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消えていく白の恐怖

作者: blazeblue






 かたん、とクローゼットの扉を開けて、私は小首を傾げた。




「あれ……あのスカート、買ってなかったんだっけ」




 絶対的な“始点”ではないけれど、思えばそれが始まりと言えたかもしれない。しかし私は、日常にありふれた“それ”を何の違和感も覚えないまま記憶の底へ追いやってしまった。




 ――たとえ気づいたとしても、どうにもならなかったのだけれど。










 私はよく忘れ物をする。いや、忘れ物という言葉は正しくない。覚え間違い、思い違いが多いのだ。それは身の回りの小物についてだったり予定であったり、誰かの誕生日であったりと様々で。


 思い違いに大騒ぎする私と苦笑まじりの友人たちは、もはや日常茶飯事で取り立てて目立つこともない。




「あっ、ルーズリーフが無い! 補充したはずだったのにー!」


「はいはい。いつものことなんだから、あんまり騒がないの。これでいいんでしょ?」




 そう言って愛用のルーズリーフを差し出してくれた子は、さて誰だっただろうか。




「え、今日じゃなかったっけ!?」


 ――そうよー。昨日メールしたでしょ? 向こうの予定がつかなくなったから合コンは延期だって!


「えー? 聞いたかなぁ……あぁっ! ホントだ、スケジュール帳に書いてあった……」




 仕方のない子だねぇ、と笑ったのは、あの子だったか。それとも、あっちの子だったか。




 物が消えたとしたら窃盗を疑うが、それが記憶そのものであれば私の落ち度でしかない。回数を重ねれば重ねるだけ、他の場所での思い違いと混同して曖昧になっていく。


 あまりに思い違いや物忘れの酷い自分。それがおかしく思えて検査をしてもらったこともある。しかし結果は“健康体”。脳の病気どころか、全身の隅から隅まで健康だと医者から保証される始末だった。




「どうなってるんだろ」




 そうしてまた私は記憶にあったはずの紺のミニスカートを諦めて、小首を傾げつつそこにあるジーパンを手に取った。いつの間にか疑問は消えていた。










 かたん、とクローゼットの扉を開けて、私は小首を傾げた。




「あれ……あのジーパン、買ってなかったんだっけ」




 綺麗に吊られた『紺のミニスカート』を睨み付けて、私は呻る。今日の授業は動き回るからあのジーパンにしようと思ったのは昨日の夜。しかし現実に今、目の前にジーパンはない。不思議に思ってケータイを見返しても、お小遣い管理アプリのどこにもその出費は記入されていなかった。当然のごとく財布もその分多く入っている。




 ――また、得意の“思い違い”だろうか。




 違う、と、自分の中のナニカが言っている。しかしそれは“思い違い”だという証拠がきちんと残っている。




「……まぁ、そんなこと考えてたら遅刻するよね」




 眉をしかめた私は緩く頭を振ると、そのまま紺のミニスカートを手に取った。ちょっと好みとは違うが、レギンスと合わせれば動き回れないでもない。大丈夫だろう。


 視界に入るモカブラウンのロングヘアを背中へ跳ねのけ、私は急いで着替えはじめた。大学も4年、最終学年。本当に遅刻して単位に不安を残すよりは、気持ち悪さを飲み込んだ方が余程いい。










「……ぅ?」




 はっと身を起こす。いつの間にか寝てしまっていたその場所は大学の図書館だった。


 乱れたボブカットの髪の毛を手ぐしで整えながら見回せば、周囲には後期のレポート対策にいそしむ『上級生』の姿がある。あの分厚い紙の束はきっと卒論――の、下書きだろう。普段のレポートとは勝手が違うそれは大変苦労させられる――




 ――あれ?




「わたし、まだ3年だったっけ……?」




 微かな引っ掛かりに私は『また』眉をしかめた。上級生たちに対してまるで自分自身があの分厚い卒論を書いた経験があるような、複雑な感想を持ったような気がしたのだ。




 ――また?




 何かがおかしい。何かが間違っている。けれどその正体は分からない。図書館に入るために出したまま机へ放っていた学生証には私の名前と学籍番号が書かれており、それからはハッキリと私が3年生だと読み取れる。


 一体何を間違えば卒論を経験したような気になるのだろう。しかし確かに、この胸には何かが残っている。私はふるりと身を震わせた。




「一体なんなの」




 何かがおかしい。何かが間違っている。今度こそ正しく届いた胸の奥からの叫び声はそれでも次第に薄れ、ミカとの約束を思い出した頃にはすっかり私の意識から消えてしまった。








