差別
差別。
改めて言うまでもなく難しい問題なのだけれど。
最近これについて考える機会が非常に多い。
私はその昔、ガラにもなく小学校の先生なる仕事についていた。
今あらためて振り返ってみても、目の前の仕事をルーチンワーク的にこなすのが精いっぱいの、まあいわゆる一つのダメ教師であったことは疑いようのない事実なのだけれど、そんな私が時折耳にしては納得いかない思いを抱えていた言葉の一つが「やっぱり子ども産んでないとね」というものだった。
「いっぺん子ども産んでみないと、子育てのホントのところなんて分からないよね」
「やっぱり子ども産んでみて初めて分かることってあるよね」
先輩の先生方がポロリともらすこうした言葉はもちろん私に向けて発せられたのではなく、過去の自分を振り返る中で抱いた感慨に過ぎないのだろうけれど、自分の仕事に自信もなく、当然子どもなど産んだ経験もなかった私は、その言葉が耳に入るたびささくれ立った神経をふわりと逆なでされるような心地がしたものだった。
実際、子どものいない教師に対しこの言葉を侮蔑とともに投げつければ、それは明らかに「差別発言」になり得るんだろうと思う。
そんな私も、どういうめぐりあわせか子宝に恵まれることになった。
赤ん坊に接した経験の全くなかった自分にとって、育児は毎日が新しい経験の連続だった。寝ない食べない泣き止まない、吐いた熱が出た便が出ない、公園デビューに幼稚園の弁当作り……次々降りかかってくる新しい出来事に必死で対応しながら夢中で毎日を過ごし、ようやく少し日々に余裕が生まれた頃、再び教育に関わる仕事をする機会に恵まれた。
で、驚いたのだ。
何に驚いたって、自分の変わりように、だ。
ダメ教師をやっていた頃は茫洋としてつかみどころがなかった子どもたち一人一人の動きが、手に取るようにわかるのだ。
子どもの体調がつかめるようになったのも、その一つの例だ。
ダメ教師やってたころは、子どもが体調不良を訴えてくると即座に保健室行きを指示していた。わからないからだ。そういう訴えの裏にある「子どもの思い」に気付けないから、「お腹が痛い」「頭が痛い」という訴えを額面通り受け止めることしかできないのだ。
分からないから怖い。もし何かあったら…と思うと、大したことないだろうと思いつつも、念のため保健室行きを指示せざるを得なかった。
だが出産後はなぜか、「ああ、友だちと喧嘩したから気持ちが折れちゃってるんだな」「給食で苦手なモノが出るんだな」「あ、これマジで具合悪そうだから早退考えた方がいいかも」など、子どもの様子を見てある程度察しが付くようになった。そしてそれは大方外れていなかった。我が子の体調不良に多々接した経験が生きているんだろうと思う。
もちろん、「何言ってんのそんなこと子どもがいなくたって察せるのが普通だし、先生たるものそうでなくちゃ」と仰る方もおられるだろうし、実際、私と同じ子なしの若い先生でも、きちんと子どもの体調を把握しお仕事されていた方もおられた。私は相当にダメ教師だったから、これはきっと極端な例なのだろうと思う。
ただ一つ言えるのは、私に向かって「やっぱり子ども産んでないと」と仰った先輩教師は、私と同じとは言わないが、そういった思いを抱くに至る経験を何かしらしているということであり、「子ども産んでないとね」という発言は、少なくとも私にとってはある意味非常に的を射た指摘であり、事実であったということだ。
つまり、あの頃この言葉を侮蔑とともに投げつけられたとしても、少なくとも私に関してはそれは事実であり、差別には当たらなかったということになる。
だが、そんなことを言われれば当時の私は「差別だ」と烈火のごとく怒っただろうし、言葉を投げてきた人物との関係は修復不可能にこじれてしまった可能性もある。
事実が相手にとって事実と認識され受け入れられない限り、たとえそれが事実であったとしてもそれは差別となりうる。
ことほど左様に、差別は難しい。