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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: アラック

 私がその生き物の蛹と出会ったのは、まだ小学校に入る前の事だった。

 その奇妙な出来事は今でも鮮明に覚えている。

 いつも遊んでいた公園で、私は蛹に出会ったのだ。

 出会った、という言い方をするからには、その蛹が何か特別な形をしていたのではないかと思う方もいるだろう。

 その通りだ。

 私が出会った蛹は、幼い少女の形をしていたのだ。



 当時の私は6歳の誕生日を目前にしていた。

 夏の暑い日、両親はプレゼントを何か冷たい食べ物で済まそうとしていた節があった事を、子供心に覚えてる。

 当時の私は誕生日にカブトムシが欲しかったのだが、これは望み薄だなあと思い、虫かごと虫取り網を手に近所の公園へ出かけたのだ。

 公園の裏が雑木林になっていて、そこで同じ幼稚園の子たちが、父親や兄弟とカブトムシを取ったという話をよくしていた。私もそれが欲しくなったのだ。

 だが、時間帯が悪かった。カブトムシの主な活動時間は夜で、昼に行っても見つかる事はほとんどない。捕まえるなど持っての他だ。

 おまけに、その日は朝から小雨が降っていて、夏にしては少し肌寒かった。

 そんな日に黄色い雨合羽を着て虫取りの様相を取っていた私は、周りの大人たちの目には奇妙に映った事だろう。

 それでも、私ははやる気持ちを抑えきれず、まだ見ぬ甲虫の王を探しに出かけたのだ。

 だが、意気揚々と公園にたどり着く頃には雨脚は強くなってしまい、とても虫取りという天気ではなくなっていた。

 引き返すのも格好悪いと考えた当時の私は、そのまま誰もいない公園へと足を踏み入れたのだ。

 もしもこの時家に引き返していれば、私の人生は平凡な、人並みの幸せを享受するものとなっていただろう。

 公園に足を踏み入れた私は、出会ってしまったのだ。

 その、蛹に……。



 ◇



 当時の私と同い年くらいの女の子が、雨の中何も身にまとわずに突っ立っている光景は、鮮明に目に焼き付いている。

 まるでマネキンのような均整の体型と容姿を併せ持つ少女、腰のあたりまで伸びる髪は金属のような光沢をもち、雨を弾いていた。

 何よりその表情に、当時の私は異質なものを感じていた。

 虚ろに、ただ一心に、雨の降る空を見上げていたのだ。

 近くに滑り台があったがそこで雨宿りしようなどとは微塵も思っていないだろうことは、その虚ろな表情を一目見てわかった。

 何も身に纏わぬ少女に、当時の私は自分の着ていた雨合羽を着せてやった。

 風邪をひいてしまっては大変だと、そればかり考えていたのを覚えている。

 雨合羽を着せてやるときに少女の体に触れた当時の私は、その少女の体温が普通の人よりもずっと低く、肌の質感も異なるものだと感じていた。

 この少女はいったい何者なのだろう。

 そう、頭の中に疑問を浮かべていた私は、次の瞬間、そんな事どうでも良くなるくらいの衝撃を受けた。

 少女が、私を見たのだ。

 その双眸はどんな感情も浮かべておらず、虚ろで、しかし宝石のように暗く、黒く、きれいだった。

 少女の目に移りこんだ私自身がひどく呆けた顔をしていたのがよくわかるくらい、彼女の瞳には、ただ虚無があった。


 気が付くと、私は少女に手を引かれて雑木林の中へ入り込んでいた。

 何故、少女に手を引かれて連れられているのかは、わからない。少女は一言もしゃべらなかったから。

 ただ、掌から伝わる低い体温と幼い握力とが、この少女を守らなければならないという気持ちを呼び起こしていたのも事実だ。生まれて初めて使命感を抱いた瞬間だった。