 むくりとベッドから身を起こす。朝食をとり服を着替え、わずかな化粧と授業の準備をして家を出る。時刻は普段と同じ「8:30」で、2限目には余裕で間に合うだろう。

 家を出てから5分後にはバスに乗り、そのまま大学の前まで運ばれる。眠気からのあくびを噛み殺しつつバス停から校舎へ歩いていると、前方に見知った背を見つけた。


「んー、追いつけるかな」


 わずかに歩速を上げるとすぐに追いついた。細身で中背、お嬢様風のスカートを身につけたいつも通りのミカ。声をかけようとして——私はその場で立ち止まった。


 彼女は、ミカ。私の友人であるミカ——のはずだったのに。



「なにこれ、どういうこと……?」



 ”ワタシ”という記憶は、ミカを知らない。ミカという人物の顔も声も、いつ出会ったかも——そもそも、友人だったのかすらも知らない。


「なに、何なの……私、いったい」


 すぐ前では”ミカ”が気味悪気にこちらを見ている。それはそうだろう。彼女にとっては”知らない人間がすぐ近くで独り言を呟いている”のだから。


「きもち、わるい」


 吐き気がした。あの子も、あの子も、あの先生も、道の向こう側にいる幼稚園児も。





 ワタシにとっての”友人”であり、下手をすれば家族”だった”はずだ。





 ならば今は、なんだというのだろう。この記憶は一体誰のものなのだろう。





 何が起こっているのかわからない。しかし私の中には確かに、忘れたはずの記憶がある。それはひとつふたつではなく、数え切れないほどの膨大な量で。


 とても授業を受けられる状態ではないため、私はくるりと振り返りバス停へ急ぐ。背中に刺さる”知らない人”の視線を気にする余裕はどこにも無い。自宅に着いた途端に胃の中のものを吐き出し、私は意識を失った。









 ベッドの上で膝を抱えて、ガタガタと震える。


 先ほどから携帯が鳴っている。これは一体誰からの着信なのだろうか。トモコ。その名前だけで、記憶の中には何十人もの候補がいる。それでも”ワタシ”はただ1人を思い浮かべていて、それが気持ち悪い。その1人の顔は、見たことのないはずの顔だった。


 やがて電話は鳴り止み、部屋には静寂が訪れる。


「怖い……怖いよ……」


 ひとつずつ、ひとつずつ。目が覚めるたび、何かが消えて何かが増えている。両親に頼ろうとも”両親”が誰だかもわからない。

 今ではこうして膝を抱えている間にも自分が作り変えられていることがわかる。


 そう、作り変えられているのだ。まるで打ち込んだ文章をデリートして書き換えるように、いとも簡単に”ワタシ”というデータを作り変えている”誰か”がいるのだ。



 私の好物は卵。いや違う、キャベツ。いやいや、鶏肉。

 あのスニーカーは先週買ったもの。いや違う、故郷から持ってきた年代物。



 ——故郷ってどこだっけ?



「なんなのよぉ……」


 いつからこうなってしまったのだろう。それは思い出せないほど前のことだったのだろう。ただ今は、いつか”スカートを買い忘れていたことに気づいた”ことをなぜか思い出している。

 限界なのだろうか。フラフラとする視界には勝てない。ちがう。もう勝たなくてもいい?


「あれ」


 そのとき、最後の変化が私に訪れた。





「ワタシ、誰だっけ……」




 ワタシはワタシを、ワタシとして生きていることを”忘れ”てしまった。









「課長、バグの修正が完了しました」

「うん、ご苦労様。今回のバグは手強かったみたいだね」

「そうなんですよー。何度も何度も同じところで引っかかってて、消しても書き換えてもエラーが出ちゃいまして」

「そうみたいだね」

「はい。結局最後は力技みたいに消しちゃったんですけど、とりあえずのテストでは問題ありませんでした」

「どう? 明日にはSTに回せそう?」

「そうですねぇ……後輩たちの残務が片付けば問題ないかと」


 課長、と呼ばれた中年の男が、優しげな表情で大きく頷いた。


「わかった。皆休日出勤もしてくれたし、代休の許可を取っておいたよ。各人4日ずつ、チームで相談して調整してね」

「うわ、ありがとうございます! 課長は……」

「僕は後でいいから」

「わかりました。残務処理を手伝いがてらちょっと相談してきますね」


 いそいそと自席へ戻る30前後の男を”課長”はニコニコと笑いながら見送る。


 彼らの職務はゲーム製作。どのようなパラメーターを与えても解消できなかったバグが、先ほどようやく解消されたのだ。2週間でどれほど試行錯誤したかを数えることすら恐ろしい。


「さて、一通り落ち着いたらみんなで打ち上げでもしなきゃですねー」


 そうして閉じられた障害管理票、その中に”あった”バグはそのまま誰の意識にも残らず、永遠に消え去った。




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