プロローグ2 ‐零の日常
詠月という組織がいつから活動を開始していたかは不明だ。
構成員は大半が召喚術師。"キー"となるアクセサリーや武装を媒介として召喚獣を使役する面々だ。
"キー"を媒介としているので、"キー"を失ってしまえばその召喚術師はただの一般人に戻る。
警察やマスコミ等にも影響力を持つことから、詠月の力は零が思っているよりよほど強いのかもしれない。
構成人数も、本部の所在地も、零の知るところではない。
ただ言えることは、今日も詠月の活動があるからこそ、召喚術犯罪が世間の眼に晒されずにいるということだ。
薄暗い中で靴を履くのにも慣れた。
扉を開けて外の空気を吸う。薄っすらと青の色が混じりつつある空が視界に広がる。古びたコンクリートの廊下を歩いて、アパートの外に出た。
玄関の前に喫煙所がある。そこが目的地だ。椅子に座り、煙草を口にくわえて火をつける。煙を肺の中に吸い込んで、ゆっくりと息を吐く。高い塀に囲まれた玄関前の庭の向こう、なだらかな坂道を超えた先に、赤色に点滅する信号機が見える。
この、朝と夜の間の時間を、木崎零は好んでいた。
理由はよくわからない。人がいないからかもしれないし、一日の終りと始まりが交わる何にもとらわれない時間だからかもしれない。
翌朝起きなければと急いで寝る必要もなければ、朝の用事に向けて準備をしなくてはと焦る必要もない。
もっとも、そんな急かされるような生活と零は無縁だったが。
零の仕事の勤務形態は特殊だった。呼びだされたら現場に直行すれば良い。そこで零の持つ特殊な能力を使って事件を解決すれば、そのまま直帰して構わない。
それで滅多に呼ばれることもないのだから、楽な仕事とも言えるだろう。
命がけである点を除けば。
「今日も、早いね」
声をかけられて、零は顔を上げる。
木村直樹が微笑んでいた。
枯れ木を思わせる細身な男だ。年齢は、三十路は過ぎていると思うがはっきりとはわからない。彼はゆっくりと歩み寄ってくる。
嫌な人が来たな、と零は思う。
直樹の人間性を嫌っているわけではない。ただ、直樹がたまに提案することを、零は苦手がっていた。
「おはようございます」
淡々と挨拶をする。そちらこそ早いじゃないか、とは言わない。会話を長く続けるつもりがないのだ。
直樹は軽く頭を下げると、零の隣りに座った。
零は煙草を喫煙所の灰皿に押し付ける。直樹が喫煙者でないことを知っていたからだ。煙草の先端はしばし赤く光っていたが、すぐに黒ずんだ灰へと変わった。
「今日も一日が始まるね」
「そうですね」
煙草への欲求を感じつつも、零はそれを堪えた。
「零くん、今日は予定はあるかな」
「特に」
嫌な話の流れだな、と思う。こういう時、彼は提案を持ち出すのだ。
その提案が、零にとってはとても疎ましく感じられる。
「良い若者が毎日暇というのは関心しないな。どうだい、高認でも取って大学の授業でも受ければ」
「仕事に差し障りが出ます」
「近くの大学は詠月に配慮してくれる。前にもそう言ったことがなかったかな」
興味がないから聞き流していたが、確かにそう言われたことはあった。
「……なんの意味があるって言うんです」
零は一応、仕事についているのだ。中学を卒業してから、ずっと。途中で職種は変わり、詠月の一員となったが、仕事に就いていなかった時期はない。
「生きがいになるかもしれないし、生きがいに繋がるかもしれない」
「ですかね」
零は、その気もないのに調子を合わせる。直樹を悪い人間ではないと思っているからだ。
「人生を一日に例えたら、という話を君は知っているかな」
「生憎」
「自分の年齢を三で割るんだよ。その数字を時計に当てはめる。僕の場合は十時を過ぎているね。けど、君の場合はまだ朝も始まったばかりの時間のはずだ」
零は返事をしない。その喩え話に当てはめたなら、零の年齢は確かに一日が始まったばかりの時間に該当する。
「長い一日だ。何かやらないと勿体無いよ」
まだ、何かやれるのだろうか。そんな思いが胸に湧く。けれども、零はその思いを丸めて心の片隅に捨てた。
「バチが当たりますよ」
淡々と、零は言う。
「俺は罪人です。ここにいるのは贖罪のためだ。生きがいを見つける。やりがいを感じる。そんなこと、あっちゃあいけないことです」
直樹は、しばし言葉を失ったようだった。
しかしすぐに、笑顔を浮かべて口を開いた。
「君は律儀な人だな。その贖罪のためだけに、長い一日を費やすつもりかね」
「ええ、そうなるでしょう。俺には笑うことも、悲しむことも、許されちゃいない。死んだ人達がそれを許さない」
「……人のせいにすることもできるだろうに」
「それをしたら、俺は本当の屑になる。名前である零以下になる。それは、嫌なんです」
いや、既に自分はゼロ以下のマイナスなのだろう。そんな実感が、零の中にはある。
「零という名前のコンプレックスがそうさせるのかな。それとも、強い罪の意識がそう感じさせるのか。強い力を持てば人は最初は精神的にも制御に手間取る。そういったことも考慮に入れるべきではないかね」
「強い力を悪行に使ったからこそ、俺は許されるべきではない」
「ここに来て何年も経つが、君は変わらんね」
諦めたように、直樹は苦笑いを顔に浮かべた。
「そうですかね」
「いや、少し明るくなったかな。けれども、根っこの部分は変わらない。僕達の能力は精神に大きく左右される。第二段階へと進むには精神の力が必要だ」
直樹は、ゆっくりと立ち上がる。
「目的を持つことが第二段階へと進む早道だ。何かを始めることは、無駄じゃあない」
「……心に留めておきます。けど、目的なら一つ、見つけましたよ」
「ほう?」
「能力者狩りです」
遠くに見える、点滅する信号を見ながら零は言う。煙草に火をつけ、再び煙を肺に吸い込む。
「蛇の道は蛇。俺は、能力者を狩ることで贖罪をする。それが貴方達にとっても得となる。損のない話じゃないですか」
「……理屈だけなら確かにそうだ。けれども、人間には感情があるんだよ? 少しは他のことも考えてみると良い。それじゃあ」
そう言うと、直樹は去って行った。
零は煙草を吸っては、吐く。心の中に靄のようなものがあった。何か新しいことを始める人生、その可能性を考えてしまっているのだろう。
だから、直樹の提案は疎ましいのだ。零は煙草の煙を吸って、心の中の靄を押しつぶそうとした。そのうち靄は消えて、無心に煙草を吸いながら点滅する信号を眺める零だけが残った。
贖罪のための人生、それが零の生き方の指針だった。
次回、解けた絆1
とある高校で多発している骨折事件。その調査に零と燕が乗り出すことになるのだが。