 たどり着いた場所は、雑木林の中の開けた場所だった。

 その場所に着く頃には雨も上がり、雲の切れ間からは陽が差し始めていた。

 これから何が始まるというのだろう。

 淡い期待と不安とを胸にする私の前で、少女は突然草むらにうずくまった。

 慌てて少女に近付こうとした私は、そのうしろ姿を見て、思わず後ずさってしまう。

 雨合羽に隠れて見えない少女の背中が、不気味に蠢いていたのだ。

 少女の背中に何かおぞましい虫でも入り込んだのだろうか。

 近付くことができずに、ただ大丈夫? と、何度も聞く私に少女は応える事はない。

 ただ、少女の背中で蠢くものの正体は、次の瞬間に明らかになった。

 雨合羽の背中が破れ、少女の背中で蠢いていた何かが姿を現す。


 陽の光を受けて輝くそれに、私の目は釘付けになった。


 こんなに美しいものが、この世に存在するとは思えない。

 夢でも見ているのではないだろうか。

 そうして、少女の背中に生える美しいものに見惚れていた私は、時間の感覚を失くしていた。

 ずっとこの美しいものを見ていたい。

 その願いは叶わなかった。



 ぱす、ぱすと、空気の抜けるような音が幾度か聞こえてきて、少女の頭に小さな穴が開いた。

 小さな穴は、音と同じ数だけ。

 頭に穴の開いた少女は、糸の切れた人形のように前のめりに倒れてしまった。

 不思議な事に、少女の頭に開いた穴からは何も漏れ出てこない。

 背中に生える美しいものも、枯れた植物のように徐々に萎れていった。

 (しお)れ、()えてゆく少女を呆然と見つめていた私は、黒いヘルメットと堅そうな服を着た大人たちによって、その場所から抱え上げられた。

 大人たちが無線のようなものでやり取りする中、私の目は未だ少女に釘付けだった。

 その少女が、突然炎を上げて燃え盛り始めた。

 何人かの大人が大きな鉄の筒を背中に背負い、そこから延びるホースが繋がっている銃のようなもので、少女に向かって炎を履いていたのだ。

 火炎放射器というものだと、後々知った。


 少女は燃えた。

 私はこの時より少し後に、マネキンを燃やす光景を偶然目にする事になるのだが、少女はそれと全く同じ燃え方をしていた。

 ただ、少女の虚ろな目。宝石のような虚無を湛えた目は、いつまでもいつまでも輝いて、この場所から連れ出される私を見つめていた。



 ◇



 それから私は、大人たちに連れられ車に乗せられて、その後の記憶がだいぶ曖昧になってしまっていた。

 見た事もない建物の中に運ばれ、妙に鼻に着く液体のシャワーを浴びせられ、手術を控えた患者のような服を着せられて……。

 そして、はっきりと意識を取り戻した時、私は病院のベッドに寝かされていた。

 心配そうな顔の両親がそばにいた。

 母が言うには、公園でひとりで遊んでいたいた私は体調を崩して倒れてしまい、偶然通りかかった老人が救急車を手配して病院に運ばれたのだそうだ。


 本当はそんな事はなく、私は少女に出会ってからの事を鮮明に覚えていた。

 しかし、遠目に私を見る医師たちの険しい表情が、本当の事を口の端に登らせることを拒んだ。

 本当の事をしゃべってはいけない。

 それはきっと、誰かにとって不都合な事だから。

 誰にとっての不都合だろう。私を監視する医師にとってか、それとも、黒いヘルメットに堅そうな服を着た大人たちにとってだろうか。


 私は口を閉ざした。

 しゃべってはいけない、守り通さなければならないのだ。

 少女から託されたものを。彼女に手を引かれた時に右手に付着した、小さな粒子。

 おそらくこれは卵だ。

