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椅子より

作者: 日野蒼翳

糞餓鬼の戯言で御座いますがどうぞお付き合い下さい……


最近前々から多少興味のあったシュルレアリスムについて勉強していこうと思い、インターネットで調べてみたり、アンドレ・ブルトン氏の『シュルレアリスム宣言/溶ける魚(岩波文庫)』を読んでみたりと実践しています。やはり前衛芸術には何処か惹かれる所が有るものなのでしょう、酷くのめり込んでいます。

しかし、一つ不思議に思う事があります。

何故『芸術・文芸』と『政治思想』を絡める必要性があるのか……。

シュルレアリスムを調べるうちに共産主義・社会主義的傾向を持つ作家や画家も多いと知りました。元来僕は政治思想という物には全くの興味を示さないどころか、非常に忌み嫌っておりました。そして、何故前衛芸術が左翼的政治思想に晒されて、国賊のように扱われなければならないのか、という疑問が生まれたわけです。折角の芸術もこれでは衰退の一途を辿るのみ。儚いものであります。

十分に食を楽しむ余裕があり、十分に書を楽しむ余裕があり、平穏無事で無病息災な生活を国民が送れる政治であれば僕は良いのです。其れ故、何故『芸術・文芸』に『政治思想』を絡めなくてはならないのかが不思議でならなかったのです。

芸術論と政治思想は何処まで行っても理想論と現実でしかないのです。芸術論は芸術として表されてこその芸術論。現実に反映などいくらいってもされるものではないのです。芸術論は理想論であり、利己論であり、美論なのです。

其処でこの糞餓鬼は考えました。

ならば、『文芸』と『政治思想』を分離してしまえ、と。

政芸分離とも言いましょうか。

然すれば、きっと前衛芸術も国賊ではなく、別の形で昇華するのでは無かろうかと思うのです。理想論でも利己論でもない、美論、美学としての芸術に回帰するべきなのです。


次に、伝統的形式に関して一つ。

前衛芸術は伝統的形式に対しては破壊的性格を見せているようなイメージが独断的に僕にはあります。(違うものもございましょう。)

しかし、文芸の一括りとして考えるのであれば、『脱伝統』をしつつ、最低限度の形式のみを残してやろうではありませんか。最低限度の形式はその『文芸』としてのアイデンティティ。その『文芸』を名乗りつつ伝統的形式の全てを破壊するのは『新文芸』となるのであって、その『文芸』では無くなってしまうではないか。

それでもそう言い張るのは……暴論ではなかろうか……?前衛芸術と言えども源流は源流。脱しながらも敬う、決して貶す事は許されない事なのです。『脱伝統』とは主張するが、『伝統への尊敬・畏敬』もまた必要な要素のひとつではないだろうか。


などとこの糞餓鬼は数週間にわたって椅子にて考えていたのであります。挙句の果てにはこの糞餓鬼はこの考えを『文芸左翼』と名乗ろうとしているのであります。ではこの文人かぶれの糞餓鬼にとって社会派とは何か、政治小説とは何なのか……?『文学』であります。決して芸術ではないのであります。そのようにこの糞餓鬼は、僕は、考えます。


愚論を垂れ流しにして申し訳なく思います。

では、また。


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