その5
「仕方ねぇ。恨みはねぇがアネキのために、ちゃっちゃと昇天してもらおう」
康平が茂みから素早く抜け出すと、幽霊はそれに反応し、ゆらりとこちらを向いたように見えた。その幽霊に対して、康平は身体を震わせる。
「……ウゥオォン!!」
康平が吠えた。実際目の前の幽霊は、風に散ったように薄まる。
「よっしゃ!」
これであっさり解決かと思いきや。
スウゥゥッ……
幽霊は散った己の影を集めて、再び濃くなった。
「うぉ、耐えるとかすげぇ。普通これで消し飛ぶのに」
康平が目を丸くする。
「うがぁ、生意気!」
弘美が両手を握りしめて悔しがっていると、幽霊の白い影が震え出した。
「お、なんか反撃するの?」
弘美が構える康平の背後に隠れながら様子を伺うと、幽霊はどうやら研究棟の方に近寄ろうとしていた。よくよく見ると研究棟から誰かが、こちらに向かって歩いてくる。
――もしかして、徳海さん!?
こんなタイミングで現れたことに、弘美は焦る。昼は木陰から出ることの敵わない幽霊も、夜の闇の中を滑るように移動する。
「康平、アイツよりも早く対象の徳海さんを確保!」
「おし!」
康平が地を駆け、幽霊を追い抜いてその者に迫る。
「うわぁ!」
突然襲い来るデカい犬っころに驚いた、徳海らしき人物が尻餅をつく。
「ウゥオォン!!」
康平がもう一度幽霊に向かって吠えたら、先に徳海が気絶した。幽霊は一瞬その姿を散らすも、先ほどと同じく再び影を濃くする。
「がんばれ康平!」
弘美は木陰に隠れてコソコソしながら応援する。万が一意識を取り戻した徳海に弘美が発見されれば、この場でこんなでっかい犬を連れて、なにをしているかの説明が面倒になる。
「……ぅん?」
しかしこの時、康平が何故か動きを止めた。それどころか、追い付いた幽霊が徳海に纏わりつこうとするのを黙って見ており、邪魔しようとしない。
「なにしてんの康平、追い払って!」
「いや、アネキよぅ……」
弘美が怒鳴ると、康平が困ったように尻尾を振り、足元に寝転がる徳海を前足で突く。
「なにしてんのよ!」
弘美は徳海が動き出さないか気にしながら、ぷりぷり怒りながら近づくと、気絶して寝転がる徳海を目にすると……
「誰これ?」
弘美は康平に尋ねた。目の前に転がっているのは、知らない男だった。前髪がもさくなく、普通なイケメンだ。
「アネキが知らねぇ奴を、俺が知るか」
康平が器用にも、狼の肩を竦めてみせる。
徳海ではない見ず知らずの男に纏わりつく幽霊が、弘美たちを威嚇するように影を震わせる。
「……お邪魔しました。続きをどうぞ」
「どーぞ」
弘美がぺこりと頭を下げ、続いて康平も器用に狼頭を下げると、二人は幽霊から距離をとる。
幽霊はようやく邪魔者が消えたと安心したのか、気絶した男の上に乗っかって、攻撃をするように影を揺らす。あれが生身ならば、マウントポジションでボッコボコにしているところだろう。しかし生身ではないので、実際に危害を加えることはできない。だが……
「やめてくれ、もう助けてくれ」
男の口からそんなセリフが漏れ出る。どうやら夢の中で、フルボッコを体験しているようだ。
生きている人間に干渉するのは、幽霊でも相当の執着が必要である。人狼の咆哮に耐えたことといい、この幽霊は相当に執着を溜め込んでいたようだ。
「うーん、執念だな」
康平が神妙な顔で唸った。
「すまない、俺が悪かった……」
男がうわごとで謝罪を繰り返すようになると、幽霊は満足したのか、すうっと男の上から離れた。
「お、終わったか?」
見学も飽きていた康平が、クワッと大あくびをする。
幽霊の白い影が夜空に昇っていき、キラキラと輝くと、やがて影は薄くなり、最後には消えてしまった。
「おぉー、昇天した」
滅多に見ない光景に、弘美は思わず拍手をする。
そして後に残されたのは、姉弟二人と見知らぬ男。
「……帰ろっか」
弘美はそう言うと、康平の背中に乗った。帰りは急がないので、ちょっと遠回りして散歩をしてもいいだろう。
「結局、俺らはなにしに来たんだ?」
「いいじゃんか、徳海さんは関係なかったみたいだし」
そんな呑気なことを言いながら、二人はその場を去っていった。
見知らぬ男を助けることなく。