 少女が羽化しようとしていた生き物の卵。

 大人たちは少女が羽化する前に殺してしまいたかった。

 だから、この卵が見つかってしまえばどうなるかは、当時の私でもわかった。

 卵は私の右手に、小さな瘤のような形で同化した。

 いつの日かこの卵が孵れば、私はまたあの少女に会う事が出来る。

 その日まで、私はこの卵を守り通す事を心に誓った。



 ◇



 私の右手に同化した卵に変化が訪れるのは、それから15年後の事だった。

 21歳となった私は親元を離れ、地方の大学へ通うため一人暮らしをしていた。

 大学とアルバイト先とを往復する忙しい毎日だったが、右手の卵の事はいつも頭の片隅にあった。

 卵の変化に気付いたのは、友人に誘われてカラオケに行った時だ。

 照明を落としたカラオケボックスの室内はブラックライトの怪しい光が煌めいていた。

 その光の中、何気なく右手を見た私は、ある事に気が付いたのだ。

 瘤の形となった卵の部分が、ブラックライトに照らされると中身が透けて見えるのだ。

 そして、中を透かして見た卵には、かすかに蠢く影を、確かに見とめる事が出来た。

 嬉しくなった私は、高揚した気分のままに、子供の頃に流行っていたアニメのテーマソングを熱唱した。

 友人たちが驚きと喝采とを浮かべる中、私は感激に涙すら浮かべていた。

 また少女に会う事が出来る。あの虚無を湛えた瞳に。そして、この世のものとは思えぬほど、美しいものに……!



 ◇



 その日から私は、卵が孵るための準備を始めた。

 ブラックライトを購入して、壁紙を張り替えて、大小さまざまな虫かごを揃えた。

 あの時出会った少女の大きさを鑑みるに、幼体が人間の子供程の大きさに成長するのはわかりきっていたので、大型犬用のケージも購入する事にした。

 餌は何を食べるのかわからなかったので、野菜や果物の他に、生肉や魚や穀類、腐葉土やたい肥といったものまで買い揃える事となった。


 そうしてものを買い揃えた後に、私は部屋の内外のチェックも怠らなかった。

 もし、あの時の大人たちが私を監視していたとしたら、この卵を取り上げられてしまうかもしれない。

 それだけは絶対に避けなければならない。

 部屋に盗聴器や監視カメラはないか、アパートの隣りや上下階に不審な借主はいないか、私生活に置いて尾行や監視などされていないか。

 結局はどれも私の杞憂だったのだが、いつ監視の目が向くかもしれないと考えると、どうしても気を抜けなかった。

 買い集めたものを怪しいと思われないよう、ペットショップで大型犬を眺めたり、ガーデニングや料理の本を立ち読みする日々を送っている内に、大学は長期休暇に入っていた。


 大学が長期休暇に入ってからは、冷房も付けずに一日中部屋に籠り、ずっと卵が孵る時を待ち続けていた。

 温湿度の状態で孵化のタイミングが変わるのか、それとも季節的にはまだ先なのか定かではなかったが、卵の中の幼体が蠢いているという事はもうすぐなのではないだろうか。

 何分未知の生き物だ。どんな事があっても不思議ではない。


 それからしばらく経ったある日。

 私が浅い微睡から醒めると、霞んだ目に自分の右手が真っ赤に染まっている光景が飛び込んで来た。

 頭の中に氷水を流し込まれたような寒気を味わった。

 右腕は机に固定しているので、寝返りなど打って卵を潰してしまったという事はあり得ないはずだ。

 ならば、右手から流れるこの血はなんだ。

 痛みはない。右腕を固定していたせいで血の気が失せてしまい、感覚もなくなっている。

 焦りと恐怖が心を支配するが、すぐに卵が孵ったのではないかという考えに達する事が出来た。

 ならば、孵った幼体はどこへ?

