09◇X03夜闇降臨2
☆☆☆
シーリンは地球に来ても、やはりシーリンだった。
屋敷の中での定位置は三ヶ所だ。
寝室。居間のソファー。サンルームのカウチ。
惜しくも次点の準定位置は書庫に持ち込んだソファー。
特に居間のソファーは素晴らしい。
妻は値段に慄いていたが……。
怠惰に寝そべりダラダラとテレビを観たり、書庫の本を読んだり昼寝したり、本を沢山読みたい時は書庫のソファーに寝そべる。
サンルームでは日向ぼっこしながらお茶を飲んだり本を読んだり昼寝をしたり。
妻はカウチの値段に慄いていた。
寝室では惰眠を貪ったり本を読んだり、もちろん昼寝も普通にする。
やはり妻は寝台や寝具の値段に慄いていたが。
人それぞれ、値段を気にせず品質を追求する品があるだろう。シーリンの場合は、それはズバリ寝具の類いである。
――やはり奥さんは女性だから宝石とかドレスの方が好きだろうか?
自分は寝具やソファーを満足行くまで追求したから、奥さんにも何か追求したいものを贈りたいかな?と、シーリンは少し的外れな事を考えた。
もちろん、考えに浸る場所は、快適を追求したソファーの上である。
「……はて?国とまったく変わらない生活のような?」
時折、少しは動かないとなあ、と散歩に行くのも同じである。
ただ、向こうでは何人かいた愛人が、こちらには居ない。何人かいた妻もこちらには居ない。
けれど。
向こうでは、ずっと眠っていた妻が、こちらでは起きて動いて愛してくれる。
「それで充分だ。」
うっとりと、倖せに浸るシーリンであった。
屋敷の手入れや自分の世話をする使用人も、何人か雇い入れたシーリンである。
妻は「何故か」使用人が傍にいると落ち着かない様子なので、基本的に使用人たちは「奥様」には最小限しか接触しない事になった。
殆どがコチラの世界での実力者、聖野一族の紹介ではあったが、例外も存在する。
「陛下。」
「ん……。」
シーリンを無理に起こす人物はコチラでは妻だけだ。故郷では兄を筆頭に何人かがシーリンの睡眠を邪魔したが、コチラの世界でシーリンの怠惰を非難する声はナイ。
――責任がナイって素晴らしい。
その立場に見合う責任など、背負った事も無い癖に、シーリンは思った。
目が覚めて、猫のように伸びをする。
モソモソと上体を起こすと、侍女が背中に枕を重ねてあてがった。
口元に差し出されたグラスを掴み、ゆっくりと舐めるように飲む。
酸味の強い液体は、コチラに来てからお気に入りとなった、梅酢ベースの爽やかなドリンクである。
呼び掛けられてグラスを避けると、胸元に手巾を当てられ、どうやら零したと知る。
されるがままのシーリンは、妻から見たら完璧に駄目人間だった。
「あれ?奥さん仕事は?」
「今日は土曜だから休み。」
「じゃあ1日一緒に居られるのかな?」
シーリンは嬉しそうに笑った。
妻はシーリンの笑顔に何やら吐き捨てるように小さく呟き、首を横に振った。
「いや。ちょっと用事があるんでね。出掛ける前に顔でも見ようかと、来ただけ。」
寝室は別である。仲良くした夜はたまに一緒に眠るが、妻は「他人」と同じ部屋では眠れないと告げ、屋敷に来た当初シーリンにちょっとした衝撃を与えた。
シーリンはその日、ちょっぴり傷付いたのである。
すぐに出掛けると云う妻に、シーリンはションボリした。
「そっかあ。」
「因みに泊まり。」
「……そっかあ。」
更にションボリした。
あっさりと出掛けた妻は、おはようのキスさえ与えてくれなかった。
いつもの事だが、ちょっぴり寂しいシーリンであった。
「陛下?」
「ん。」
飲みさしのグラスを膝の上に抱えていると、そっと窺うように声を掛けられ、飲む気もなくして素直に手渡した。
「うちの奥さんてクールだよねえ?」
「ベタベタなさる方はお嫌いだから丁度宜しいでしょう。」
「………ベタベタする人嫌いなの?」
自分の事だがシーリンは訊き返し、侍女は淡々とした表情で頷いた。
「私はそう拝察致しました。」
「ふうん?ところで、今更だけど、呼び方変えてね?」
「畏まりました。」
「他の人にも云ってね?」
「畏まりました。」
地球に来て約二ヶ月。
云おう云おうと思いつつ、機会を逸していた、と云うより、云うべき時には忘れていた一言を告げて、シーリンはひとつ仕事を終えた気になった。
「朝食は如何なさいますか?」
「ん……食堂行く。」
エリジュアスの「すべて」を捨てて来た筈なのに、自分にずっと仕えて来た人間の何人かは、それこそ「すべて」を捨てて追いかけて来た。
