その1
但野弘美18歳は、この春ぴかぴかの大学一年生になった、将来に夢も希望も詰まっている乙女である。
そんな夢見る乙女はキャンパスライフを満喫して、大勢の友達にかこまれて、彼氏なんかもできたりして、まさにこの世の春を満喫して……はいない。一人さみしく、トボトボと大学構内を歩いていた。
ふらふらと歩く弘美を見た、通り過がりの学生が呟くのが聞こえた。
「なんで中学生がいるの?」
「中学生違う!大学一年生!」
弘美は即座にそれを言った奴の方を向いて、くわっと歯をむき出しにして反論する。相手はこちらの剣幕にびびったようで、そそくさと退散していく。
「どうせ、どうせチビだい……」
重い足取りが、さらに重くなる。
弘美はお世辞にも大人っぽい見た目ではない。先ほどの学生の指摘は正しく、ぱっと見中学生にしか見えない。成長が止まっているとしか思えない弘美は、今年高校一年生になった弟と並んでいると、兄妹に見られる。非常に屈辱である。弘美の両親も弟も背は高く、オマケに美形だ。なのに弘美本人は見た目中学生で容姿も平凡ときている。この違いはなんだ、両親の遺伝子は弘美の中でいまだ目覚めていないというのか。
それに加え、今の現状の通りゾンビの動きしかできないくらいに、弘美は身体が軟弱だ。その原因はといえば。
「それもこれも、現代人の血が美味しくないのがいけない……!」
誰にも聞こえない声で、弘美は愚痴を零した。
なにを隠そう弘美は吸血鬼である。冗談ではない本気の話だ。吸血鬼の父と狼女の母との間に生まれた、立派な吸血鬼なのだ。見た目完全に日本人なのだが、掛け値なしの真実だ。人の生き血をチューチューとすすりますとも。だが日の光を浴びて灰になったりもしなければ、にんにくが苦手だったりもしない。にんにく料理は大好きだ。
そんな現代の吸血鬼である弘美は、普通のご飯も美味しく食べるが、人の血だって立派な栄養源である。だがしかし、その血を飲むのが苦手な弘美は、吸血鬼の中でもみそっかすなのだ。
――だって、どうして現代人の血は臭いのだ……!
狼女を母に持つためか、弘美は吸血鬼のわりに鼻がいい。それゆえに現代の飽食とサプリメントに慣らされた人間の血は、とても臭く感じるのだ。その上とてもまずい。ある血は非常に脂っこく、またある血は甘酸っぱいを通り越して酸っぱいばかり。そしてまたある血は薬臭い。青汁だって美味しく飲める時代だというのに、あれはない。現代人の血はまさに昔のまずい青汁だ。
――あんなまずいもん、もう一杯だって飲みたくないやい!
こんなわけで、弘美は貧弱なみそっかす吸血鬼の呼び名を甘んじて受けているというわけである。
そんな貧弱吸血鬼である弘美が現在歩いているのは、理学部の敷地である。
「遠い、遠いぞ理学部購買……」
肩を過ぎたほどの長さの髪をだらりと垂らし、まるでゾンビのような足取りで歩みを進める弘美を、他の学生は遠巻きに眺めるだけである。
弘美が向かっているのは理学部内にある購買である。しかしながら、弘美は理学部の学生ではなく、文学部で歴史を学んでいる。
文学部のある敷地と理学部と工学部のある敷地は、大きな通りを挟んで校舎が分かれている。そして購買は文学部の敷地の中にもちゃんとある。即ち、文学部学生であり理学部に知り合いなんぞいない弘美が、理学部の敷地に入る機会などあるはずもない。
では何故、弘美がこうして理学部を歩いているのかというと、頼みごとをされたからだ。
現在巷で、理学部の購買で売られているオリジナルブレンドのコーヒー豆が、安いのに非常に美味しいと評判らしい。なんでも理学部の人間が個人でブレンドして飲んでいたものが、あまりの美味しさに商品化され、理学部購買でしか手に入らない幻のコーヒーという噂が広まっているとか。
どこからかその話を聞きつけた弘美の弟に、買ってきてくれとせがまれたのだ。
同じ大学構内であると思い、その時は安易に頷いてしまった自分を、弘美は今恨んでいる。
「うちの大学って、なんでこんなに広いの……」
春は過ぎ去りゴールデンウィークも過ぎて、だんだん夏じみていく日差しが鬱陶しい。暑い、とにかく暑い。弘美は一歩ごとに溶けていきそうだ。