 小さな瘤程の卵だ。幼体もそれに準じて小さなものであるはずなので、見失ってしまえば探すのは難しくなる。


 しかし、私のそんな焦りも杞憂に終わる事になる。

 卵が孵る時の出血が幼体に付着したものか、机の上に幼体の這った跡が赤い線として残っていた。

 なるべく体を動かさないように、身じろきしないように、視線だけを動かして周囲を見渡す。

 すると、居た。机の端をゆっくりと這う、赤い塊があった。

 その小さな赤い塊がうごめいているを見とめて、私はほっと安堵の息を吐いた。

 幼体は無事、孵ったのだ。



 ◇



 孵った幼体は無色透明だった。

 私の血が乾いて剥がれ落ちてしまってからは、ブラックライトの元でしかその姿を確認する事は出来無くなるので、孵ってすぐに虫かごに移していた。

 部屋のカーテンを閉め切り、室内は30℃を超える中、冷房も付けず汗だくになりながら、私は幼体の観察を続けた。

 餌は用意したものを何でも食べて、1日ごとに倍の大きさに成長した。

 驚異的な成長速度だ。

 すぐに用意した虫かごは手狭になり、ほんの数日で大型犬用のケージに移す事になった。

 キャベツを丸ごと一心不乱に齧りつくす姿にどこか微笑ましいものを感じ、金属のケージすら時間をかけて齧り取る姿に恐怖すら覚えた。


 驚異的な成長速度を見せた幼体は、孵化して2週間目に繭をつくり始めた。

 大型犬用ケージ(ところどころ齧られてしまっている)の四隅に透明な糸を張って体を固定し、自らの体を透明な糸でくるみ始めたのだ。

 その様子を見守っていた私は、このままでは普通の蝶や蛾と変わらないのではないかと焦りを感じたものだ。

 それから2日、3日と経つと、繭が徐々に人のような輪郭に変形してきた。

 この繭が人の形、少女の形になって、動き出すのだ。

 そう考えると、暗い安堵の気持ちが湧き上がってくる。


 繭が人の形になる間、私はずっと、この生き物の習性について考えていた。

 幼体が無色透明なのに、何故蛹は人間の少女の姿をしていたのか。何故、蛹も無色透明ではないのか。

 一般論ではなく私個人の考えでは、人間の庇護下に入るためだと確信している。

 目の前に一糸纏わぬ少女が現れたらどうするだろう。

 少なくとも、今の私ならば警察に通報し、保護を求めるだろう。私はロリコンではない。

 そうして人間の庇護下で羽化するまでの身の安全を守るのだ。


 この生き物は、人類がこの地球において「食われる」側ではないと確信しているのだろう。

 そして、人間の少女に擬態するのならば、この生き物は人間の生活圏にしか存在しない事になる。

 “人間”に擬態するのは、人間の中に紛れ込むためだからだ。

 それにしては、私が出会ったあの蛹の少女はコミュニケーション能力を持っていなかった。

 一個の人間として溶け込むというよりは、やはり羽化まで雨宿り先、その場しのぎなのだろう。


 しかし、そうだとすると、私が子供の頃出会ったあの少女のように、この生き物を狩る人間が居る事も忘れてはならない。

 地球上で一番安全だと思われる生き物に蛹を託しているつもりなのだろうが、その蛹が(もしくは幼体や、蛹が羽化した成体も)預け先の人間たちに危険だと認識されて駆除されているのだ。

