」
「ふぅん、大変だね」
弘美の年頃でも、粘着質な女子というのはいるものだが、大人でも同様であるらしい。これに仕事が絡むから、たぶん事態がややこしくなるのだ。社会人は大変である。
「お前は、なんで俺に会いに来るんだ?」
弘美が他人事に考えていたら、こちらにもお鉢が回ってきた。だが血が欲しいから、と正直に言うわけにはいかない。
「えっとね、目的はちゃんとあるんだけど、今それを言う時じゃないかな」
徳海が弘美に血を飲ませてくれるくらいに打ち解けたら、言うことである。今言ったら解剖一直線だ。
「もうちょっと、徳海さんと仲良くなったかな、と思ったら言う。あ、お金貸してとかじゃないからね!?」
弘美は自分でも詐欺っぽい物言いだと思って、慌ててそこだけは主張する。
「なんにせよ、物好きだな」
徳海がぐびっとコーヒーを煽るように飲んだ。それが不機嫌なのか照れ隠しなのか、もさい前髪に目元が隠されているせいで、弘美には判断がつかない。
――あの前髪のせいで、きっと人生半分くらい損している気がする。
弘美がそんなことをつらつらと考えていると、徳海が弘美の顔を間近で覗き込んできた。
――なに!?
いくら相手がもさくても、年頃の男である。弘美はどきりと胸を鳴らす。
「但野お前、顔色悪いぞ」
どうやら徳海は、弘美の顔色を観察していたようだ。
「そうかな?」
弘美は自分でもペタペタと顔を触ってみた。先ほどの香水のダメージが尾を引いているのかもしれない。徳海が妙な心配をしてはならないので、弘美は原因を口にした。
「ちょっとあの人の香水が、臭かったかな」
なにせ直に吸ったのだ。帰ってシャワーを浴びねば、康平にも害が及ぶかもしれない。あの臭いは但野家の姉弟にとってはもはや公害である。
「お前に倒れられたら、今日はさすがに責任を感じる。送ろう」
徳海が白衣を脱いで、机の上から車のキーを手に取った。
「徳海さん、お仕事は?」
今もどこからか帰って来たばかりだというのに。気にする弘美を徳海が小突いた。
「心配しなくとも、とりあえずひと段落ついている。今日は資料を軽くまとめて帰ろうと思っていたところだ」
それが本当なのか言い訳なのかは知らないが、徳海の好意であることは確かだ。
「じゃあ、お願いします」
香水ショックは確かにきつかったので、弘美は大人しく送られることにした。
それから弘美が徳海に送ってもらって家に帰ると、案の定康平から邪険にされた。
「アネキ、臭い!」
そう言って後ろ足で砂をかけられる勢いだった。相当臭かったらしい。二次被害を被った康平にはお詫びとして、リクエストにより総菜屋のメンチカツを進呈させてもらった。
***
藤沢怜は今年三十五歳になる、ヘッドハンティング会社のエージェントだ。今まで有能な人材たちを、その才能にふさわしい境遇へ救い上げてきたという自負がある。
徳海京谷という研究者も、もっと設備の整った施設で、世界に通用する研究を生み出していくはずである。自分の目は確かなのだ。藤沢の説得をのらりくらりとかわしている京谷も、もうじきこちらの説得を聞き入れる手はずだったのに。
それが最近になって、京谷の周囲をうろちょろする存在が出た。その女について聞き込みしたところ、相手は京谷が所属する大学に在籍する女子学生で、時折京谷が手作りの昼食を振舞っている場面が目撃されている。
――京谷さんの料理を振舞われるですって!?
誰とも知れない女が京谷に料理を作るのも当然許せないが、京谷の手料理を強引に強請るとは、なんと図々しい。大学の学生であるという身分を利用して、京谷の研究の邪魔をする許せない女。聞けば文学部だというではないか。理学のなんたるかも知らないで、ミーハー心で研究員に近づくとは。頭の軽いとしか言いようがない。きっと迷惑しているに違いない京谷を、自分が救ってやるのだ。藤沢はそう心に決めていた。
今日も藤沢がアピールのための香水を多めに振りかけてやって来ると、研究棟入り口で中学生らしき女の子を見かけた。その子が草野という研究員に連れられて中に入っても、誰か家族に届け物にでも来たのだろうと思っていた。その後京谷につれなくあしらわれても、いつもの可愛いじゃれ合いである。
もう一度京谷に声をかけようとしばらく待っていた、その時。
京谷の乗る車が駐車場から出てきた。その車を呼び止めようとして、藤沢は固まった。
車の助手席に乗っていたのは、あの中学生の女の子だった。
――いや、もしかするとあれが話に聞いていた但野弘美!
この自分の目をかすめて京谷に近づくなんて。なんという厚かましい女。
「あの小娘が……!」
ギリ、と藤沢は唇を噛み締めた。
「京谷さんの隣にふさわしいのは、私なのよ!」





