点火
この作品で描かれる日本と、現実の日本とでは、似て異なる物であることをご了承ください。コメントを頂けると有り難いです。厳しいコメントもバシバシ下さい。よろしくお願い致します。
蟻という生き物は、単独であれば実に脆く、すぐに滅ぶが、仲間であるという概念の元で生まれる洗練された結束力を用いれば、遥か強大な敵をも駆逐し、種を、自分の属している巣の家族を存続させる。
蟻村誠一はベッドの上に横たわり、手元にあった一枚の紙を勢いよく引き裂いた。一刻も早く行動に移したかった。今のこの時間が惜しくてたまらない。早くしなければ、この国は皆が気付かぬまま、ひっそりと死んでいくだろう。彼は身体を起こし、台所へ向かうと、冷蔵庫から未開封のミネラルウォーターのキャップを開け、冷たい水を体内に流し込んだ。自分だけなのだろうか、彼はふと思う。この国の腐敗したシステム、広がる格差故の子供の教育不十分や10代20代のホームレスの増加に激しい憤りを感じているのは自分だけなのだろうか。いや、そんなことはないだろう。蟻村はキャップを閉め、飲料水を冷蔵庫に戻した。必ずいる。そんな彼らをまずは味方につけよう。だがそれでも人数は全然足りない。ならば気付いていない者の脳味噌に叩き込んで気付かせてやろう。政治的無関心な若者を奮起させるのだ。行動はいますぐ、早いほうがいい。準備には時間がかかるのだから。蟻村は自身の通う大学へと足を運んだ。この国のシステムに変革をもたらすのだ。この国の国民の意識に改革を。この国を動かすエゴイスト共に絶望を与えよう。蟻村は足を速め、拳を力強く握り締め、心の内で叫んだ。日本に変革を、これは革命だ。
大学のキャンパスに着くと、蟻村は時間があることを確認し、自分の所属するサークルの溜まり場へと向かった。新設された建物のすぐ隣にある、黄ばんだ壁の建物、第一サークル塔、学生からはキュー塔などと呼ばれている。理由は単純、旧、だから。この建物の2階の奥から3番目の『ソーシャル活動会』と書かれた木板が掛けられている部屋が、彼の所属しているサークルの部屋である。古いが、彼にとって、唯一無二の、落ち着くことのできる、ありのままの自分で居られる場所だ。蟻村は錆び付き不快な音を立てるドアを開けた。
「おう、誠一。」
入るや否や、このサークルの設立者、痩せた体に茶髪、上の下くらいの顔をした男、坂本洋が声をかけてくる。
「場所のセッティングはできたか?」
「おうともよ。入る客は少ないが、若者の多く集まるクラブだ。飲み会が好きな男女が来る、めぼしいのはいるか分からないが、まあやらないよりはましだろ。」
「グッジョブ、洋。スピーチの原稿は作ってきた、あとで確認してくれ。俺はもう授業に行かなくちゃ。」
「これから革命を起こそうという男が、律儀だねえ。」
授業を受けながらも、蟻村は明後日のスピーチのことで頭が一杯であった。大切なのはこの国をどうしたいか。どこを破壊し、そして創造するか。具体的に明瞭に。思い出す。なぜ俺は革命を起こそうとしたのだ。最初は確か、新聞の国有化だっただろうか。自衛隊の規模の拡大か。少子化、国債膨張、いや、どれも違う。発端は、そう、親父の…。
「お隣失礼。誠一っちゃん!」
彼女が、三人いるソーシャル活動会のメンバーの最後の一人、清水亜紀。ショートカットの黒髪が揺れた。
「おお、亜紀。授業終わったらソー研集合な。」
「了解であります!」
亜紀は敬礼のポーズを取り、笑った。退屈な授業時間は全て原稿の改善に割き、何度も訂正を繰り返しては亜紀に見てもらっていると、亜紀はやや呆れた様子で笑って言った。
「誠一っちゃんねえ、原稿も大切だけど、肝心なのはいかに聞き手に伝えるか、だぞ。」
「分かっているさ。聞き手は理解してくれるかな?」
蟻村は心底不安であった。不安と緊張が入り混じり、何かしていないと落ち着かないのである。
「全く、これから革命を起こそうという男が、なんてことを心配してんのよ。気軽にいこ。聞き手に、この日本に立ち向かおうとしている人がいるということを分かってもらえれば、今日のところはそれでいいのよ。人々の脳裏に私たちのことがあれば、きっといつか、共に立ち上がってくれるよ。」
肩の力が抜けていくのを感じた。そうだ。焦りすぎてはならない。急がば回れという教えがあるように、最も迅速に事を進めるには、一つ一つの行程を着実に完成させていく事が最短なのである。