こうしてゾンビ吸血鬼が、理学部の購買を求めて敷地を彷徨っていると、木陰にあるベンチでのんびり休憩中の白衣の人間を発見した。こちらに背を向けているのだが、体格から見て男性だろう。
「おおぅ、救いの神……!」
砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、弘美はふらふらとそちらに吸い寄せられる。実は歩くうちに自分の現在地及び購買の場所がわからず、迷子になっていたのだった。
「もぅし、たのもぅ……」
搾り出すように声をかけた弘美に、白衣の男性はびくっと方を揺らした。
「……中学生? 真昼の怪談か?」
「大学一年生!」
男性の呟きに弘美は条件反射で、唾を飛ばす勢いで反論した。それがいけなかったのだろう。弘美は目の前がさあっと暗くなっていくのがわかった。
――あ、ダメだこりゃ
目的を達することも出来ず、弘美はこうして志半ばで行き倒れるのだった。無念だ。
弘美はコーヒーのいい香りで目を覚ました。このコーヒーの香りはきっとあれだ、弘美の無念が感じさせる幻だ。昨今の幻は香りつきとは、なんというハイテク。
「幻でもいい、ぎぶみーこぉひぃ……」
「本気で怪談じみているから、起きるならしゃきっと起きてくれないか?」
男性の声がコーヒーの香りとともに聞こえた。弘美が目をパチパチとさせていると、もっさりとした髪の毛の男性が視界に入ってきた。
「……どちらさま?」
「それはコッチの台詞だ。目の前で昏倒されると、まるで俺が原因みたいじゃないか」
そう言って男性はイスに座った。
弘美はどうやら、行き倒れたところをこの男性に拾われたらしい。そのまま昇天してはいなかったようだ、よかった。
確かに目の前が暗くなった時に、白衣の男性が目の前にいた。それがおそらくこの男性だろう。その記憶と共に、直近の会話も思い出される。
「断じて中学生ではないです」
「そうか、見た目中学生の大学生なんて珍獣だな」
大学生と認めてくれたのはいいが、その装飾語が気に喰わない。しかしここで反論しようにも、まだ頭がクラクラしているので無理だ。またお先真っ暗になってしまう。
そんな弘美をコーヒー片手に観察する男性は、若干よれた白衣を着て、足に引っかけているサンダルをぶらぶらと揺らしている。長くはないがもっさりとした髪は前髪が長くて見え辛そうである。眼鏡を掛けているようだが、前髪が邪魔で意味がないのではなかろうか。はっきりとした言い方をすると、怪しい。おかしな研究でもしてそうな雰囲気だ。理学部の学生だろうか。弘美よりも年上であることは確かだろうが、いかんせん前髪で顔が隠れているので、年齢を推測するのが難しい。目元って意外と年齢が出るものなのだ。
「ていうか、ここどこ?」
改めて弘美は現状を確認した。弘美はどこかの狭い部屋にあるきったないソファに、無理矢理ぎゅぎゅっと押し込められるように寝かされていた。せめてソファに掛かっているズボンとか、背中に敷かれている本とかを、どかした上で寝かせてほしかった。有り難いんだが身体が痛い。どうやら背中に本の角が当たっているらしい。起き上がった弘美は背中をさすりたいが、いかんせん手が届かない。
「このきったない部屋、物置ですか?」
「俺の部屋だけど、お前捨てていい?」
小脇に抱えられて、本当に窓から捨てられそうだったので、弘美はすぐさま謝った。ここはどうやら二階のようで、窓から捨てられたら大怪我じゃ済まない可能性大だ。
「エキセントリックに物が配置された、オシャレな部屋だと思います」
キリッとした顔で言い直す弘美に、男性はため息をついた。
「もういい、散らかっているのはわかってる。で、お前なにしてたんだ、研究棟の目の前で」
「え、理学部の購買に行こうと思って」
男性の質問に、的確な答えを返した弘美。しかし男性はUFOを見たような顔をする。
「理学部購買は、理系の敷地に入ってすぐの校舎入り口だ。ここは敷地の一番奥にある研究棟。どこをどう間違ったらこんなところに行き着くんだか」
なんと、弘美は理学部の購買をとうの昔に通り過ぎていたらしい。
――なんということだ、とんだ無駄汗をかかされたな!
うなだれる弘美を男性が前髪の奥から、かわいそうな生き物を見るような視線を向けていた。