 虫の形を取っている以上、多産であり、全体の何万分の一、あるいは何億、何兆分の一が無事に成体になれれば良いという戦略を取っているのだろう。

 数で攻めるのならば、確かに蛹の一体や二体が羽化できなくとも、この生き物という“種”には何らダメージがない。

 だが、人間は他の生き物と違い、『意図的に他の生き物を根絶やしにする事がある』のだ。

 この生き物が危険だとわかれば、秘密裏に根絶やしにする事もあるだろう。

 あの日、あの蛹の少女を燃やした大人たちのように……。


 考え始めればきりがない。

 次々に気掛かりな部分が明るみに出て来る。

 私の手に寄生した卵がひとつだけだった事や、その卵を渡してきたのがまだ羽化する前の蛹だった事も。

 それに……。


 考えれば考えるほどわからなくなってくる。

 興味が尽きないのだが、それよりも何よりも、私はあの虚無を湛えた目に再びまみえたい。

 そして、虚無の瞳のその先の、あの“美しいもの”に……。

 巡り巡った考えはいつもそこに落ち着き、今まで考えた事はいかに無意味だったかと自嘲するばかりになる。


 この謎の多き生き物の生態、習性よりも、ちゃんと蛹を守りきる事が全てなのだと思い知らされるのだ。



 ◇



 そうして幾度目かの眠りから覚めた時、私の視界にきらきらと輝く宝石のような黒が飛び込んで来た。

 頭の中に冷水を流し込まれたように急速に意識が覚醒する。

 蛹が完全に人の形に成り、体育座りをして私を見ていたのだ。

 人間として見た場合の外見年齢は9、10歳ほどで、私が出会った蛹よりも高い年齢の少女の形に擬態したようだ。

 髪も銀色ではなく、艶やかな黒。体毛というよりは絹糸のような質感に思えた。

 肌も日本人離れした白ではなく、黄色人種のものだ。しかし、その肌の質感はタンパク質には見えなかった。

 言うなれば、硬質だが柔軟性に富んだ繊維質で形作られた人形、マネキン。

 繭をベースにしている以上、どれだけ人に似せても、材質の異質さは近くで目にすればわかってしまうものだった。


 私は、蛹の少女の座る方へ顔を固定したまま、ゆっくりと立ち上がって歩み寄った。

 少女は私が近付いて来ても、怯える様子も逃げ出す素振りも見せなかった。

 ただ、口を半開きにして少女を見下ろす事しか出来なくなっていた私を、虚無を湛えた黒い宝石のような瞳でじっと見つめているだけだった。

 ああ、この瞳だ。

 この瞳に再び会う日を、10年以上思い描いて来たのだ。


 私は蛹の瞳を心行くまで見つめた後、前もって購入しておいた服を着せてやることにした。

 大の大人、それも男がひとりで子供服売り場に乗り込むのは世間の目が厳しかったため、蛹に着せる衣類はすべて通販で仕入れていた。

 私が用意した服を、蛹は嫌がらずに、着せられるままに着せられた。

 抵抗らしい抵抗を見せないのは、私が幼体の頃から育ってきた事を蛹が知っているからなのか、それとも人間は庇護してくれると遺伝子に刻まれているからだろうか。

 いずれにせよ蛹は、私の行おうとする事に背かなかった。

 外に連れ出す事はしなかったが、部屋の中で出来るであろう事は、思いつく限りはしたように思う。

 服を毎日着せ替え、風呂に入れて、本を読み聞かせたり、DVDを見せたりもした。

 蛹はいちいち無反応だったが、その中で唯一反応があった事がひとつあった。


 蛹に食事を出した時の事だ。

 蛹は、蛹というだけあって食事を摂らない。

 人の形をしているとは言え、それはあくまで人の形をしているだけだ。

 口を開く機能も、声を発する機能もない。

 なので、食事時は私ひとりで黙々と食べる事になるのだが、その時に蛹が私を見る目は、なんというか、恨めしいと言いたげな目なのだ。

 何故、幼体の時にこれを食べさせてくれなかったのか。

 そんな文句を言いたそうな目で見てくるのだ。

 その証拠に、カレーなどスプーンすくって口元に差し出してみると、蛹は目にも明らかに表情をムッと歪ませて見せた。

 まるでダイエット中の女性のような反応に、私は腹の底から笑ってしまったものだ。

 あんなに大笑いしたのは何10年ぶりだろうか。

 捩れる腹を抱えて笑う私を、蛹はずっと見つめていた。


 蛹が羽化するのは、それからほんの数日後の事だった。



 ◇



 夏の終わり、秋の入りの日。

 その日、私が目覚めると、蛹は窓際の机に座ってこちらを見ていた。

 虚無を湛えた双眸がこちらを見ているだけで恍惚とした気持ちになるが、蛹の背後、窓が開いている事に気付き、すぐに意識を引き締めた。

 部屋に外気を取り入れるのはもう2ヶ月ぶりになるだろうか。

 窓を開けた犯人は蛹で間違えないだろう。

 しかし、何故?

 私にはすぐに、蛹が羽化して成体になり、外へ旅立ってゆくのだと察しがついた。

 途端に喪失感が襲うが、同時にいよいよだと、歓喜する気持ちもあった。

 羽化の瞬間こそ、あの美しいものが見られるのだ。

 部屋に流れ込む心地良い風を肌に感じながら、私はその時を待った。


 蛹はしばらく私の方を見つめていたが、不意にその全身がうごめく。

 思わず立ち上がった私の目の前で、蛹の羽化が始まった。

 着せた服の背中が盛り上がり、布地を破ってそれが姿を現す。

 10年以上の間待ち望んだ美しいもの。



 陽の光を受けて輝く輪郭、一対の羽だ。透明な羽。それが蛹の体液を反射してきらきらと輝いているのだ!