「ねえ。カナリは何で付いて来たの?」
「………」
侍女はシーリンをじっと見つめた。シーリンがよく向けられる眼差しである。二ヶ月も経って訊かれるとは思わなかった、と顔に書いてある。
シーリンはじっと見返した。
主人を不躾に凝視した事に気付き、侍女はそっと目を伏せた。
「失礼を。私は陛下に………旦那様に身を捧げてお仕えすると、誓いを立てた故にございます。」
「……ふうん。」
捧げられちゃってるのかあ、とシーリンは思った。シーリンは怠惰だが、神々の寵愛の深さ故に、宗教的象徴の様に拝まれる事は珍しくない。
王としてのシーリンが畏敬される事は無かったが、神々の愛し子としては崇拝者に事欠かなかった。
昔から自分に仕えていた侍女もその一人だったようである。
「みんなもそうかな?」
「他の方は存じません。が、恐らくは。」
「ふうん。」
感応力に優れた侍女が云うなら、その「恐らく」は殆どの場合「絶対」に近い。
便利な侍女が付いて来てくれて、ちょっぴり嬉しいシーリンだった。
シーリンの場合は怠惰が勝り、配下の能力を有効に活用する機会は先ず無い。
宝の持ち腐れと云えるだろう。
二ヶ月前、シーリンは玉座を放り投げ、国を放置して、妻たちを子供たちを捨てて、属する世界さえ捨てて、地球に来た。
云うは易し行うは難し。そんな事は普通出来ない。妻はそれが出来ず、だからシーリンがした。
シーリンでさえ、それはどうだよ?と思う行動だった。
――神様の所為…かな。
愛情があった筈の妻たち。子供たち。国はまあ、兄がいるから別に良いとしても、知識でしか知らない世界への移住をアッサリ決意した自分を、シーリンは思い返す。
本当にアッサリ決意したのだ。
物事を簡単に決める嫌いはあるシーリンだが、それでも異常な程に。当たり前に。ただ一人の女性として、彼女を選んだ。
神に操られた心を、シーリンは自覚している。
眠り続ける妻を見つめた日々に、既に自覚していた。
少しずつ、すべてが色褪せ、少しずつ、妻を取り巻く空気が鮮やかに煌めいた。
熱烈な恋とはこういうものか。
そうシーリンは考えた。
当然のように、神の作為を意識した。
――何を為さりたいのか。
ちらりと感じた考えは不敬と云うものだったろう。
神の意思を勘繰るなど、不遜の極みとも云える。
だが。
眠る姫は媛の力を緩やかに放射し、馴染みの女神は、その力に見あわないくらいの下位を装う。
装い切れない茶番劇は皆承知で、だからこそ、周囲は女神に対応するシーリンの姿を見ただけで、シーリンの意思を無視した。
――うん?普通は逆じゃないか?
普通は、意思を尊重されるようになるべきでは無かろうか?今更ながら、シーリンは考えて首を捻った。
最初は、シーリンが王位に就く事に意味が有るのかと考えた。
現在こうして地球に来ていると云うことは違ったのか、それとも意味は有ったがシーリンに意識されないだけで、既に役目を終えたのか。
はたまた、一応は未だ王だから、此れから何か有るのか。
つらつらとシーリンは考えるが、結論も感想もひとつだった。
「まあいっか。倖せだし。」
普通ならば重苦しくなる考察も、シーリンにとっては日常のひとつでしかない。冷たいお茶とジュースのどちらを飲むか、どちらも好きだけど今日はジュースかな?そんな選択をする時と全く変わらぬ程度の問題でしか無いのだ。
神々の寵愛を受ける者は、例外なくある種の精神乖離がある。それを「壊れる」と表現する者もいる。
普通の人間が、神の寵愛に耐えられ無いから、とも云われる。
高位の神から深い寵愛を享ける者なら、それは必至の事であり、常識とも云えた。
だからこそ、シーリンの怠惰を皆が受け入れたとも云える。
神の寵愛深い方はオカシイところが有るから………、と口に出せば不敬だが、先ず間違いなく誰もが無意識に感じている事には違いない。
実際のところ、シーリンは真実怠惰なだけだったのだが。
周囲の誤解はある意味で潤滑剤。より良い関係を構築する善き原料であった。
ではシーリンは「壊れ」ていないのか?もちろん、壊れている。
シーリンは「深刻」さを知らない。「恐怖」を知らない。
シーリンは自分では全く気付いていないが、最高神に拝する「資格」をその資質として内包していた。
壊れて無かったなら、その瞬間に、精神が崩壊していただろう。
「恐怖」故に――。
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