 感涙に鼻をすする私の前で、蛹はついに殻を脱ぎ去り成体になった。

 成体の姿も幼体と同じく透明だったが、体液に濡れた今ならば、その姿をかろうじで目に見ることが出来る。

 大きな蝶の形をしていた。

 細部をよく見れば、この地球上のどの蝶とも違う部分が見とめられるのだろうが、そんな事はどうでも良かった。

 幼き日に見る事の出来なかった、あの美しいものをこの目で見る事が出来た。

 あの虚無の瞳を持った蛹の少女に託された卵を、こうして成体にまで育てる事が出来たのだ。

 心地よい達成感に浸りながら、私はもう何10年も歳を取ってしまったかのような虚脱感に襲われた。

 この美しい生き物は、今から飛び立って行ってしまう。

 繁殖の方法などわからないし、この先に何が待ち受けているかもどうでもいい。

 歓喜と達成感と恍惚と、そして喪失感の他に、もうひとつの感情が私の中にあった。

 後悔だ。


 この生き物はおそらく、……否、絶対に成体にまで育ててはいけないものだった。

 大人たちが何故あんなにもやっきになってあの蛹の少女を燃やそうと、隠そうとしていたのか。

 ずっと考えないようにして来た事だ。

 この生き物が成体になると、何か大きな不都合な事があるのだ。

 だが、私はそれを見届ける事無くこの世を去るだろう。

 私の喉元を、透明の何かが貫いていた。


 陽の光が“それ”に反射して輪郭を浮かべる。

 目の前の生き物から伸びた口吻だ。それが伸びて、私の喉元を貫いていたのだ。

 ああ。私は、この生き物の餌となるのか。

 生き物の口吻を通じて、私の体液が生き物へと吸い出されてゆく。

 その体液の赤い色が、生き物の身体を巡り巡って輪郭をはっきりとさせてゆく。

 口吻、頭部、胴部、節足、そして一対の羽に血が巡って行き、その姿をはっきりさせた。

 人間サイズの大きな蝶だ。

 私の血液を得た事で、この生き物の複眼が、蛹の時のような虚無の輝きを取り戻す。

 その光景が見れただけでも、私は満足だった。

 体液の喪失で急激に意識が遠のく中、私は自分の中に渦巻いていた様々な感情が、体液と一緒に生き物に吸い取られるような感覚を得ていた。


 代わりに心を満たすのは安心だった。

 あの生き物が、大きな蝶が私を見ている。

 あの、虚無を湛えた瞳で。

 その瞳に見守られながら、私は永遠に意識を手放した。

 それは幸運な事だったのだろう。


 私の意識が途切れた直後、生き物が羽ばたいた。

 その瞬間、生き物の羽から体液の残滓が飛び散る。

 粒子となって散った体液は、部屋の調度品に付着すると、その箇所を急速に腐敗させていった。

 木材も金属もプラスチックも、どれも等しく、同じ速度で腐食していく。

 部屋の中がそうして腐り落ちてゆく中、生き物の捕食は終わりを告げ、私の身体は水分のほとんどを抜き取られてミイラのように変わり果てていた。



 ◇



 その日、とあるアパートの一室から巨大な蝶のような生き物が飛び立つ光景を、付近の住民が目撃していた。

 飛び立った際にはおどろおどろしいマーブル模様の羽をしていたという証言があったが、しばらくすると透明になって消えてしまったという証言もあった。

 巨大な蝶のような生き物が通過した、ちょうどの真下に位置した建物や動植物は、強力な酸で解けたような状態になってしまったという。


 巨大な蝶のような生き物は成人男性程の大きさのマネキンのようなものを抱えていたという証言があったが、それはミイラだったという証言も、本物の人間だという証言もあり、情報は錯そうした。

 しかし、目撃者はみな一様に、巨大な蝶が双の複眼から涙を流していたというのだった。




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